駿府城

駿府城(すんぷじょう)は、静岡県静岡市にある、江戸幕府を開いた徳川家康が幼少期と晩年を過ごし、大御所として天下の政治を行った「終焉の城」です。
三重の堀を持つ広大な平城で、現在は東御門や巽櫓が復元された「駿府城公園」として親しまれ、徳川家康の銅像や発掘された巨大な天守台跡が見どころです。最近では天守の絵図が発見され、徐々に巨大城郭の全容が明らかになりつつあります。

駿府城の見どころ

観光ポイント

徳川家康は征夷大将軍を息子の秀忠に譲り、大御所として駿府城を改修して居城としました。家康は城下町を整備して、駿府は一大都市として栄えました。また、徳川家康は幼少期を今川家の人質として駿府城で過ごしました。
静岡市内には幼少期・大御所時代の徳川家康にまつわるスポットが多くあります。特に久能山東照宮は人気スポットです。
海の幸、静岡おでんなどご当地の食が美味しいのも静岡の魅力です。

歴史ポイント

室町時代に今川氏が駿河国の守護に任ぜられ駿府城周辺に今川氏の館があったと考えられています。
徳川家康は天正13年から居城として駿府城の築城をはじめ、天正17年に現在の二ノ丸以内の部分を完成させました。征夷大将軍となった家康は江戸幕府を開き、将軍職を秀忠に譲り再び駿府城の修築に着手。
明治維新後、明治6年陸軍省より保存が必要な城郭に指定されましたが、荒廃したまま放置されていました。戦後、駿府公園として整備され、静岡市民の憩いの場として親しまれています。

遺構ポイント

静岡市の中心部に位置する城郭なので、近代的な市街地と歴史的な遺構が重なり合う姿がが美しくて魅力的です。
東御門、巽櫓、坤櫓が復元されており、かつての姿を取り戻しつつあります。
城郭を囲む水堀は綺麗に残っています。静岡県庁の敷地は、かつての徳川家康が築いた駿府城の三の丸跡に位置しており、周辺には当時の大手門などの石垣や遺構が一部残されています。

坤櫓

東御門

水堀

東御門枡形

巽櫓

天守台

駿府城カルテ

■攻略のレーダーチャート(ポイント)

ポイント

  • 徳川家康が築城し隠居城としたので歴史ポイントは高い。戦の歴史は無く、江戸時代は主に城代が置かれて、大名は統治していない
  • 近年、東御門や櫓などが復元されており、整備が進んでいる。遺構としては石垣や水堀などが残っている。
  • 東海道新幹線「静岡駅」からも近いのでアクセスポイントが高い

平均:78/100 ポイント
合計:465/600 ポイント
おススメ度:★★★★★☆

見どころバロメーター

■静岡県 主要城郭との比較(ポイント)

※全ての城にそれぞれの魅力があります。当サイト独自のデータになります。

写真でめぐる お城ツアー

名城スタンプと御城印

※スタンプ設置場所や営業時間は最新情報をご確認ください。

日本100名城スタンプ設置場所

・東御門券売所:9:00~16:00
・坤櫓券売所:9:00~16:00

御城印販売

・東御門・巽櫓 売店

駿府城 周辺の天気

別名府中城、駿河府中城、静岡城
城郭構造輪郭式平城
天守構造天正期:連結式 (1589年築)
慶長1期(1607年再)
慶長2期:連立式層塔型5重7階(1610年再)
(いずれも非現存)
築城主徳川家康
築城年1585年(天正13年)
主な改修者徳川家康
主な城主徳川氏、中村氏、
内藤氏(松平氏)
廃城年1869年(明治2年)
遺構石垣、堀
指定文化財なし
再建造物巽櫓、東御門、坤櫓

写真で見る駿府城

東御門と静岡県庁
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東御門と静岡県庁
巽櫓と東御門
東御門
東御門多門櫓と巽櫓
坤櫓
東御門 桝形
東御門 鏡石
東御門
東御門 桝形
巽櫓
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マップ

アクセス

公共交通機関
・JR東海道本線/東海道新幹線「静岡駅」徒歩約10分

■車・バイク
・東名高速道路「静岡IC」から約20分

駐車場
・静岡市民文化会館前駐車場
・公園周辺に有料駐車場あり

駿府城の歴史

今川館時代

14世紀に室町幕府の駿河守護に任じられた今川氏によって、この地には今川館が築かれ今川領国支配の中心地となっていた。

永禄11年(1568年)、武田信玄の駿河侵攻にて、今川氏真の今川館は焼失。

ただし、今川館が現在の駿府城と同じ場所であったことを示す史料は無く、むしろ1982年に行われた駿府城の二ノ丸跡の発掘調査によって見つかった戦国時代の遺構はその規模から今川氏の重臣の邸宅跡と考えられたことなどから、後世の駿府城よりも西側の地域に今川館があったとする推測が強くなっているが、具体的な位置については現時点では不明である。

安土桃山時代

今川領国が武田領国化されると支配拠点のひとつとなるが、武田氏は1582年(天正10年)に織田・徳川勢力により滅亡し、駿河の武田遺領は徳川家康が領有した。

天正13年(1585年)から徳川家康により、駿府城は近世城郭として築城し直された。この時に初めて天守が築造されたという。そして翌天正14年(1586年)に家康が、自身が17年過ごした遠江国浜松城から駿府城に移った

その後天正18年(1590年)、豊臣政権による後北条氏滅亡に伴う家康の関東移封が行われ、徳川領国と接する駿府城には豊臣系大名の中村一氏が入城。一氏は関ヶ原の戦いの直前に死去する前、徳川方の東軍につくことを決め、戦いの後に嫡子の中村一忠が伯耆に転封されたため、駿府は内藤信成が治めた。

江戸時代

江戸時代初期、家康は徳川秀忠に将軍職を譲り、駿府藩を治めていた内藤信成に代わって駿府に隠居した(それにより駿府藩は一時的に廃藩となった)。政治的影響力を持ち続けた家康は大御所と呼ばれた。

このとき駿府城は天下普請によって大修築され、ほぼ現在の形である3重の堀を持つ輪郭式平城が完成した。1607年(慶長12年)に、城内からの失火により、完成して間もない本丸御殿を焼失したが、その後直ちに再建工事が開始され、1610年(慶長15年)完成した。

天守台は、石垣上端で約55m×48mという城郭史上最大級の規模であった。天守曲輪は、7階の天守が中央に建つ大型天守台の外周を隅櫓・多聞櫓などが囲む特異な構造となった

1609年(慶長14年)に家康の十男・徳川頼宣が50万石で入封し駿府藩が復活したが、1633年(寛永10年)以降は明治維新まで幕府の直轄地となり駿府城代が置かれた

駿府城の構造

縄張り

駿府城は北にある賤機山と東にある谷津山の稜線を延長した線が交わる位置にある。西には安倍川と藁科川があるが、城下まで流れていた前者を、慶長期にいわゆる薩摩土手により流路を変更させ合流することで、城下町の治水と西への防備とした。北西には淺畑沼が広がるが近世以降は徐々に耕地化された。沼からの流れは巴川として清水湊に繋がり、水運として活用された。

慶長期以前の縄張は不明な点が多いが、発掘調査により天正期天守台は慶長期天守台より一段奥まった位置にあった。また『当代記』には慶長期の二の丸にあった竹腰正信の屋敷は天正期は井伊直政の屋敷として二の丸の外にあったとされ、慶長期と比較して一周り小さい規模だった。

家康の隠居城としての改修は当初は天正期の城より南の河野辺に新規築城する計画だったが、その後に従来の城を南北へ拡張する形に変更された。大改修が行われた駿府城は、輪郭式平城として本丸を中心として二の丸・三の丸が同心円状に巡る縄張で、何れも石垣と水堀が巡っている。ただし三の丸は本丸・二の丸に対して少し傾いている。

本丸は北西に天守台が南に正門として玄関前門、東に台所門、北に天守下門があり、何れも枡形を形成している。この基本構成は同時期築城の名古屋城本丸と全く同一であり、また天守台の位置が不明で土塁造りではあるが高田城本丸とも類似している。両城は共に家康の子(徳川義直・松平忠輝)の居城として築城された。

二の丸は仕切り石垣で複数に区画されており、これは徳川大坂城や寛永度二条城二の丸と同様の構造である。四方に枡形門(南:二ノ丸門(正門)、東:東門、北:北門、西:清水門(跳ね橋))を構え、また本丸と二の丸の水堀を繋ぐ水路があり、二の丸の出口は水門と櫓で厳重に守られていた。二の丸には本多正純や竹腰正信の屋敷、本丸の台所門出口に接する西には台所や米蔵があり、また南西は西の丸と呼ばれ秀忠が駿府に赴いた際に使用した御殿があった。北には馬場と庭園があった。

三の丸は、南に二箇所(東側大手門、西側:四足門)・東に横内門・北に草深門があり、家康の隠居城時代は能楽専用の屋敷があった以外は屋敷地として使用され、幕府直轄期は城代・定番・在番等の屋敷地となった。二の丸と三の丸を繋ぐ水路もあり、西の横内門を通って三の丸の堀と繋がっていた。何れの水路も船の往来は不可能だった。

天守

駿府城の天守は3度建てられた。まず、天正年間(1573年-1592年間)または天正17年(1589年)に建てられた天正期天守。次が、1607年(慶長12年) の慶長1期天守でこの天守は完成後まもなく焼失した、もしくは建築前に本丸が火災に遭い中止したと見られる。最後は、1608年(慶長13年)に再建された慶長2期天守である。1896年(明治29年) まで現存した天守台は、この慶長2期のものである。

天正期天守に関しては、『家忠日記』に小天守があったという記録があり、発掘調査で基底部が東西約33m、南北約37mの大天守台(中央に井戸、南に出入り口を確認)と東側に渡櫓台に接続する小天守台が、また大天守台南西に金箔瓦が確認された。慶長1期天守は発掘調査で基底部が東西約63m、南北約69mの大天守台が確認され、江戸後期の絵図と同じ規模であると確認された。このため後述する慶長2期の天守は慶長1期の天守台を用いたが、本丸内部の天守台を中心に築き直した跡がある。天正期・慶長1期共に天守の建築に関する資料は乏しい。

そのため、現在主に研究対象とされているのは、駿府城最後の天守となった慶長2期天守である。大日本報徳社蔵の『駿州府中御城之図』より、淀城の天守と同じく天守台に余裕を持たせて天守をほぼ中央に建て、4隅に二重櫓を建てて多聞櫓を建て廻したという説が最も有力とされている。この説に対して、2階に廻縁高欄があること、家康が富士山の眺望を無視するはずがないことなどから八木清勝は疑問を指摘している。なお後に確認された『伝酒井家旧蔵 駿府御城内絵図』も『駿州府中御城之図』と同じ構成をしており、いわゆる環立式天守になる。

水戸徳川家が相続した家康遺産の目録には、遺産が元々あった駿府城内の場所が記載されている。この中に「御天守 穴蔵 御天守 らんかん(欄干)のひさし(庇) 穴蔵二階」とあり、これに従えば落縁や欄干のある1・2階は穴蔵の体裁となるため、形式的には5重5階地下2階となる。この他に「御天主 とりつき(取付)二階」「穴蔵取次之榔下」とあり、『駿州府中御城之図』にも描かれている天守台外周上の多聞櫓と天守を繋ぐ渡櫓は2階建てになる。

外見は狩野探幽筆『日光東照社縁起』(日光東照宮蔵)や住吉如慶筆『東照宮縁起絵巻』(紀州東照宮蔵)に天守の最上階から下3重目までの外観が描かれている。また駿府築城の様子を描いたものとされる『築城図屏風』(名古屋市博物館所蔵)に三重櫓を伴う重層な天守が描かれているが、近年では、金沢築城の様子であるという説が有力視されている。

なお慶長2期天守の完成後、家康は天守の窓戸から雨のように水が漏れると苦情を漏らし、名古屋城天守も同じ状態にならないことを求めている。

移築建築物

駿府城のお万の居間が移築され、静岡県三島市にある妙法華寺の奥書院として現存している。これが駿府城唯一の現存建築物であり、三島市文化財に指定されている。なお、一般には公開されていない。

駿府城 周辺スポット

久能山東照宮

徳川家康の遺言によって造られ、家康を御祭神とした祀る日本で初めての東照宮。
二代将軍 秀忠の命によって創建され、平和の守護神・国家鎮護の神として崇敬を受けてきました。荘厳華麗な社殿は国宝に指定されている。

マップ

小梳(おぐし)神社

ビルが立ち並ぶ繁華街にありながら、一歩境内に入れば街の喧騒を忘れるほどの静寂が広がっています。かつては駿府城内にあり、人質時代の竹千代(家康公)が祖母・源応尼と共に、日夜武運を祈った場所でした。

駿府城築城後は「城の守護神」とされましたが、のちに家康公が大御所として再び駿府へ戻る際、城の拡張に伴い現在の地へと遷されました。

静岡浅間神社

家康公が14歳で元服の儀を執り行い、武将としての第一歩を踏み出したのが、この静岡浅間神社であると伝えられています。
当時、今川氏のもとにあった公は、今川義元公を烏帽子親として成人を迎えました。その際、義元公から「元」の一字を賜って「元信」と名乗り、あわせて義元公が新調した「腹巻(鎧)」を授かったというエピソードが残されています。この腹巻のレプリカは、神社のすぐ近くにある「静岡市歴史博物館」に展示されており、家康公の若き姿に思いを馳せることができます。

臨済寺

今川氏の菩提寺であり、人質となっていた徳川家康公が居留していたお寺でもあります。本堂は国の重要文化財に、庭園は国の名勝にそれぞれ指定されます本堂の中の「大龍山」と書かれている書は、徳川慶喜公によるものとされます。また今川義元公と今川氏輝公の木像があります
※境内は拝観自由ですが、僧堂は修行僧の専門道場となっているため通常は拝観はできません。年2回、春と秋には特別拝観の一般公開日が設定されているので、その日だけは中に入ることができます。

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