山中城

山中城は、戦国時代末期の永禄年間(1560年代)に、小田原に本城をおいた後北条氏が築城しました。

その後天正17年豊臣秀吉と不仲となった北条氏政は、秀吉の小田原攻めに備え、急遽堀や岱崎出丸(だいさきでまる)等の整備、増築を行ないました。

しかし翌天正18年(1590年)3月29日、増築が未完成のまま、4万の豊臣軍の総攻撃を受けました。

北条軍は4千で、必死の防戦もかいなく鉄砲と圧倒的兵力の前にわずか半日で落城したと伝えられています。

見どころ

■北条築城術を代表する、西ノ丸周辺の大規模な障子堀
■二の丸、本丸を囲む堀
■北ノ丸の断崖絶壁の切岸
■出丸に復元ざれた一ノ堀

名城スタンプと御城印

※スタンプ設置場所や営業時間は最新情報をご確認ください。

日本100名城スタンプ

■山中城跡売店内(営業時間外でも押印可)

御城印

■山中城跡売店内

山中城パンフレット

三島市観光協会によって作成された山中城の公式パンフレット

山中城周辺の天気

城郭構造山城
天守構造なし
築城主北条氏康
築城年永禄年間(1558年~1570年)
主な改修者北条氏政
主な城主松田氏
廃城年1590年(天正18年)
遺構曲輪、堀、土塁
指定文化財国の史跡

訪城レポート

2025年11月22日:初訪城

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歴史

永禄年間(1558年 – 1570年)に北条氏康により築城される。北条氏の本拠地である小田原の西の防衛を担う最重要拠点で、城は東海道を取り込む形で造られていた。

北条氏政の代に豊臣秀吉との関係が悪化すると、山中城は改修し防備を固めることになるが、結局間に合わず未完成のまま豊臣軍を迎える。

1590年(天正18年)、小田原征伐で豊臣秀次率いる6万8千の軍勢が山中城を攻撃、守将は北条氏勝、松田康長、松田康郷、蔭山氏広、間宮康俊ら3千。間宮康俊は寄親北条氏勝等を撤退させて自らは手勢200を率いて三ノ丸~岱崎出丸辺りで豊臣方に苛烈に抗戦した為に、豊臣方も部将の一柳直末など多くの戦死者を出した。

しかし戦力差甚だしく猛烈な力攻めの結果わずか半日で落城し、北条方の松田・間宮などの武将や城兵の多くが討死した。戦後、城は廃止された。

1930年に国の史跡に指定された。1973年から三島市が公園として整備をはじめ、合わせて学術的な調査もなされた。

2006年4月6日、日本100名城(40番)に選定された。

遺構・整備

幅広の障子堀、胸壁上の小さな土塁、ラインと堡塁を連鎖させたプラン、平坦面の形成にこだわらない曲輪といった山中城のパーツ群は、火器の集中配備・火力の有効発揮を前提に城が成立していることを示す構造上の特徴として評価される。

三島市によって当時を反映した整備改修がなされ、堀や土塁などの遺構は風化を避けるため、盛土による被履の上芝を張って保護し、畝堀や障子堀の構造が明確に把握できるように整備されており北条氏の築城方法を良く知ることのできる城跡となっている。また、建物の木造復元計画はない。

マップ

静岡県三島市山中新田字下ノ沢

交通アクセス

JR・伊豆箱根鉄道三島駅から元箱根方面行き東海バス(約30分)

山中城周辺のスポット

箱根関所

江戸時代交通史の重要な史跡、箱根関所。当時の匠の技や道具を使い、およそ140年の時を経て、再び芦ノ湖畔に復元。

今も昔も箱根の旅はここ箱根関所を越えていきます。

旧街道 石畳

箱根旧街道は江戸時代の箱根越えの道で、通称「箱根ハ里」で知られる天下の難所でした。

この急坂の多い山道は江戸時代初期、幕府の官道として整備されましたが、すねまでつかる泥道のため当時では近代的な石畳道を完成させました。

国指定史跡

三嶋大社

三嶋大社は約2900年前に発生した富士山の大崩壊に伴う土石流堆積物の上に位置しています。大鳥居から境内に入ってすぐ右手に置かれている「たたり石」もこの土石流によって運ばれてきた大石です。

源頼朝が源氏再興を祈願したことでも知られています。

三島市のグルメ

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