中津城@大分県

2025年6月14日
昨日の小倉城に続いて、今日は大分県の中津城に向かいました。
朝7時頃にホテルをチェックアウト。
JR日豊本線で約1時間の電車旅。2週間前からずっと天気を見ていましたが、やはり本日は予定通りの雨。
予報よりは雨量が少ないように思えたのでまだラッキーでした。

中津駅に降りると、やや天気は不安定でしたが雨は降っていませんでした。
福岡城と久留米城に行くパターンと、萩城に行くパターンなど、天気を考慮して何日も前からずっと考えていたのですが、中津城方面を選択したワタクシの戦略勝ちです。
中津駅前には観光案内図があります!
家紋がカッコいいので写真に残しました。
中津城まではゆっくり歩いて15分程度。城までの看板は充実しているので、初めて観光で来た人にとってはとても親切な街だと感じます。

中津市内には寺町があり、城下町内に寺が密集しています。
その中で一際目立って強烈な印象なのが合元寺。
壁が赤色なのが珍しい。
合元寺は黒田官兵衛によって建立。
宇都宮氏が騙し討ちにあい、この寺を宿舎にしていた家臣たちも全員討死しました。
その際に血潮を浴びた壁は、何度塗り替えしても血痕が浮き出るため、赤壁に塗り替えたと言われています。

中津城へ向かう途中の南部小学校の前に、石垣を発見!
ここは大手門跡で、枡形の城門がありました。

慶長期の野面積みですが、昨日訪城した小倉城同様に一つ一つの石が大きい。
鏡石らしき巨石も使われています。
この辺りは当時は堀がありましたが、今は埋め立てられて道路となっています。

南部小学校を通過し右に曲がると黒御門跡があります。
特に遺構があるわけではないのですが、黒御門を更に90度曲がると本丸なので、何度も折れ曲がるこの道路は当時の名残だと考えられます。

黒御門の先には椎木門があり、鳥居を抜けると本丸となります。
写真は本丸内部から撮った椎木門。

椎木門と連なる石垣は本丸を囲む防衛ラインなのでかなり立派な石垣で形成されています。
個人的にはこれだけでも十分テンションが上がり、楽しめてしまいます。

椎木門の石垣に刻印石を発見しました。
「田」の文字が刻まれています。

本丸は現在駐車場と神社になっており、神社があるあたりは上段、駐車場は下段となっています。

駐車場側の本丸南側石垣と水堀。
椎木門や大手門に比べて石材は小さめですが、野面積みの美しい石垣が連なっています。

石垣は途中で折れ曲り、出隅と入隅の芸術的な石垣を目の前で見ることができます。
隅石を見ると石垣の城が普及し始めて間もない時代の石垣だと思われます。
綺麗に形成された算木積みも良いのですが、この時代の直線的な勾配の隅石もまた良きです。

石垣上からのショット。
織田信長が総石垣の城 安土城を築城したのが1579年頃。
ここから城という概念が変わり、権威の象徴という新しい意味合いを持つようになりました。
1600年の関ヶ原の合戦から1615年の大坂夏の陣まで、軍事緊張が高まったこの期間は日本では築城ラッシュとなります。
その中で石垣技術も飛躍的に進化を遂げることになります。

椎木門側の本丸南側石垣。
中央にある橋は当時はなかったものですが、近代に石垣を壊して道を通しています。
今でこそ石垣一つとっても貴重な遺構とされていますが、当時はその価値観がまだ無かった為、日本全国で多くの城の遺構が失われました。

本丸には模擬天守と大鞁櫓が並びます。
本来は中津城には天守はなく、昭和39年に鉄筋コンクリートで造られました。
天守の隣には奥平神社が鎮座。

大鞁櫓の石垣。
植物が多くて、かなり見えずらい。

現在の大鞁櫓は天守と同じタイミングで建築されました。
当時この場所には二重の本丸東南隅櫓があったので、復興櫓になるのでしょうか。
古写真も残っているので、ややもったいない感はありますね。

現在、天守内部は奥平歴史資料館となっています。
改装されて現在はプレオープン中。
入館料は1000円なので、なかなかお高め。

内部には幕末まで中津を納めた奥平家の貴重な資料などが展示されています。
これは想像していよりも良いものを見れました。

中津城天守から見た薬研堀。

同じく天守から見た中津川。
奥には海が広がります。河口沿いに築城し、東は二重、南は三重の堀で中津城を防備していました。
中津城は今治城、高松城と並ぶ日本三大水城。
快晴とはなりませんでしたが、雨予報だったにも関わらず曇りだったのが救い。

薬研堀と天守。
現在は中津市のシンボルとなっています。

模擬天守とはいえ迫力があります。
ちなみに中津城の天守は萩城をモデルに造られたと言われています。
萩城の天守は明治に破却され現在はありません。
しかし、ちょうどこのアングルから撮影された古写真が残っています。
石垣からせり出した、はね出し建築と呼ばれるスタイルもそっくりです。

天守脇の本丸北側の石垣には、石垣の継ぎ目があります。
積まれた時期が異なり、右側は黒田氏時代の石垣で左側は細川氏時代に積まれた石垣と考えられています。

黒田氏の時代は本丸は右側でしたが、本丸を拡張したので、隅石の算木積みが石垣の中に存在しています。
この角度から見ると、天守下の石垣上部は反るように垂直に上がっているのが分かります。
これは角の算木積みの技術が発展したことで、荷重分散が効率的になり、急勾配の石垣が可能になりました。
関ヶ原の合戦以降は、このスタイルが主流になっていきます。
石垣は本当に奥が深いです。

本丸西側の石垣には黒田氏時代の石垣が残ります。
天守下の石垣に比べて、一定の直線的な傾斜で積まれているのは、最初に見た本丸南側石垣と同じですが、石が大きく無骨な感じが迫力があって良いですね。

西側も長距離にわたって石垣が積まれていて、見応えがあります。
天守とは反対側なのですが、中津城に来た際はスルーせずに是非西側も見て欲しいですね。
天守側の石垣とは積み方が異なるので、その違いも比べて頂きたい。
遺構は本丸を中心とした場所にしか残っていませんが、城下など街全体に当時の面影を感じることができます。
中津城の歴史の流れを簡単に説明すると、豊臣秀吉の家臣だった黒田官兵衛は九州征伐の功績によって豊前国6郡を与えられ、中津を拠点に築城を開始します。
完成前に黒田官兵衛は隠居し、子の黒田長政が城主となります。
関ヶ原の合戦後は加増移封によって、黒田氏は福岡に移り福岡城を築城。
以降は細川忠興が豊前一国を与えられて改修と城下町を整備します。
細川氏が熊本に移封になると、小笠原氏が入城。
1666年には奥平氏が入城して幕末を迎えます。
街並みも含めて2時間ほどゆっくり見て周り、次の城に向かうために、10時半頃に中津城を後にしました。
ワタクシは中津城を含めた中津市がとても気に入りました。
街が歴史をしっかりと押し出しているので、ネットで調べなくても至る所にある看板を見ながら、中津市の歴史を見て周ることができます。
そして、ゆったりと流れている時間の流れもワタクシにはフィットしました。
どこの城も全てが魅力的ですが、街の雰囲気が良かったり、街全体に当時の名残が残っていたりすると、より一層城の魅力が引き出されます。
いつか大分の旅をする時が必ず来るので、また中津城には行きたいと思います。