中津城【続日本100名城】

中津城は黒田官兵衛(孝高)によって築かれた城。今治城や高松城と並ぶ日本三大水城のひとつに数えられている。本丸上段にある石垣には黒田氏時代のものを細川氏が拡張した継ぎ目が見られ、中津城の見どころの一つとなっている。
黒田氏時代に築かれた石垣は、現存する石垣としては九州最古。江戸時代中期に奥平昌成が中津藩主となり、明治維新まで奥平家の居城となった。
1964年(昭和39年)には旧藩主奥平家が中心となり、市民らの寄付を合わせて模擬天守(奥平家歴史資料館)が建てられ、中津市の観光名所となっている。
中津城の見どころ

1587(天正15)年、豊臣秀吉は九州を支配下にいれ、自らの軍奉行であった黒田孝高を中津に入国させました。黒田氏は中津城の築城にとりかかり、本丸・二の丸・三の丸とともに城下町を整備。
1600(慶長5)年、黒田氏にかわり入城した細川忠興は、中津城の増改築を行いました。
一国一城令により、豊前国では小倉城以外の
城は破却の危機に瀕しましたが、例外的に中津城は残りました。
1632(寛永9)年、細川氏の熊本転封によって、中津城には譜代大名小笠原長次が入部し、城下町の整備を行いました。1717(享保2)年、譜代大名奥平昌成が中津城に入り、明治の廃城まで、中津藩主の居城として存続しました。

中津川の河口沿いに位置する中津城は、北は海、西は川に面した要衝の地であり、堀の水かさは潮の干満で上下します。
東は二重、南は三重の堀を有し、外堀には「おかこい山」と呼ばれる土塁をめぐらせていました。
現在でも堀と九州最古となる石垣が綺麗に残っており、黒田氏時代の石垣と細川氏時代の石垣を見ることができます。
市街地化のよって大部分が失われているものの、市内の至る所に石垣や城下の区画が残っています。
天守は櫓は模擬ですが中津城のシンボルとして親しまれています。
登城レポート

ポイント
- 中津駅からは歩いて15分ほどなのでアクセスは良好
- 残された城郭範囲は狭く、遺構は石垣と堀の一部なのでポイントは低め
- 天守や櫓、売店など整備は届いており、天守内部の展示物は素晴らしく見ものです。
平均:3.00
合計:18.0
- 遺構:遺構の多さ、貴重度
- アクセス(目安):新幹線が最寄り→5、駅が近い→4、駅から歩いて行ける距離→3、駅から遠いがバスが走っている→2、車が無いと行けない→1
- 満足度→攻城のトータル総評
- 歴史→時代に影響を与えた歴史の舞台→5、有名な武将や合戦があった城→4
- 整備:トイレの有無、城内の解説板、パンフレットのクオリティの評価
- 城郭範囲:観覧範囲の広さと、遺構の残存度。見どころの多さにも直結
※全ての城にそれぞれの魅力があるのは前提での主観的評価になります。
名城スタンプと御城印
■続日本100名城スタンプ
・中津城天守チケット売り場脇
時間:午前9時 ~午後5時(年中無休)
■御城印販売
・天守下の売店で購入
時間:午前9時 ~午後5時(年中無休)

中津城周辺の天気
| 別名 | 中津川城、扇城、小犬丸城、丸山城 |
|---|---|
| 城郭構造 | 梯郭式平城(海城) |
| 天守構造 | 不明 模擬天守(独立式望楼型5重5階 1964年RC造) |
| 築城主 | 黒田孝高 |
| 築城年 | 天正16年(1588年) |
| 主な改修者 | 細川忠興 |
| 主な城主 | 黒田家、細川家、小笠原家、奥平家 |
| 廃城年 | 明治4年(1871年) |
| 遺構 | 石垣、堀 |
| 指定文化財 | 大分県指定史跡 |
| 再建造物 | 本丸下段水堀 |
写真で見る中津城
マップ
アクセス
■公共交通機関
・JR九州日豊本線「中津駅」徒歩15分
■車・バイク
・九州自動車道・小倉東IC → 国道10号線~県道108号線 → 中津公園
・宇佐別府道路・宇佐IC → 国道10号線~県道23号線 → 中津公園
■駐車場
・中津公園 無料駐車場あり
中津城の構造
周防灘(豊前海)に臨む中津川(山国川の派川)河口の地に築城された梯郭式の平城である。堀には海水が引き込まれているため、水城(海城)ともされ、今治城・高松城と並ぶ日本三大水城の一つに数えられている。
本丸を中心として、北に二の丸、南に三ノ丸があり、全体ではほぼ直角三角形をなしていたため扇形に例えて「扇城(せんじょう)」とも呼ばれていた。櫓の棟数は22基、門は8棟。総構には、6箇所の虎口が開けられた。
中津城は、冬至の日には、朝日は宇佐神宮の方角から上り、夕日は英彦山の方角に落ちる場所に築城されている。また、吉富町にある八幡古表神社と薦神社とを結ぶ直線上に位置する。鬼門である北東には、闇無浜神社(くらなしはま)がある。
江戸時代の絵図には天守は描かれておらず、「中津城下図」には、中津川沿岸の本丸鉄門脇に三重櫓が描かれているのみである。しかし、黒田孝高(如水)の手紙には「天守に銭を積んで蓄えた」とある。
その後、元和5年1月5日細川忠興書状に、小笠原忠真(忠興の三男忠利の義兄弟)へ中津城の天守を譲るとあり、当時忠真が築城中だった明石城へ送られたが、実際の明石城には天守はなく、他の建物に転用されたと考えられる。
また、文禄2年(1593年)に亡くなった小河信章の跡を継いだ小河之直へ長政が発した3月3日付書状に、天守の欄干が腐った旨の記述があるが、これが中津城かその後の居城福岡城を指すかは不明である。
中津城に残る黒田孝高(如水)が普請した石垣は、天正16年(1588年)に普請された現存する近世城郭の石垣としては九州最古のものである。本丸上段北面石垣(模擬天守北面下)は、黒田家の石垣に細川家が石垣を継いだ境が見られる。
また、本丸南の堀と石垣は、中津市によって修復、復元されている。ここにも黒田・細川時代の石垣改修の跡を見ることができる。
■復元された水堀と改修された本丸下段南面石垣
■本丸上段北面石垣にある継ぎ目(左が細川氏、右が黒田氏普請)
■本丸南西部にあった水門跡
扇状の旧城下町には、今でも築城した黒田官兵衛にちなんだ「姫路町」や「京町」などの町名が残る。
復元建造物
昭和39年(1964年)、本丸上段の北東隅櫓跡(薬研堀端)に観光開発を目的として模擬天守閣が建てられた。
鉄筋コンクリート構造で、外観は萩城天守をモデルとして外壁仕上げは下見板張りを模し、外観5重内部5階(5重5階)構造で高さは23メートルある。
模擬天守南には望楼型の二重櫓が建てられ、「城主の馬具等を格納するところ」という意味で大鞁櫓(だいひやぐら)と呼ばれる。
かつてこの場所には南東隅櫓があり、層塔型で多門櫓を続櫓として付属させている姿が写る古写真がある。
模擬天守は奥平家歴史資料館として一般公開されており、奥平家歴代の当主の甲冑、奥平忠昌が徳川家康から拝領した白鳥鞘の鑓(しらとりざやのやり)、長篠の戦いを描いた長篠合戦図大掛軸、武田信玄から拝領した「大」の字の陣羽織、徳川家康真筆書・徳川家康軍法事書や奥平信昌真筆書など古文書類が展示されている。
海城としての中津城
中津城は上記の通り水城(海城)であり、日本三大水城のひとつである。柴田龍司の海城の立地による分類では河口型になる。
豊臣氏政権時代から徳川氏政権初期段階において九州地方に入部した大名は海城を居城としていることが多い。豊臣政権時代に豊前国に入部した黒田氏が中津城を築城した。
徳川氏政権初期段階には細川氏が入城したが、細川氏はこれまた海城である豊前小倉城を同時使用している。細川氏がそれ以前に居城としていた丹後宮津城(京都府宮津市)も海城であり、細川氏の海城に対する執着が窺える。
中津城 周辺スポット
中津市寺町

中津城の近くには寺町が残っており、多くの寺が隣建しています。
その中の合元寺は天正15年、黒田官兵衛孝高によって建立されました。
深紅に塗られた壁は豊臣秀吉の時代、宇都宮鎮房が騙し討ちに遇い、この寺を宿舎にしていた家臣たちも全員討ち死。その時の血潮を浴びた門前の白壁は何度塗り替えても血痕が浮き出るため、赤壁に塗り替えたと伝わります。当時の激戦の様子は現在も境内の大黒柱に刀の痕が点々と残されています。
→マップ
猿飛千壺峡(さるとびせんつぼきょう)
山国川の清流、河床一帯に広がる変朽安山岩、そして小さな石ころの三位一体で生まれた自然の造形物が、「猿飛千壺峡」です。
長い年月をかけ、自然の激しい渓流が造りあげた大小無数の甌穴が約2kmに渡って峡底に広がっています。国の天然記念物に指定されており、下流に行くと、「魔林峡」や「念仏橋」があります。春は桜、秋は紅葉のスポットとしてもおすすめの景勝地です。
一目八景
深耶馬渓を流れる山移川に沿って広がる絶景で、山に突き出た8つの奇岩を一目でぐるりと見渡せることからこの名が付けられた。深耶馬温泉の中心部に設置された円形の展望台に登ると360度を見渡すことができ、一つひとつの奇岩の名前がそれぞれの方向に記されている。紅葉の季節の美しさもすばらしい。
山から突き出た奇岩を見渡すビューポイント
中津城 周辺宿泊施設

中津市名物グルメ
■中津からあげ
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■鱧(ハモ)料理























