府内城は名軍師・竹中重治の従弟にあたる竹中重利の居城として知られており、日本100名城に選ばれている。かつて豊後国の守護職・守護大名であった大友氏の拠点であった場所に築かれた城で、遺構としては、本丸跡に人質櫓(二重櫓)と宗門櫓(平櫓)が現存している。
現在は大分城址公園として整備されており、3棟の二重櫓と大手門、土塀、廊下橋が復元されている。
お城ニュース ※外部リンク
2025年4月12日
登録者約5億人「フォートナイト」に“府内城” 江戸時代に焼失した天守閣を見事に再現 ご当地アイテムも
2023年12月20日
大雨で崩れた城の塀、現れたのは重文級?の構造 識者「極めて貴重」
府内城の見どころ

天守台

宗門櫓

人質櫓

大手門

水堀と石垣

二之丸角櫓

廊下橋

着到櫓
府内城カルテ
■攻略のレーダーチャート(ポイント)
■ポイント
- 2棟の櫓が現存しており、天守台や石垣、水堀が残っている
- 大手門や廊下橋など建築物の復元もされているので、整備ポイントは高い
- 大分県の中心部に位置しており、大分駅からは少し歩くものの、アクセスは良好
平均:66/100 ポイント
合計:395/600 ポイント
おススメ度:★★★☆☆☆
■見どころバロメーター
■大分県 主要城郭との比較(ポイント)
※全ての城にそれぞれの魅力があります。当サイト独自のデータになります。

写真でめぐる お城ツアー
名城スタンプと御城印
日本100名城スタンプ設置場所
・大手門下に設置(24時間押印可)
御城印販売
・セブン・イレブン大分荷揚町店
・大分市観光案内所

府内城 周辺の天気
| 別名 | 大分城、荷揚城、白雉城 |
|---|---|
| 城郭構造 | 梯郭式平城 |
| 天守構造 | 層塔型4重4階(1607年築・非現存) |
| 築城主 | 福原直高(長堯) |
| 築城年 | 1597年 |
| 主な改修者 | 竹中重利 |
| 主な城主 | 竹中氏、日根野氏、大給松平家 |
| 廃城年 | 1872年 |
| 遺構 | 石垣、土塀、堀、櫓2棟(宗門櫓、人質櫓)、櫓跡(天守台) |
| 指定文化財 | 大分県指定史跡(石垣、土塀、堀、櫓2棟(宗門櫓、人質櫓)、櫓跡1(天守台)) 大分市指定史跡(県指定部分を除く城地) |
| 再建造物 | 二重櫓3棟、大手門、土塀、廊下橋 |
写真で見る府内城
概要
府内城は、大分市街の中心に位置する梯郭式平城である。安土桃山時代後期、府内に12万石で入封した福原直高(長堯)が府内の荷落に築城を始めたが、福原氏は改易され、早川長政の府内領再封を経て、関ヶ原の戦いの後に3万5千石で入封した竹中重利が完成させた。
なお、府内城は海城でもあるが、豊臣氏政権時代から徳川氏政権初期段階において九州地方に入部した大名は海城を居城としていることが多く、その一例である。
江戸時代には府内藩2万1000石の藩庁が置かれていたが、明治初期に本丸・東丸・西丸の建造物以外は破却され、堀の一部が埋め立てられた。さらに第二次世界大戦時の大分空襲により大手門、櫓が3棟が焼失した。
現在、城跡は大分城址公園となっている。本丸跡北西隅に人質櫓(二重櫓)と西丸に宗門櫓(平櫓)が現存し、石垣、土塀、堀とともに大分県の史跡に指定されている。県の史跡に指定された以外の部分は、大分市の史跡に指定されている。
また、3棟の二重櫓と大手門、が外観復元、土塀、廊下橋が木造復元されている。三の丸跡には、大分県庁・大分市役所などがある。又、天守、櫓、門、土塀の木造復元計画はある。
西丸跡には1966年に大分文化会館が建てられたが、2013年(平成25年)10月に閉館し、その後、解体された。文化会館跡地の利用方法は未定で、城址公園も含めて今後検討される。なお、大分市は1993年(平成5年)に、文化会館を解体した後の構想として、中期的に発掘調査、城内整備を行った後、長期的には天守閣再建を含めた府内城の復元を行うとする府内城整備基本構想を策定しているが、経済情勢の変化等のために実現の目途は立っていない。
2017年(平成29年)2月には大分城址公園整備・活用基本計画が策定され、天守等については将来的に調査・研究の成果に応じて整備をめざすとされた。
構造
北東隅に本丸を配し、東丸、西丸、山里曲輪が配されている。侍町である三の丸が北西から南東に大きく広がり本丸等を囲んでいる。それぞれの曲輪は堀で仕切られ、渡櫓・廊下橋で連結されていた。
櫓は白漆喰を塗籠めたもので、連子格子の窓、袴型の石落としを標準で持っていた。層塔型で地階(地下)を持っており二重櫓は城内から三重に見えた。東丸には、最上階が天守と同形式の高欄と火灯窓を持った三重櫓が建っていた。
天守
天守は、1605年(慶長10年)旧暦11月に描かれた『府内絵図』の天守台部分には、「天守・四重・上重二間・三間。高 水ヨリ上棟瓦マテ・十六間半」また天守台を表す内側の線に沿って、南北面の線に「八間」、東西面の線に「七間」と書き込まれている。
『正保城絵図』には「天守ノ廣サ下ノ重七間八間」と書き込みがある。天守南側と西側に多聞櫓形式の取付櫓(付櫓)があり、西側は二重櫓、南側は東大門と連結していた。
『正保城絵図』等では白いの層塔型4重4階天守が描かれ、北野隆は『豊後国府内城焼失付普請之覚』に描かれた天守の姿は白漆喰塗籠の層塔型4重4階の天守である。一方で、府内城天守が建造された時代は層塔型天守が現れる時代より前の1602年(慶長7年)であるので、望楼型天守の可能性を指摘している地方史家らもいる。
層塔型に描かれた絵図があることについては、簡略化されて描かれたもの、望楼型天守を層塔型に改築したとの指摘がある。
人質櫓
本丸北東部の人質場と呼ばれた曲輪に位置する。1861年(文久元年)に再建された。1963年(昭和38年)2月15日に大分県の史跡に指定されている。
宗門櫓
城の南側で、大手門のやや西に位置する。城外からは石垣の上に建つ平櫓に見える一方、城内からは二重櫓に見える。櫓から北側に延びる石垣が出合曲輪と西丸とを仕切っており、城の出入口の一部をなす防衛上重要な施設である。1854年(嘉永7年/安政元年)の安政大地震(安政南海地震・豊予海峡地震)で倒壊し、1859年(安政6年)に再建された。1963年(昭和38年)2月15日に大分県の史跡に指定されている。
大手門
正式な名称は多聞櫓門(たもんやぐらもん)。1945年(昭和20年)の大分空襲で焼失し、1965年(昭和40年)に外観復元された。
廊下橋
西丸と山里丸とを結ぶ渡り廊下。大分市発足30周年記念事業として行われた府内城再発見事業によって、1995年度(平成7年度)に木造復元された。
マップ
アクセス
■公共交通機関
・JR日豊線・大分駅から徒歩約10分
・JR日豊線・大分駅からバスに乗り約5分、「大分市役所前」下車
■車・バイク
・大分自動車道・大分ICから約20分
■駐車場
・大分城址公園臨時駐車場
平日 午前8時~午後5時
府内城 周辺スポット
円寿寺
大分を治めていた武将、大友氏の崇敬あつく5代大友貞親が嘉元3年(1305)、比叡山より道勇和尚を招いて中興の祖とするとともに、総社山の山号がつけられたといいます。さらに6代貞宗が徳治2年(1307)に古国府から現在地に移し、総社山円寿寺と名づけました。
また、寺宝に県指定有形文化財の柿本人磨呂図や六曲屏風、市指定有形文化財の円寿寺相伝文書、大般若経600巻などがあります。
弥栄神社
豊府の岩屋寺に鎮座したのが始まりです。
後に大友氏初代能直〔よしなお〕が国中の疾病流行退散を願って、京都の祇園社を勧請し、以来大友氏の尊崇が厚く、江戸時代に入ってからは歴代の府内藩主が崇敬しました。
江戸時代には、祇園社(祇園宮)の呼称で呼ばれていましたが、明治以後に弥栄神社と呼ばれるようになり、明治6年(1873)に郷社、大正5年(1916)に県社に昇格しました。
金剛宝戒寺
6代大友貞宗(さだむね)が、同地域は低地で水害の恐れがあるとして、徳治2年(1307)、現地に大伽藍を移転したといわれています。
この伽藍の名残が現在の大日堂で、堂内には木造大日如来座像(国指定重要文化財)が安置されています。
後方には、府内城主・日根野吉明が再建した山門と、画聖雪舟の天開図画楼跡の記念碑があります。
大分県の城を攻める

















