石垣の名城

一般的に城のイメージと言えば、高くそびえ建つ天守をイメージする方も多いと思います。
その圧倒的なスケールを感じるのも、城めぐりの楽しさの一つ。

しかし、江戸時代から残る天守は全国に12城(現存12天守)しか残っていません。

全国には石垣が残っている城は多く存在します。

たかが石・・・

しかし、そこには大名の権力の象徴が隠されており、何よりも急速な技術発展があります。

石垣の魅力を知れば城の楽しみ方が何倍にも増えます。
石垣の奥深い世界に取りつかれれば、間違いなくあなたも城マニアです。

石垣の基礎知識

野面積み(のずらづみ)

自然の石材をそのまま積み上げる技法。城郭における初期の積み方。
織田信長の安土城を皮切りに石垣=権威の象徴という概念が生まれ、全国に石垣の城が普及する。

打込接(うちこみはぎ)

加工した大きさの異なる石材を積み上げる技法。野面積みから進化し、慶長の築城ラッシュ時に多く使われた技法。

切込接(きりこみはぎ)

加工し整形した石材を隙間なく積み上げる技法。城郭の石垣技術の最終形態。
技術の進化に伴って、石垣は権威の象徴に加えて美的センスも求められるようになる。


石垣の城郭に欠かせない存在

織田信長による安土城築城を皮切りに、土の城から石垣の城へと転換していくことになります。石垣は単なる石ではなく、権威の象徴としても扱われるようになりました。

安土城築城の際に石垣を積んだのが、滋賀県の坂本を拠点とした「穴太衆」と呼ばれる石工集団でした。

卓越した技術を持つ穴太衆とは

穴太衆(あのうしゅう)の起源と歴史

穴太衆の起源は、古墳時代に朝鮮半島から渡来した石工集団が、現在の滋賀県大津市坂本付近の穴太(あのう)に根付いたことにさかのぼります

彼らは当初、比叡山延暦寺や日吉大社などでの寺社建築の石垣造りを担っていましたが、その高い技術が織田信長に認められ、安土城の築城に起用されたことで全国にその名を知られるようになりました。 

穴太衆の発祥となる坂本の、石垣造りの町並み

穴太衆の技術は安土城築城によって全国に広まった

古墳時代~寺院の時代:

古墳時代に朝鮮半島から渡来した石工が、穴太の地に居住し、古墳の石室造営などを行ったのが始まりとされています。
最澄が比叡山延暦寺を開創した後、穴太の石工たちは延暦寺の里坊(さとぼう)などの石垣造りを担うようになり、その技術が磨かれました。

安土城築城による隆盛:

1571年の比叡山焼き討ち後、石垣が頑丈で壊れなかったことから、信長は穴太衆を安土城の築城に起用しました。
安土城の石垣は穴太衆の技術力を世に知らしめ、その後の全国各地の城郭築城において、穴太衆が引っ張りだこになるきっかけとなりました。

「穴太」から「穴太衆」へ:

穴太の石工たちが活躍したことで、やがて石工集団全般、さらには石垣技術者が「穴太」「穴太方」と呼ばれるようになり、その技術は城郭石垣の代名詞となっていきました。 

日本の名城の大半が直接的、間接的に穴太衆によって築かれました。その卓越した技術は、数百年の時を経た現在も崩れず多くの石垣の名城が残っています。

そして、穴太技術は現在も滋賀県大津市坂本の粟田建設によって引き継がれています。

算木積みの技術

石垣の技術は算木積みの技術発展によって大きく変貌を遂げます。
直方体の石を交互に積むことで荷重分散を実現。この技術発展により、結果的に高く急勾配の石垣が実現しました。

石の積み方を知ることで、築城年代や改修年代を知ることができます。

写真は和歌山城の石垣。直方体の石材が赤方向と青方向で交差しているのが分かります。

災害により明らかになった算木積みの技術力

2016年4月に熊本県で地震が発生。熊本城も甚大な被害を受けた。完全に修復するまでは30年とも言われています。
多くの石垣が崩落した中で、「奇跡の一本石垣」が話題となりました。

崩落した熊本城の石垣

算木積みの隅石のみで建築物を支える姿

写真で見る算木積み

大坂城:天守台

仙台城:本丸石垣

二条城:東大手門

江戸城:中之門

山形城:二ノ丸東大手門

福山城:天守台

Page Views: 53