【佐賀県】佐賀城

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CASTLE DATA FILE.114

登城日:2026年3月31日
交通手段:佐賀駅から徒歩20分
ステータス:日本100名城・国指定史跡
ジャンル:梯郭輪郭複合式 平城
遺構:門・櫓・移築御座の間・石垣・堀
復元建築:本丸御殿
国の重要文化財:鯱の門及び続櫓
スタンプ:本丸御殿内で押印
御城印:本丸御殿内で購入

日本で初めて復元された本丸御殿と、国の重文 鯱の門は必見!

九州遠征6日目 2城目は佐賀城。
朝から熊本城を攻城し、上熊本駅から鹿児島本線で大牟田駅で西鉄に乗り換えて柳川駅へ。

柳川駅からは40分程バスに乗れば佐賀城に到着です。
大移動ですが、思ったよりもスムーズな移動ができました。

佐賀城は戦国時代は村中城という名前でしたが、鍋島直茂、勝茂が1608年に拡張工事を行い、近世城郭へと生まれ変わりました。
佐賀藩は肥前藩とも呼ばれ、35万7千石を誇っていました。
高い石高の佐賀藩でしたが藩の財政は厳しく、幕府の直轄領である長崎の警備を、福岡藩と交代で命じられたことで一層 藩の財政は厳しくなります。

しかし、この長崎の警備が幕末における佐賀藩の行く末を握ることになります。

バス停を降りて佐賀城を目指すと、城郭の近くを流れる多布施川があります。
この多布施川は佐賀城の防衛におけるファクターとなります。

道を挟んだ左側が佐賀城になります。
江戸時代は周辺地域の飲料水や生活用水、物資流通の水路として利用されていました。

佐賀城の全体絵図。
右下が本丸になります。

こちらが現在の佐賀城付近の町並み。
東側の水濠は埋め立てられていますが、全体的には当時の縄張りが生かされています。

佐賀城の南濠を歩いて本丸を目指します。
佐賀城は平城で完全なる平地に築城されており、防御力に欠けるように思えますが、幅50mクラスの水濠が守りを固めています。

右側には本丸南側の土塁が見えます。
佐賀城は城郭全体を巨大な水濠で囲み、本丸は巨大な土塁によって囲まれています。

攻撃を受けた際に多布施川より大量の水を引き込み、高い土塁で囲んだ本丸以外を水没させて本丸を防衛する設計でした。
故に佐賀城は沈み城と呼ばれました。

豊臣秀吉による備中高松城の水攻めを逆手に取ったような個性的な防御システム。

南濠を歩くと本丸南西隅櫓台が見えてきます。
櫓台は本丸御殿が復元された2004年に併せて、復元されました。

16m×13mの長方形、高さ1.6mの石垣4〜5段ほどが地中に現存しており、絵図にも櫓台が描かれていることから復元に至りました。

絵図には櫓が描かれていない為、櫓本体の存在は明らかになっていません。

櫓台に接続する形で本丸西側の石垣が続きます。
西側の石垣も完全に壊されていましたが、発掘調査で下部2〜3段の石垣が100mに渡って発見されました。

絵図では石垣の前には通路となる犬走りがあり、その前の窪みあたりに、水濠が設けられて本丸を守っていました。

本丸の西門より入城します。

石垣の下にコンクリートの色が変わった箇所があります。
現在、石垣の間口は6mですが、当時は小さな門が置かれており、約2mの狭い通路でした。

西門から入城すると、本丸北側の石垣と目の前には天守台が出現します。

石垣は打込接で積まれており、荒々しく大きな石材が使われています。

隅石は算木積みとなっています。

本丸内から天守台の前を歩きましたが、天守台への入口がどこを探しても見当たりません。

天守台の前には2004年に日本で初めて復元された本丸御殿があります。

近年、御殿建築の復元傾向があります。

江戸時代に天守は焼失などで再建されなかったケースが多い中、御殿は居住空間や政庁としての機能があったので、廃城令で取り壊されるまで残っていました。

それ故に図面や古写真が残っており、忠実に復元できる点と、江戸時代では御殿が城の中心であったことから、近年では御殿建築の価値が見直されてきました。

その先駆けが佐賀城ともいえます。

本丸御殿は後ほど周りますが、まずは佐賀城のシンボル鯱の門を観覧します。
鯱の門は1835年の本丸再建に伴って、本丸の門として江戸時代の1838年に完成しました。

格式ある大きな櫓門と続櫓が繋がっており、共に国の重要文化財に指定されています。

特徴としては続櫓の櫓台。
櫓台よりも続櫓の建築物が小さいのが分かります。石垣の下部には鏡石のような巨石も確認できます。

開閉しているメインとなる大きい門扉の両脇にも小さな扉と、格子窓が二つ設けられています。
均整がとれた造り。

この鯱の門を見るだけでも十分 佐賀城に来る価値があるほど迫力ある門です。

大きな鯱が上がっていることから鯱の門と呼ばれました。
鯱は青銅で造られ、大きさは北方が1.7m、南方が1.75mで重量は200kg近くあります。

柱や横架材の部材には青銅の鉄板や乳金物が施されています。
木材の小口にも青銅の装飾がされています。

本丸側から見た鯱の門。
大きな門扉の脇にあった二つの扉の内、一つは通用専用で、もう一つは番所?のような空間の扉になっています。

さらに注目する点は、よく見ると柱と門扉に明治7年に起きた士族の反乱、佐賀の役で受けた銃痕の跡が生々しく残っています。

穴に指を入れて触れてみると、鉛玉がめり込んでいるのが分かります。

二階の櫓部は幅27.3m、瓦の上までの高さは12.5mもあります!門の幅は11.9m。
35万7千石を治める大名の、本丸を守る門に相応しい規模といえます。

再び本丸内に戻り、本丸御殿の内部に入ります。
本丸御殿は古写真も残っており発掘調査と絵図の元、忠実に復元されました。

本丸御殿の入口。
現在、本丸御殿の内部は佐賀城本丸歴史館となっており、日本100名城スタンプや御城印はこちらで購入できます。

本丸御殿内、北廊下。
圧倒されるスケール。これが廊下です。
長さが45mもあり、板張りではなく廊下も畳敷きなっています

北廊下の脇には外御書院があります。

外御書院は佐賀藩の公式行事が行われた部屋になります。
1838年の本丸御殿完成披露の際には、家臣1000名が集められました。

現在の外御書院は、大きな空間を利用してイベントなどが行われているようです。
外御書院は320畳もある大きな部屋です。

その他の部屋は展示室になっています。

御殿内には面白い展示があります。
床がガラス張りになっており、本丸御殿の床下に眠る基礎構造を見ることができます。

右側の大きな石が発掘調査で発見された当時の礎石です。
御殿を復元する際は、遺構保存のために砂の層で覆ってからコンクリートの耐圧板を敷いて、新しい現代の礎石が置かれています。

本丸御殿の中で注目なのは御座間という空間。
その他の部屋とは明らかに異なる、木材の色の深み。

明治の廃城令後の佐賀城は県庁として使われ、本丸御殿は裁判所などに転用され、その後取り壊されたようです。

この御座間も移築され昭和32年まで小学校の作法室として使用されていました。
小学校の改築に伴い、再び移築して公民館として利用されました。

その後 本丸御殿の復元に伴い、元のこの場所に再移築されたという歴史があります。

本丸御殿築城当時の柱。
めぐり巡って役割を変えながら、この地に戻ってきました。
この地に戻ってくるまで壊されることなく、大切に保存されてきたことが奇跡のようです。

御座間は鍋島直正の執務室でした。
移築現存の建物なので、佐賀県重要文化財に指定されています。

御殿の石垣張りの障子。
当時は大きな和紙をつくる技術が無かったので、障子戸には必ず紙のつなぎ目がありました。

今まで意識して見たことが無かったのですが、初めて知りました。

御式台。
御殿の入口付近にある部屋で、客人の待機場所、行事を行う場所として使われていました。

御殿本体や展示物など含めて、これだけ見どころが多い施設ですが、驚きなのは無料ということ。
料金を支払ってでも見る価値がある程、充実した施設でした。

幕末の佐賀藩は、日本で初めて実用的な反射炉を築造し、鉄製大砲の国産化に成功した藩です。
10代藩主・鍋島直正の主導の下、蘭学を駆使して24ポンドカノン砲などの洋式大砲を製造しました。

黒船 ペリー来航後、江戸幕府は国内で唯一 鉄の大砲をつくることに成功していた佐賀藩に品川台場に備える大砲を発注しています。
戊辰戦争でもアームストロング砲を運用して高い軍事力を示しました。

佐賀藩は長崎の防衛担当だったことから、最新の西洋技術を目の当たりにしていました。

第10代藩主・鍋島直正の先進的なリーダーシップによって、反射炉を造り大砲を製造し、西洋の学問を取り入れ、佐賀藩は幕末に急速な近代化に成功します。

鍋島直正は自ら長崎で乗船視察をして技術を学び、オランダ製の蒸気船を発注して、電流丸を入手しました。

本丸南側から見た本丸御殿。
復元された本丸御殿は一部で、本来は広場になっている場所まで建築物が敷き詰められるように建っていました。

外から見た御座間。
目の前には発掘調査の跡が残っています。

同じく角度を変えて見た御座間。
移築建築なので、とても貴重な建物です。

御座間の前には芝生が剥がれた箇所があります。
これは、発掘調査の跡でこの場所には奥がありました。

奥は藩主の居住空間。今年の1月まで調査が行われていました。
新たな進展がある可能性があるので、佐賀城は今後も注目です。

本丸北側の土塁。高さはおよそ5m程でしょうか。
外部からは本丸の様子は見えないほどの高さです。

南西隅櫓から見た本丸土塁と南濠。
これが沈み城と呼ばれた、佐賀城の防御機能です。

南西隅櫓から見た本丸御殿。

同じく南西隅櫓から見た本丸西側の土塁。
奥には天守台も見えます。

本丸内にある石製樋管と赤石積水路。
これは本丸内に水を引き込む為に造られたと考えられています。

一度、西門から本丸を出て天守台の周りを歩きます。
写真は北西隅の石垣。

奥の石垣は天守台。
目の前にある広場の、奥に生えている松の木あたりに、当時は水濠がありました。

なんと、天守台に繋がる入口がこちらにありました!

セオリーは天守台への入口は本丸内に設けられますが、佐賀城の天守台は二の丸の犬走りから入るように設計されています。
これは非常に珍しい造り。

引きで見るとこのような造りです。
左側が天守台で、右側には渡櫓があったようです。

天守台に向かう渡櫓の虎口。
天守台の前は少し広めな空間ですが、石垣の通路は狭い造りになっています。

振り返ってのショット。
奥が天守台。

90°曲がり、階段を上がると続櫓がありました。

上から見た虎口。

続櫓跡から見た天守台。
階段を上がると天守台になります。

続櫓跡から見た天守台。
天守台の高さは約9m。

天守台跡。
上面の大きさは南北29.5m×東西26.6mの天守台。かつては五層の天守が建っていました。

この規模であれば、熊本城や姫路城の大天守台よりも大きい規模になります。
しかし、1726年の火災により天守は焼失。その後、再建されることはありませんでした。

天守台から見た虎口。

天守台から見た本丸御殿。
佐賀城は想像以上に見応えある城です。

下から見た天守台と鯱の門。
天守台全体の大きさは31m×27m。かなり規模が大きい部類になります。

既に18時を回っており、夕暮れが近づいてきました。

広場にある窪みが当時の水濠の位置を示しています。

よく考えると本丸側ではなく、こちらに入口があるということは、天守は籠城のための最後の砦ではなく、実践的な防衛施設であったと考えられます。

本丸北側の石垣と鯱の門。

二の丸跡。
二の丸も1726年に火災によって、ほとんどが焼失してしまいます。
2年後に二の丸御殿は再建され、1835年に再び焼失するまでの100年間、藩政の中枢となりました。

ちょうど写真のあたりには、立派な二の丸御門が建っていました。

二の丸跡には幕末を代表するリーダー、鍋島直正像があります。

鯱の門に接続された続櫓の側面部。
続櫓の屋根に鯱の門の入母屋部が結合した造り。

二の丸跡から見た鯱の門。

本丸北側の石垣と、北東隅には櫓台石垣があります。

佐賀県庁方面に向かい北濠を見に行きます。
その道中、多くの水路を確認しました。

佐賀市内に流れている水路は、絵図と同じ場所を流れているので、当時の水路が生かされていると思われます。

北濠も綺麗に残っています。
思ったよりも本丸から距離がありました。
同時に、佐賀城の大きさを実感することになります。

県庁側の北濠。

佐賀城は長崎と小倉を結ぶ長崎街道沿いに造られ、多くの商人や旅人が行き交う宿場町でもありました。
また、有明海の海上交通の要衝でもありました。

北濠から佐賀駅まで歩いて向かいます。
市内の1ブロックごとに水路が流れており、当時のインフラに驚かされます。

今回は暗くなってしまったので、周ることができなかったのですが、街中の至る所に当時の石垣などが残っているようです。
水が豊富な落ち着いた街なので、ウォーキングをしながら、街に眠る遺構を探すのも楽しそうです。

九州遠征6日目は熊本城と佐賀城の2城を攻略。
同じような時期に造られた近世城郭ですが、城によって独自のフィロソフィーがあることを改めて感じました。

いよいよ明日は遠征の最終日です。
今日は佐賀駅前のビジネスホテルに宿泊して、明日に備えます。