【秋田県】久保田城

CASTLE DATA FILE.122
登城日:2026年6月14日
交通手段:秋田駅から徒歩15分
ステータス:日本100名城
ジャンル:平山城
遺構:土塁・堀・門・番所
現存建築:御物頭御番所
復元建築:模擬本丸新兵具隅櫓、本丸表門(木造復元)
スタンプ:御隅櫓内にて押印
御城印:佐竹資料館で購入
佐竹氏が威信をかけて築城した土造りの近世城郭
東北遠征5城目は秋田県秋田市にある久保田城です。
慶長7年の1602年から廃藩置県の明治4年まで、佐竹氏の居城で、秋田藩20万石の本城でした。
秋田県唯一の日本100名城で、日本有数の土造りの近世城郭です。
個人的なイメージとしては、山形県の続日本100名城の鶴ヶ岡城や米沢城のイメージでしたが、実際に行ってみると圧巻の城でした。
現在の久保田城は千秋公園として整備され、城内には市立図書館や、芸術劇場などが建てられていますが、城郭としての形が綺麗に残っています。
二の丸の近くに駐車場もあるので、秋田市内の宿泊先から車で直接向かいました。
駐車場にも土塁が残っています。
駐車場の目の前には二の丸広場があります。
6月ですが30°近い夏日で天気も良く、自然の緑と空の青が映えます。
二の丸広場の前には佐竹資料館があり、秋田藩や佐竹氏、初代藩主 佐竹義宣について学ぶことができます。
佐竹氏は元々は常陸国、現在の茨城県を治めた清和源氏の名家です。
戦国時代には伊達政宗と覇権争いで敵対した勢力でした。
1600年の関ヶ原の戦いにおいて、中立的なスタンスが徳川家康の不興を買ったことで、1602年に転封となりました。
茨城県の水戸を本拠としていた佐竹氏は、江戸に近かったことも理由にあると思われます。
御城印も佐竹資料館で購入することができます。
また、この場所に当時は安楽院、勘定所、境目方役所が置かれていました。
安楽院は佐竹氏の祈願寺で、勘定所は秋田藩の金銭出納を行う役所、藩境の調査等を行う役所があり、藩にとって重要な場所でした。
本丸には向かうには幾つかのルートがありますが、佐竹資料館から最も近い長坂門を通過して本丸を目指します。
本丸は二の丸から一段高い場所に設けられており、階段を登って長坂門へと向かいますが、なかなかの勾配で、守りの堅さを感じます。
長坂門跡。
長坂門は本丸の玄関口となる表門の前に設置された門で、二の門とも呼ばれました。
喰違いの枡形になった門で、序盤から美しい土造りの城郭を体現できます。
腰巻石垣で土塁の下部のみ石垣が積まれています。
振り返ってのショット。
近世的な枡形は石垣造りでは他の城でもよく目にしますが、土造りで形成されているのは珍しいので新鮮で目が釘付けです。
長坂門に向かう通路は土塀で囲まれ、枡形部には二重櫓が設けられています。
一際高くなったこの土塁の上に二重櫓があったと思われます。
長坂門跡を抜けると表門が出現!
この威風堂々とした立派な門の先には本丸があります。本丸を守る門としては十分な威圧感があります。
高さは表門は櫓門形式で高さ12.4、下部の門の部分が幅9.1m、2階の櫓部分の幅が10.9m。
2階の櫓が跳ね出した構造になっています。
階段の上に表門が鎮座していることで、この門を通過する人は上を見上るので一層威圧的に感じます。
表門の階段の下にあるのが、御物頭御番所です。
久保田城内に唯一現存する建築物で、秋田市の有形文化財に指定されています。
長坂門の開閉や城下一帯を警備、火災消化を担当した物頭が詰めた場所になります。
一般公開されているので、内部に入ることもできます。
この番所は江戸時代の1758年から1778年の間に建築されたと考えられています。
床の間と呼ばれる畳敷きの空間と縁側もあり、まるで住居のような空間です。
14畳の空間で、番所としてはかなり立派な内装です。
床の間の隣にも少しコンパクトな8畳の部屋が配置されています。
縁側から見た表門。
当時もこの光景を当たり前のように見ていたと思うと、現存建築とはとても尊いものです。
表門は平成13年に復元されました。
表門は本丸の正門であり、長坂門と二重の枡形の構造をしており、番所も含めて表門付近は厳重な設計となっています。
表門の礎石。
江戸時代に使われていた表門の礎石は移動され、展示されています。
注目は礎石に正方形の凹があること。
日本の伝統建築のホゾで、木材の柱側は凸でピッタリと合うようになっています。
本丸から見た表門。
壁面の長押や柱が見えている真壁工法。
表門脇の本丸を囲む土塁。
土塁の下には二の丸広場となっています。
表門の先に広がる本丸。
東西117m、南北215m。藩政時代には政庁や藩主の居住となる本丸御殿がありました。
模型を見ると久保田城が壮大な土造りの城だったことが分かります。
本丸には所狭しと御殿建築が建ち並んでいます。
本丸内に鎮座するのは八幡秋田神社。
初代藩主 佐竹義宣や歴代藩主を祀った神社です。
秋田県の有形重要文化財でしたが、平成17年に放火によって焼失してしまいました。
久保田城のシンボルとなっている本丸御隅櫓に向かう途中にある埋門跡。
土塁の上から見た埋門跡。
土塁が高いので、まるで山城の堀切のような迫力があります。
様々な角度から見てみます。
左側には本丸の土塁が続き、本丸を囲む帯曲輪となっています。
振り返ってのショット。
右側が本丸の土塁。模型ではこの埋門には多聞櫓のような建物が橋渡しのように建てられていました。
埋門から整備された本丸土塁の上を歩き、御隅櫓を目指すと多聞長屋跡があります。
本丸西側全体と北側の一部、表門の両脇に長屋状の建物が置かれ、当時は物見や倉庫として使用されていました。
久保田城のシンボル的な御隅櫓。
久保田城には当時、8基の櫓が建てられていました。
本丸北西隅の久保田城では1番高い台地の上に建てられたのが、この御隅櫓です。
江戸時代は2階建ての建築物でしたが、平成元年に発掘調査を元にして3階建てとして復元されました。
御隅櫓の最頂部からみた久保田城三の丸方面。
現在の三の丸は明徳小学校や市街地となっています。
千秋公園として整備された現在の区域でも、なかなか広い敷地ですが、当時はもっと広いお城でした。
御隅櫓から見た男鹿半島方面。
日本海がが遠くに見えて、とても美しい景色を望むことができます。
左側の森は昨日行った秋田城となります。
秋田市内も一望です。
御隅櫓内は久保田城における展示物や、佐竹義宣についての展示物があり、その中でも久保田城の模型は素晴らしかったです。
二の丸側の久保田城。
堀などは当時の名残をよく残しています。
標高は45mほどですが、幾つもの段になって山全体を要塞化したような造り。
市街地化が進んだものの、土造りの近世城郭としては、よく形状を残した貴重な城といえます。
御隅櫓が建っている本丸土塁。
本丸から見ると高い土塁の上に御隅櫓が建っているのが分かります。
続いて、御隅櫓の脇の階段を降りて三の丸があった場所を目指します。
本丸から一段下がって帯曲輪のような通路があります。右側が本丸の土塁で、左側が北の丸の土塁。
この帯曲輪が本丸を囲んでいます。
人が多い久保田城ですが、この辺りは静かさを感じる道となっています。
本丸と帯曲輪を接続する帯曲輪門跡。
本丸の高い土塁に囲まれた喰違いの門となっています。
本丸の土塁がいかに高いかお分かり頂けると思います。
石垣の枡形門に負けず劣らずの迫力です。
二の丸北側に位置する土門跡。
先ほど見た帯曲輪門の近くにあり、久保田城の外部に繋がる4つの門の内のひとつです。
こちらも高い土塁によって防備された厳重な門跡です。
6mはありそうな土塁に囲まれています。
土門は北御門とも呼ばれていたようです。
土門跡の枡形。
土門の形状は分かっていないようですが、足軽番所も置かれ、この防御力に優れた形状から見ても堅固な門であったと想像できます。
土門跡の先には千秋トンネルがあります。
模型で見てみると、中央部のえぐったように入り込んだ堀が、この千秋トンネルの辺りかなと思われます。
右側の孤立したような曲輪が北の丸になります。
地図と模型を照らし合わせながらこの辺り一帯を歩きました。
下から見た千秋トンネル。
つまりこの千秋トンネルの道路は北の丸を隔てる堀底だと思われます。
街に眠る城の形状を生かした遺構を発見すると、ボルテージが上がってしまいます。
残された微かな痕跡を探すのも城の楽しみ方の一つです。
北の丸は殆どが市街地となっていますが、所々に城らしき高低差を感じる住宅地になっています。
続いて、北の丸跡から大手門跡へと向かいます。
有料駐車場前からのショット。
奥に見える土塁の上が二の丸になります。
絵図ではこの駐車場あたりも当時は内堀となっていました。
駐車場の脇には内堀の一部が残っています。
黒門跡に繋がる唐金橋跡。
橋の先には二の丸跡となり、佐竹資料館の目の前に出ることができます。
黒門跡は後ほど周ることにして、まずは堀沿いを歩いて大手門跡に向かいます。
唐金橋跡から見た内堀。
横から見た唐金橋跡。
当時はこの唐金橋を渡り、黒門を抜けるのが正式な登城口でした。
模型では土橋ではなく、橋が架かっていました。
大手門通りと内堀。
左側の大手門通りの脇には三の丸が展開されていました。
三の丸は完全に市街地化によって失われています。
大手門跡。
現在は門跡になっており、当時の面影は残っていません。
しかし、当時は大きな枡形がこのあたりにありました。
大手門は櫓門で、江戸時代はこの大手門から城内へと入城していました。
大手門脇に広がる大手門の堀。
東西250mに渡って水堀が残っています。
幅は60mから70mとされ、河川並みの大きさです。
堀の中間には中土橋があり、現在はこちらが千秋公園のメインロードとなっています。
中土橋から見た大手門の堀の反対側となる、穴門の堀。
穴門の堀から見た中土橋。
この堀沿いは美しく綺麗に整備されているので、のんびり歩くのも良い時間になります。
穴門の堀 隅部。
噴水もあり美しい景観です。
古川堀通りを歩き西側から再び城内に向かいます。
佐竹小路と表記された道から城内へと入ります。
この手前くらいには穴門橋が掛けられていました。
振り返ってのショット。
佐竹小路の先にも内堀が残っています。
左側は帯曲輪の土塁。
松下門に繋がる土橋。
中土橋を渡って進むと、この土橋を渡って松下門へと接続されています。
内堀の脇には階段が設けられており、土塁の上に直接登ることができます。
この上には櫓が上がっていました。
階段を上がると茶室 宣庵があります。
この茶室は昭和に造られたものが秋田市に寄贈されました。
ポイントは宣庵の前に置かれている手水鉢。
この手水鉢が凄いのです!
この手水鉢は朝鮮出兵の際に、加藤清正が持ち帰って豊臣秀吉に献上し、大坂城に置かれていたと伝わります。
大坂城にあった手水鉢を石田三成は茶に精通した佐竹義宣に送ったとされています。
後に1599年に石田三成は伏見城で襲撃されますが、佐竹義宣が救出するという美談もあります。
1602年に常陸国(茨城県)から転封となった佐竹義宣はこの手水鉢を海路を使って運ばせたそうです。
重さは約10t!
太平洋からこの日本海の地まで運んだことを考えると驚きです。
茶室 宣庵の前には土塁が広がります。
登って再び本丸をめざします。
宣庵前の土塁の上は帯曲輪になっており、更に高い本丸土塁が立ちはだかります。
木が生い茂っている久保田城ですが、この辺りは高さのある土塁の綺麗な形を見ることができます。
本丸土塁の上には御出書院跡があります。
本丸南西に位置しており、天守代用の建物がこの場所に建っていました。
唐破風などの装飾が付けられた二階建ての建物で、藩主の文化的な交流の場だったとされています。
本丸土塁と御出書院跡。
土塁は傾斜もきつく、聳え立っています。
久保田城は明治の廃藩置県後、全国のほとんどの城が取り壊された中、存城処分となり取り壊しを免れました。
しかし、明治13年の久保田城下大火によって大半が焼失。本丸御殿もこの御出書院跡も焼失しました。
本丸から裏門跡を通って二の丸に戻ります。
この裏門は移築されているので、後ほど見に行きます。
下から見た裏門跡。
表門のような櫓門がこの場所に建っていました。
階段に紛れて礎石も残っています。
二の丸にある胡月池。
千秋公園が整備された際に造られた池。
胡月池の脇は馬場跡となります。
最後に佐竹資料館の脇にある黒門跡を見てみます。
門跡としてはかなり綺麗に整備されています。
これはもはや芸術です。
土塁の上からのショット。
美しい枡形!
当時の久保田城のメインゲートだったこともあり、堅固な設計をしています。
久保田城を後にして、近くにある鱗勝院にやってきました。
この巨大な山門。これこそが久保田城の裏門が移築されたものとされています。
裏門は櫓門形式だったので、移築の際に改造されたものと思われます。
部材は当時のものを転用しているようです。
下から見てみると床となる板が敷かれています。
見た目は一重の薬医門ですが二階の床があるので、
これこそが櫓門であった痕跡と考えられます。
柱は継がれており複雑な作りをしています。
柱の下部には根巻金物が施されています。
これが当時のものかは不明ですが、城門らしさがあります。
門扉は外されていますが、扉の金具も付いています。
上部の扉の金具。
年代物であるのは間違いなさそうです。
本堂の屋根上には佐竹氏の家紋が飾られています。
鱗勝院も含めて、このあたり一帯は寺町で多くのお寺が隣立しています。
城下も味があって良い雰囲気です。
秋田市内には歴史的な建物など見どころが密集しているので、一日中楽しめると思います。
久保田城においては、想像を超えた城跡で感動しました。
ここまで大規模で、徹底した土造りの近世城郭は見たことがなかったので貴重な1日となりました。
常陸国では54万5千石の大名だった佐竹氏は、減封で20万石の大名となりましたが、大大名だった威厳やプライドが久保田城に反映されている、そんな気概を感じる素晴らしい城郭でした。
今回は宮城県と秋田県の城を攻略しました。
日本100名城の久保田城、続日本100名城の脇本城と秋田城の全てが、かなり近距離にあるのもポイントです。













































































































