菅谷館(菅谷城)は鎌倉幕府の有力御家人として知られる畠山重忠の館跡と考えられてる。その後、山内上杉家の家臣である太田資康が扇谷上杉家の拠点である河越城に対するおさえとして城主を務めた。土塁や空堀、全体的な曲輪配置が良好な状態で残っているが、現在の菅谷館跡はこの戦国初期に改修された姿だと考えられている。
国の史跡に指定されており、三ノ郭跡には埼玉県立嵐山史跡の博物館が建てられており、全体的に綺麗に整備されている。
お城ニュース ※外部リンク
2025年5月29日
嵐山史跡の博物館 大妻嵐山中高書道・美術部とコラボで御城印作成
菅谷館の見どころ

本丸土塁

本郭土橋と虎口

本丸空堀

正拈門跡と木橋

外郭空堀と土塁

二ノ郭空堀

三ノ郭空堀

西ノ郭空堀
菅谷館カルテ
■攻略のレーダーチャート(ポイント)
■ポイント
- 空堀や土塁、虎口など遺構が良好に残っており、ひとつひとつの遺構もダイナミックなのが特徴
- 鎌倉時代から続く歴史ある城であるが不明点も、まだ不明点も多い。しかし間違いなく城郭としての役割があったと考えられる
- 武蔵嵐山駅からも近く、駅前ではレンタサイクルもある。歩いていける距離でもある
平均:78/100 ポイント
合計:465/600 ポイント
おススメ度:★★★★★☆
■見どころバロメーター
■埼玉県 主要城郭との比較(ポイント)
※全ての城にそれぞれの魅力があります。当サイト独自のデータになります。

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名城スタンプと御城印
※スタンプ設置場所や御城印販売所の場所、営業時間は最新情報をご確認ください。
続日本100名城スタンプ設置場所
■嵐山史跡の博物館 受付付近
開館時間:午前9時~午後4時30分(入館は午後4時まで)
御城印販売
■嵐山史跡の博物館 受付付近
開館時間:午前9時~午後4時30分(入館は午後4時まで)






菅谷館 周辺の天気
| 城郭構造 | 平城 |
|---|---|
| 天守構造 | なし |
| 築城主 | 不明 |
| 築城年 | 不明 |
| 主な改修者 | 山内上杉氏、後北条氏の可能性 |
| 主な城主 | 畠山重忠、山内上杉氏、北条氏の可能性 |
| 廃城年 | 不明 |
| 遺構 | 土塁、横堀、虎口、土橋、 |
写真で見る菅谷館
マップ
アクセス
■公共交通機関
・東武東上線・武蔵嵐山駅西口から徒歩約13分
・東武東上線・武蔵嵐山駅西口から自転車約5分
■自動車・バイク
・関越自動車道・東松山ICから約10分
・関越自動車道・嵐山小川ICから約10分
■駐車場
・無料専用駐車場あり

MEMO
公共交通機関を利用する場合は、雨が降っていなければ武蔵嵐山駅にある観光ステーション嵐なびでレンタサイクルがあるので、続日本100名城の杉山城と菅谷館をセットで攻略できます!
菅谷館について
鎌倉幕府の有力御家人として知られる畠山重忠の館跡である。畠山氏は、重忠の父畠山重能の代から大里郡畠山荘の荘司であり、重忠も当初は同荘内に館を置いていたが、やがて鎌倉街道の要衝にあたる菅谷の地に移って館を構えたのが始まりである。
元久2年(1205年)、畠山重忠が武蔵国二俣川(現・神奈川県横浜市旭区)で戦死したのちは畠山の名跡を継いだ足利義純の子孫に伝えられたというが、15世紀後半に至るまでの詳細は不明である。
長享2年(1488年)、菅谷館そばの菅谷原において山内上杉家と扇谷上杉家が激戦を繰り広げ(須賀谷原合戦)、その前後に山内上杉顕定の命を受けた太田資康が扇谷上杉方の拠点である河越城に対するおさえとして、菅谷の旧城を再興した。やがて、「長享の乱」と呼ばれた一連の戦乱は山内上杉方の勝利に終わり、敗れた扇谷上杉朝良が一時菅谷城に幽閉された。以後、16世紀前半まで山内上杉家の拠点として使われる。
その後は、天文15年(1546年)の河越夜戦以降にこの地域に進出した後北条氏によって戦国末期まで使われ、小泉掃部助が城代となって守備している。
中世城郭研究会の中田正光によれば、当時の最前線だった松山城を強化する必要から付近の青鳥城や杉山城と共にこの菅谷の旧城も更に築城拡大されたと述べており、全周を覆う堀には多くの折りが使用され、虎口には全て横矢が掛かる仕様、威圧感も兼ねた櫓、馬出しの併用、相互援助が想定された曲輪間の作り、外郭を予想される広大な縄張り等の特徴を指摘し、このような実戦的な城郭は後北条氏の典型的な特徴であり、それ以外は考えられないと指摘している。
なお、過去の発掘調査の結果では後北条氏時代の遺物が出土していないため、杉山城と同様に後北条氏進出以前に廃城になったという説もあるが、発掘調査面積自体が小規模だったため、今後の調査次第では畠山時代や後北条時代の遺物が出土する可能性も考えられる。
菅谷館の立地・構造
館跡は都幾川と槻川の合流点北側の低台地にある平城で、館(城)の付近を鎌倉街道上道が通っていた。館跡中央のやや南寄りに平面長方形の本郭があり、その北側に二の郭、三の郭などを配置しており、それぞれの郭を土塁と堀で防備している。
土塁の遺存状況は良好であり、郭の配置や土塁の構築法には近世的な平城の特徴をうかがうことができるが、本郭は単郭式の城館の面影をよくとどめており、鎌倉時代における菅谷館の中心部分と考えられる。中世館跡の遺構例としては稀少な遺跡であり保存度もきわめて良好である。
史跡指定
1973年(昭和48年)5月26日、「菅谷館跡」(すがややかたあと)として国の史跡に指定された。ただし、当時指定管理方針が確定していなかったため東側の堀跡の一部が未指定に終わった。
1976年(昭和51年)12月、1973年の指定において未指定とされていた東側堀跡の一部を埼玉県が史跡用地として管理することが決まったので、当該部分の追加指定がなされた。
2008年(平成20年)3月28日、既指定の国の史跡・菅谷館跡に加えて松山城跡、杉山城跡、小倉城跡が追加指定され、指定名称が「比企城館跡群」に変更された。

菅谷館 周辺スポット
向徳寺
時宗寺院の向徳寺は、大福山無量院と号します。
向徳寺は、清阿(宝治2年1248年寂)が開山、その後廃寺となったものの、江戸時代の慶安2年(1649)に幕府より寺領10石の御朱印状を受領、向阿徳音(天和2年1682年寂)が中興したといいます。
大蔵神社
木曽義仲の父・源義賢が秩父重隆の娘をめとり、移り住んだ館跡とされます。
東西220m、南北170mの範囲が館跡となっています。周囲を堀と土塁で覆われていますが、このような現在の姿は戦国時代のもので、義賢がいた時代のものではないことが発掘調査によってわかっています。
菅谷館 周辺宿泊施設

菅谷館 攻城の拠点
埼玉県の城を攻める


































