高田城【続日本100名城】

高田城は、慶長19年(1614年)に徳川家康の6男松平忠輝の居城として築城されました。

築城工事は幕府直轄工事として始められ、徳川家康の命令で13の大名に普請が割り当てられ、松平忠輝の義父の仙台城主伊達政宗が、陣頭指揮をとりました。外堀を含めると60ヘクタールを優に超える広大な城郭を、4か月足らずという短期間で完成させた土造の近世城郭です。

現在は高田公園として整備され桜の名所となっており、日本三大夜桜としても有名です。

遺構ポイント

歴史ポイント

名城スタンプと御城印

▪️続日本100名城スタンプ

▪️御城印販売

高田城 周辺の天気

別名鮫ヶ城、関城、高陽城
城郭構造輪郭式平城
天守構造御三重櫓
(独立式層塔型3重3階1614年築 非現存)
(独立式望楼型3重3階 1993年 鉄骨造復興)
築城主松平忠輝
築城年慶長19年(1614年)
主な改修者松平光長
主な城主松平氏、稲葉氏、榊原氏
廃城年明治3年(1870年)
遺構土塁、堀
指定文化財県指定史跡
再建造物三重櫓

写真で見る高田城

登城レポート

2023年12月:初訪城

高田城について

徳川家康の六男、松平忠輝(長沢松平家)の居城として天下普請によって造られた。忠輝の福島城からの移転は、転封から2年後の慶長17年(1612年)7月の時点で南に移る話があり、慶長19年2月に忠輝が高田へ移ると、3月15日に高田城築城が始まり、7月5日に普請は完了した。城地の縄張りと工事の総監督は忠輝の舅の伊達政宗が勤めた

高田城は、高田平野にある菩提ヶ原に築かれた平城である。約230メートルから約220メートル四方の本丸を取り巻くように二ノ丸、南に三ノ丸、北に北の丸を配し、関川、青田川などを外堀として利用した。
堀は内堀・捨堀・カラ堀と南方の総構である百間堀以外は、関川・青田川・矢代川・儀明川の流路変更と旧河道の流用により構成されている。すべての曲輪に土塁が採用され、石垣は築かれなかった。低湿地に築城されたため排水設備が重視され、難工事の末城地には現在の技術水準から見ても遜色ない暗渠が張り巡らされていた。

普請完了から程なく大坂の陣、そして忠輝の改易が続き、櫓等の作事は殆ど進展せず、高田城唯一の櫓である天守代用の櫓も1624年に入封した松平光長が建てたと見られている。正保元年(1644年)に提出が命じられた『正保城絵図』では二重櫓だが、寛文5年(1666年)の高田地震後の復旧で、3重3階の三重櫓になったと見られる。

当時の三重櫓の外観は不明で、江戸城の富士見櫓に似た外観であったと伝えられている。武家屋敷は当時の地図から内郭から外郭へと立ち並んでいたといわれている。城下町は京都に倣い区画が整然としていた

明治以降、もともと小規模であった城の建造物や周囲の武家屋敷は火災や荒廃、取り壊し、さらに旧陸軍第13師団の駐屯地として使用するために大規模な土塁の撤去、堀の埋め立てが行われたことにより江戸時代の面影は戦前の段階で失われていた。
旧城地の東半分は関川の頻繁な氾濫により藩史を通じてほとんど整備されていなかったこともあり、旧状を全くとどめていない。

現在は本丸部分を上越教育大学附属中学校が使用し、残りは西側を公園、東側は県等の公共施設および一般住宅として整備されている。また、戦後の土地開発により、戦中まで残っていた南東部の外堀が埋め立てられている。本丸を含めた西半分には堀、土塁の一部が残されている。

歴史・沿革

江戸幕府成立以降

創藩当時の高田藩は、親藩の大藩である越前福井藩と共に加賀前田藩を丁度挟む配置である上、日本海側東北地方の外様大名への押さえとして、幕府にとって重要な位置づけとされた。その後、石高の減少や前田家と将軍家も縁戚を重ねるなどしたため、次第にその役割は小さなものとなっていった。

元来気候の厳しい北国であること、松平忠輝の改易や越後騒動など相次ぐ事件の舞台であったことなどによって、幕府や諸大名にとって高田藩は負のイメージを抱かせるものとなり、しばしば親藩、譜代大名で不始末を犯した大名の懲罰的な転封先、いわば流刑地のような位置づけが強くなった。

高田藩後期の大名

稲葉正往江戸に近い相模小田原城主より転封。同時に京都所司代を罷免された。綱吉を将軍に擁立することを反対した大老酒井忠清派の人物であったため、これを嫌った5代将軍綱吉により粛清された結果である。
のち老中に返り咲いた際、江戸に近い下総佐倉に移封された。戸田忠真佐倉城主より転封。江戸から極めて近い佐倉城主であったが、戸田氏が幕閣から遠ざかったために、江戸から離れた高田に移された。佐倉城主は幕閣の中枢の譜代大名がしばしば入封するのが例であったため、忠真の父の忠昌が致仕したことにより、領地替えとなった。

忠真に対する懲罰と言うより、稲葉正往の佐倉入りに伴い、忠真が弾き出された形に近い。その後、忠真が幕閣で重視されるに伴い、江戸により近く、関東の重要拠点である下野宇都宮に再移封された。松平定重桑名城主より転封。些細な経理ミスを犯した藩士の野村増右衛門を斬首し、懲罰は野村の一族にも及んだ。この厳科が5代将軍綱吉の不興を買い、東海道の要所の桑名から高田に転封された。五代のちに松平家は陸奥白河に移封された。榊原政純姫路城主より転封。政永の父、榊原政岑が幕府の倹約令を無視した言動を行った。吉原で豪遊し、女郎の高尾太夫を身請けするなどの行動が、倹約令を推し進めていた8代将軍吉宗の怒りを買った。

榊原家は幕府の名門ということもあり改易とはならなかったが、政岑は強制隠居・蟄居となり息子政純が相続したが、格の高い姫路城主の地位から越後高田に転封という処分になった。高田に移ってのちの政岑には、名君伝承が残る。

明治時代

▪️1870年(明治3年)に本丸御殿、三重櫓などを焼失。

▪️1873年(明治6年) 廃城令によって存城処分となり焼失しなかった建造物も取り壊された。

高田城の現在

1870年(明治3年)三重櫓が焼失して以降、城郭は土塁と堀が残るのみであったが、城跡の高田公園(高田城址公園)自体が風光明媚であり市民の憩いの場として、また観光地として、シンボルの復活を望む声があった。
これに応える形で上越市が1993年(平成5年)に再建した三重櫓は、外観を松平光長「本丸御殿図絵」、規模を稲葉正通時代の「高田城図間尺」を基にして復興された。

内部は鉄骨構造であるが、随所に木材を使用し木質感を再現している。最上階天井は本格的な木組みとしている。1、2階は展示室、3階は展望室として利用されている。

1945年(昭和20年)まで、城の広大な敷地はすべて軍の土地であったが、終戦後は他の公的機関に委ねられた。本丸部分は文部省管轄となり、新潟大学新潟第二師範学校附属中学校(現在の上越教育大学附属中学校)が1951年(昭和26年)からほぼ全域を使用することとなった。

西側は高田市に所有権が返還され高田城址公園や市の公共施設が整備された。東側は主に新潟県に所有権が移され、県の出先機関等が建てられた。2025年現在でもこれら戦後の枠組みはそのまま維持されている。