佐土原城【続日本100名城】

佐土原城跡は中世から近世、当地を支配した伊東氏から島津氏に至る450年余、当地域の政治・経済・文化の中心として機能した城跡です
鎌倉期以降、伊東氏の一族である工藤氏や田島氏が城を構えたとされる。
伊東氏は、元亀3年1572年の木崎原の戦いで島津軍に大敗を喫し、天正5年1577年には日向を捨て豊後へ退くことになる。その後、日向は島津氏の支配下となり、佐土原城には、島津家久が天正7年1579年に入った。
関ヶ原の戦いで2代豊久が亡くなり、佐土原は一時幕府領となったが、慶長8年1603年に徳川家康により島津以久が佐土原3万石に封ぜられると、佐土原城は、明治3年1870年に広瀬へ移転するまで、居城として機能した。
Contents
佐土原城の見どころ

佐土原藩は版籍奉還後の明治2年10月1日、明治政府からの許可を得た上で佐土原城から新しく築城する広瀬城へ移るよう転城令を出していた。佐土原城は廃城として取り壊した後、明治4年7月に廃藩置県により広瀬築城は中止された。
それ故に、佐土原城には建築物などの遺構は何も残っておらず、二の丸御殿は発掘調査の上、二条城をモデルにして復元されました。

佐土原城は政庁と城主の住まいだった居館エリアと中世城郭の色を残した山城エリアに分かれます。二の丸御殿が復元され、内部は資料館となっています。
山城はシラス台地特有の切り立った絶壁の切通や堀切が残ります。
山頂の本丸では発掘調査によって天守台石垣と金箔瓦が発見され、日本最南端の天守の存在が明らかになりました。

二ノ丸門

大手道 切通

二ノ丸御殿

大手道 堀切

中の道 堀切

天守台

中の道 切通

本丸 枡形虎口
名城スタンプと御城印
※スタンプ設置場所や御城印販売所の場所、営業時間は最新情報をご確認ください。
■続日本100名城スタンプ
・宮崎市佐土原歴史資料館 鶴松館
開館日:土・日・祝日(※平日は休館日)
開館時間:9時~16時半(入館は16時まで)
・宮崎市城の駅「佐土原いろは館」
年中無休(1/1~3を除く)9時~18時
■御城印販売
・宮崎市城の駅「佐土原いろは館」
年中無休(1/1~3を除く)9時~18時

佐土原城 周辺天気
| 別名 | 田島城、鶴松城 |
|---|---|
| 城郭構造 | 山城 |
| 天守構造 | 3重3階(非現存) |
| 築城主 | 田島休助 |
| 築城年 | 14世紀半ば |
| 主な城主 | 伊東祐賀ほか |
| 廃城年 | 1870年(明治3年) |
| 指定文化財 | 国の史跡 |
写真で見る佐土原城
登城レポート
マップ
アクセス
■公共交通機関
・JR日豊本線「佐土原駅」/宮崎交通バス 西都行き~東春田下車 徒歩8分
■車・バイク
・東九州自動車道「西都IC」から南東4キロ
佐土原城について
14世紀半ばに伊東氏の一族田島休助によって田島城(たじまじょう)として建てられた。
1427年(応永34年)、田島氏に代わり日向国に勢力を伸ばしていた本家筋の伊東氏の伊東祐賀が入城。佐土原氏を名乗る。さらに1480年(文明12年)に伊東本家筋から伊東祐国が佐土原氏の養子に入り、正式に伊東氏が田島城(佐土原城)を支配。伊東四十八城の一つに位置づけられた。
1536年(天文5年)に焼失。(1542年(天文11年)から1543年(天文12年))に、田島城(佐土原城)の跡地に新しく鶴松城(かくしょうじょう)として建てられた(通称は佐土原城)。西(現在の宮崎県西都市都於郡)にある伊東家の居城都 於郡城と並ぶほどの城に整備される。
その後、伊東氏は島津義久の侵略により豊後国に一時的に退去した際、義久の実弟島津家久が城主として入った(高城の合戦)。
1587年(天正15年)に豊臣秀吉の島津氏に対する九州平定により、島津義久は秀吉に完敗し降伏する。その直後に家久は急死(死因については暗殺などの諸説ある)、息子豊久が城主となる。
1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いで島津家は西軍に参加。豊久は討死し、徳川家康の家臣、庄田三太夫が預かるという形になった。その後1603年(慶長8年)に島津以久が3万石を領して入封、以後明治まで領した。
1625年(寛永2年)に2代藩主島津忠興の代に、山の上の建物を壊して、山の下へ城を移した。その理由は、城郭の老朽化による修繕費増大により、藩の財政では維持ができなくなったことと、1615年(元和元年)の武家諸法度の発令による大名の城郭に対する規則(新規築城禁止・居住補修の届け出)が考えられる。この際に正式名称が本家の鶴丸城と同様に「鶴」の文字をおいた松鶴城(しょうかくじょう)となる(通称は佐土原城)。
天守
江戸時代に書かれたと思われる佐土原城を描いた屏風には、二の丸とおぼしき場所に立派な鯱を持つ3重3階の櫓が見られる。「南九州には天守のある城は無い」「天守は本丸にある」というのが常識と思われていたため、この屏風の信憑性が疑われていたが、1996年(平成8年)の発掘で天守台跡と金箔瓦の破片が見つかり、佐土原城には天守に当たる建物があったことが確実となった。日本最南端の天守台として確認された。
島津忠興が佐土原藩政庁を城の麓に移したときに廃棄された。
MEMO
天守は、伊東義祐が城を整備した頃に作られたという説もあるが、豊臣政権下の島津豊久の時代であるという説も、徳川政権下の佐土原藩の時代ではないかという説もあり、はっきりしたことは判っていません
佐土原城 周辺スポット
愛宕神社
創建は奈良時代の718年とされ、「愛宕大権現」と称した。江戸時代初期の1603年、幕命により島津以久が佐土原城主となると、当社を佐土原藩の祈願所七社の一つとして社領を献じ、以後は歴代佐土原藩主の保護を受けました。
夏にはダンジリ喧嘩、秋には感謝祭が行われています。
大光寺
大光寺は臨済宗のお寺で、建武2年 1335年に創建された。江戸時代には、島津氏の保護を受け、寺の隆盛をきわめた。
寺にある文殊菩薩像は、底板にある記銘により貞和4年 1348年の製作とされ、4人の侍者(優填王・最勝老人・善財童子・仏陀波利三蔵)を従えた渡海文殊の姿を表現したもので、国の重要文化財に指定されている。
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