名護屋城【日本100名城】
名護屋城は豊臣秀吉が朝鮮出兵(文禄・慶長の役)に際して拠点とした城で、全国の諸大名が普請し1591(天正19)年10月からわずか6カ月で築城したと伝わる。唐津市の北西、小高い丘陵にあり、玄界灘を望む。
名護屋城の周囲約3km以内に、全国各地から集まった名だたる戦国大名の陣屋が130以上も立ち、多いときには20万人以上の人口がいたという。1955(昭和30)年には、城跡と23の陣屋跡が「名護屋城跡並びに陣跡」として国の特別史跡に指定されている。
Contents
名護屋城の見どころ

李氏朝鮮(高麗)に、服属と明征伐への協力を要請したが朝鮮は拒絶。交渉決裂を聞いた秀吉は、天正19年8月「唐入り」を翌年春に決行することを全国に告げ、肥前の名護屋に前線基地としての城築造を九州の大名に命じました。
・文禄の役:1592年開戦-1593年休戦
・慶長の役:1597年開戦-1598年終結
20万以上の兵が朝鮮に渡り、10万以上の兵が名護屋城に在陣しました。

戦国オールスターズが名護屋城に大集結!全国160家の大名が名護屋城に陣を構え、150以上の陣跡が確認されています。
その内、23箇所の陣屋が国の特別史跡に指定されています。陣跡めぐりだけでも1日楽しめます。豊臣期における大名の序列を陣跡から見れてとれるので、名護屋城の陣跡の詳細やマップは名護屋城オフィシャルをチェック!

豊臣秀吉の死後に廃城となり、一揆の拠点になることを阻止するために石垣は人為的に破壊されていますが、壮大な石垣が今でも残ります。
本丸と馬場の石垣は高さもあり圧倒されます。
名護屋城はその後の日本の城つくりに大きく影響を与えたと考えられます。
また、復元された山里口の連続枡形の石垣は必見です。

大手口

遊撃丸石垣

三ノ丸櫓台

馬場石垣

登城坂石垣

山里口

天守からの景色

天守台
名城スタンプと御城印
※スタンプ設置場所や御城印販売所の場所、営業時間は最新情報をご確認ください。
■続日本100名城スタンプ
・佐賀県立名護屋城博物館
開館時間 9:00~17:00 ※月曜休館
■御城印販売
・佐賀県立名護屋城博物館
開館時間 9:00~17:00 ※月曜休館



名護屋城 周辺の天気
| 別名 | 名護屋御旅館 |
|---|---|
| 城郭構造 | 梯郭式平山城 |
| 天守構造 | 望楼型5重7階(非現存) |
| 築城主 | 豊臣秀吉 |
| 築城年 | 天正19年(1591年) |
| 主な改修者 | なし |
| 主な城主 | 豊臣秀吉 |
| 廃城年 | 慶長3年(1598年) |
| 遺構 | 石垣、空堀、井戸 |
| 指定文化財 | 国特別史跡 |
写真で見る名護屋城
登城レポート
マップ
アクセス
■公共交通機関
・JR唐津駅から路線バス「名護屋城博物館入口」行き
■車・バイク
・唐津市内から車で30分
・長崎自動車道「多久IC」から車で70分
■駐車場
・無料駐車場あり
名護屋城について
名護屋(古くは名久野)は海岸線沿いに細長く広がる松浦郡の北東部の小さな湾内に位置し、中世には松浦党の交易拠点の一つであった。ここにはもともと松浦党の旗頭・波多氏の一族である名護屋氏の居城、垣副城があったが、豊臣秀吉は大陸への侵攻を企図した際、ここを前線基地として大掛かりな築城を行った。
名護屋城は波戸岬の丘陵(標高約90メートルほど)を中心に170,000平方メートルにわたり築かれた平山城の陣城である。五重天守や御殿が建てられ、周囲約3キロメートル内に120ヵ所ほどの陣屋がおかれた。 城の周囲には城下町が築かれ、最盛期には人口20万人を超えるほど繁栄した。
秀吉の死亡後、大陸侵攻が中止されたために城は廃城となったと考えられており、建物は寺沢広高によって唐津城に移築されたと伝わる。石垣も江戸時代の島原の乱の後に一揆などの立て篭もりを防ぐ目的で要所が破却され、現在は部分が残る。歴史上人為的に破却された城跡であり、破却箇所の状況が復元保存されている。
名護屋城の歴史
背景
天正15年(1587年)、豊臣秀吉は九州の役で島津義久を降した後、天正18年(1590年)、小田原の役において奥州伊達政宗を服属させ、北条氏直を降し、徳川家康を関東に移封して天下統一を成し遂げた。
国内統一の途中においてすでに秀吉は世界に目を転じており、九州平定以降、李氏朝鮮(高麗)に、服属と明征伐への協力を要請したが、朝鮮は拒絶した。その後も対馬の宗義調らが複数の交渉を重ねるが、朝鮮側は拒絶の意志を変えなかった。なお秀吉は同様に琉球や呂宋や高山国(台湾)にも使者を出した。
築城
宗義智から交渉決裂を聞いた秀吉は、天正19年(1591年)8月、「唐入り」を翌年春に決行することを全国に告げ、肥前の名護屋に前線基地としての城築造を九州の大名に命じた。また甥の内大臣豊臣秀次に関白を譲って自らは太閤となった。9月、平戸城主松浦鎮信に命じて壱岐の風本に城を築かせた。
その築城の担当は、松浦鎮信、日野江城主有馬晴信、大村城主大村喜前、五島城主五島純玄であった(宇久純玄はこの年、姓を五島に改める)。なお、城跡から出土した瓦に「天正十八年」の銘があるものが発見されたことから、築城開始時期が通説の天正19年より早かった可能性も考えられている。
10月上旬、全国の諸大名が名護屋へ到着し、城普請に取りかかった。『松浦古事記』によれば、20万5,570あまりの兵が高麗へ渡り、名護屋在陣は10万2415兵で、総計30万7,985兵で陣立てされた。
築城に際し、縄張りを黒田孝高、そして黒田長政、加藤清正、小西行長、寺沢広高らが普請奉行となり、九州の諸大名を中心に動員し、突貫工事で8か月後の文禄元年(1592年)3月に完成した。規模は当時の城郭では大坂城に次ぐ広壮なものであった。
ルイス・フロイスが「あらゆる人手を欠いた荒れ地」と評した名護屋には、全国より大名衆が集結し、「野も山も空いたところがない」と水戸の平塚滝俊が書状に記している。唐入りの期間は、肥前名護屋は日本の政治経済の中心となった。
構造
本丸・二の丸・三の丸・山里曲輪などを配し、本丸北西隅に望楼型5重7階の天守が築かれた。城跡からは金箔を施した瓦が出土しており、天守に葺かれていたものと考えられている。城郭の周辺には各大名の陣屋が配置された。
完成後も度々改築を繰り返したとされ、本丸西側は築城後に石垣部分を壊すことなくそのまま埋め立てて増築された事が判明し、旧石垣も発掘展示されている。三の丸櫓台北側では築城後に改造を受けて門が設置され、その後また撤去された事が発掘調査で判明している。 本丸大手、大手口、東出丸周辺も構造や櫓、城門に大きな相違が見られ、残された「肥前名護屋城図屏風」の二枚とも、現状と異なる部分が確認されている。
出兵
西国衆を中心に総勢15万8,000の兵が9軍に編成され、4月1日(5月12日)に小西行長・宗義智率いる第一陣が朝鮮半島へ出兵したのを皮切りに、名護屋を出発した諸隊は壱岐・対馬を経て朝鮮に渡っていった。秀吉は京都聚楽第を3月26日(5月7日)に出発し4月25日(6月5日)に当地に到着している。
以後大政所の危篤時を除いてこの地が本営となる。在城中、秀吉は渡海した諸将に指示を出す一方で、山里曲輪に築いた茶室で茶会を楽しんだり、瓜畑で仮装大会を催したりした。
文禄の役では最終的に、20万以上の兵が名護屋から朝鮮に渡った。当地には西国衆の渡海後も、東国衆と秀吉旗本衆の約10万の兵が駐屯している。多くの人員を養うには水源が足りなかったようで、水不足が原因の喧嘩が絶えなかったという。
朝鮮半島で戦線が膠着すると、翌文禄2年(1593年)4月には講和交渉が開始されるが、交渉が破談すると秀吉は、再び慶長2年(1597年)2月から14万人を朝鮮半島へと上陸させた。
この慶長の役でも、補給・連絡の中継地として名護屋は重要な役割を果たした。慶長3年8月18日(1598年9月18日)、秀吉が没したために全軍撤収し、名護屋城もその役割を終えた。出兵の期間中、秀吉が当城に滞在したのは延べ1年2か月であった。
MEMO
寺沢広高は唐津城の築城を開始した。この際に名護屋城を解体し、その遺材を使用しました。
本丸大手門は伊達政宗に与えられ仙台城に移築されたと伝わっていますが、仙台城の大手門は仙台空襲で焼失しました。
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