姫路城【日本100名城】

姫路城(ひめじじょう)は、兵庫県姫路市にある日本の城。江戸時代初期に建てられた天守や櫓等の主要建築物が国宝や重要文化財に指定されている。
その建築物の残存度は日本一で江戸時代の城郭の姿を最も残している。
主郭部を含む中堀の内側は「姫路城跡」として国の特別史跡に指定されており、ユネスコの世界遺産(文化遺産)リストにも登録され、日本100名城などに選定されている。
姫路城の見どころ

姫路城は堅牢な防御機能が備わっている為「難攻不落」とも呼ばれますが、実は合戦で使用された歴史が無い城です。
戦国時代には黒田官兵衛によって豊臣秀吉に戦闘無く姫路城は引き渡され、江戸時代は徳川幕府の平和な時代が続き、戊辰戦争では無血開城となりました。
しかし、昭和に姫路市はアメリカ軍の標的となりました。白亜の目立つ姫路城は敵機の格好の目標になる恐れがあり、大天守などが黒い網で覆われました。空襲によって姫路市は焼け野原となりましたが、姫路城に落とされた爆弾は不発弾だった為に、奇跡的に焼失を免れました。
当たり前のように見れる姫路城の姿は、姫路の人々が守り抜いた奇跡の集合体なのです。

姫路城の遺構としては大天守と3つの小天守、付随する渡櫓の8つが国宝に指定されています。さらに国の重要文化財が74棟も指定されています。建築物だけでなく石垣も壮大で、1日で周り切れないほど巨大な城郭です。
日本には数万の城が存在していましたが、そのほとんどが失われてしまいました。
しかし、姫路城にはかつての姿が江戸時代のまま現存しています。
姫路市のシンボルだった城は日本の誇る城となり、今では世界の宝として親しまれています。

菱の門

天守群

水堀

いの門

ろの門

はの門

にの門

ほの門

水の一門

油壁

水の二門

水の三門

との門

水の五門

備前門

ぬの門

りの門

化粧櫓

ワの櫓・カの櫓

帯櫓・帯郭櫓
登城レポート

ポイント
- 現存建築の残存度、整備、城郭範囲、どれをとっても最高クラス。間違いなく日本の城の最高峰に君臨
- 山陽新幹線の停車するJR姫路駅からも近いのでアクセスも抜群
平均:4.83
合計:29.0
- 遺構:遺構の多さ、貴重度
- アクセス(目安):新幹線が最寄り→5、駅が近い→4、駅から歩いて行ける距離→3、駅から遠いがバスが走っている→2、車が無いと行けない→1
- 満足度→攻城のトータル総評
- 歴史→時代に影響を与えた歴史の舞台→5、有名な武将や合戦があった城→4
- 整備:トイレの有無、城内の解説板、パンフレットのクオリティの評価
- 城郭範囲:観覧範囲の広さと、遺構の残存度。見どころの多さにも直結
※全ての城にそれぞれの魅力があるのは前提での主観的評価になります。
名城スタンプと御城印
※スタンプ設置場所や御城印販売所の場所、営業時間は最新情報をご確認ください。
■日本100名城スタンプ
・チケット売場近くの管理事務所
9:00~17:00(閉門は16:00)
■御城印販売
・西の丸茶屋
開館時間 9:00~18:00
・姫路城売店
開館時間 9:00~17:00
姫路城の周辺天気
| 別名 | 白鷺城 |
|---|---|
| 城郭構造 | 渦郭式平山城 |
| 天守構造 | 3重3階(1580年築)連立式望楼型 5重6階地下1階(1608年築) |
| 築城主 | 赤松貞範 |
| 築城年 | 1346年(南朝:正平元年、北朝:貞和2年) |
| 主な改修者 | 黒田重隆、羽柴秀吉・池田輝政 |
| 主な城主 | 小寺氏・黒田氏、池田氏、本多氏、松平氏、榊原氏、酒井氏 |
| 遺構 | 現存天守、櫓、門、塀、 石垣、堀、土塁、庭園 |
| 指定文化財 | 国宝(大小天守と渡櫓等8棟) 重要文化財 (櫓・渡櫓27棟、門15棟、塀32棟) 特別史跡 ユネスコ世界遺産 |
写真で見る姫路城
マップ
アクセス
■公共交通機関
・JR姫路駅、山陽姫路駅から徒歩20分
■車・バイク
・播但道「花田IC」から15分
・山陽姫路東ICから20分
・姫路バイパス姫路南ランプから10分
■駐車場
・専用有料駐車場あり
姫路城について
姫路城は現在の姫路市街の北側にある姫山および鷺山の中心に築かれた平山城で、日本における近世城郭の代表的な遺構である。江戸時代以前に建設された天守が残る現存12天守の一つで、中堀以内のほとんどの城域が特別史跡に、現存建築物の内、大天守・小天守・渡櫓等8棟が国宝に、74棟の各種建造物(櫓・渡櫓27棟、門15棟、塀32棟)が重要文化財に、それぞれ指定されている。
1993年(平成5年)12月にはユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。この他、「国宝五城」や「三名城」「三大平山城・三大連立式平山城」の一つにも数えられている。
姫路城の始まりは、1346年(南朝:正平元年、北朝:貞和2年)の赤松貞範による築城とする説が有力で、『姫路城史』や姫路市ではこの説を採っている。一方で赤松氏時代のものは砦や館のような小規模なもので、城郭に相当する規模の構築物としては戦国時代後期に西播磨地域で勢力を持っていた小寺氏の家臣、黒田重隆・職隆父子による築城を最初とする説もある。
戦国時代後期から安土桃山時代にかけて、黒田氏や羽柴氏が城代になると、山陽道上の交通の要衝・姫路に置かれた姫路城は本格的な城郭に拡張され、関ヶ原の戦いの後に城主となった池田輝政によって今日見られる大規模な城郭へとさらに拡張された。
江戸時代には姫路藩の藩庁となり、更に西国の外様大名監視のために西国探題が設置された。城主が幼少・病弱・無能では牽制任務を果たせないので、大名が頻繁に交替して城主に成っている。池田氏に始まり譜代大名の本多氏・榊原氏・酒井氏や、親藩の松平氏が配属され、池田輝政から明治新政府による版籍奉還時の酒井忠邦まで約270年間、城主は6氏31人(赤松氏から数えると約530年間、13氏48人)が務めた。
明治時代初期に陸軍省の管理下に入ったが、まもなく民間に払い下げとなり、競売で23円50銭で神戸清次郎に落札されたが、その後に権利が放棄されたらしく、国有に戻っている。その後は陸軍兵営地となり歩兵第10連隊の駐屯地として使用され、兵舎増築のため本城、向屋敷、東屋敷等が撤去された。年を経るごとに腐朽が進んでいたが、陸軍の中村重遠工兵大佐の働きかけによって大小天守群・櫓群などを名古屋城とともに保存する処置が取られ、その後また腐朽が進むと市民の間から衆貴両院に修復工事の陳情が行われ、議会の決議により国費9万円をもっての「明治の大修理」が行われた。
この大修理を機に市民の間から陸軍省から姫路市への払い下げと城を公開することを求める声が強まり、姫路市会の決議を経て1914年(大正3年)に、軍用地を除き姫路市への無償払い下げが決定し、公開されることなった。
史蹟名勝天然紀念物保存法に基づき1927年(昭和2年)には姫路城は史跡に指定され、1931年(昭和6年)に姫路城天守閣が国宝指定を受けた。太平洋戦争中には姫路も2度の空襲被害があったものの、大天守最上階に落ちた焼夷弾が不発弾となる幸運もあり奇跡的に焼失を免れ、現在に至るまで大天守をはじめ多くの城郭建築の姿を残している。
歴史・沿革
鎌倉時代の終わりとなった1333年(元弘3年)の元弘の乱で、護良親王の令旨を奉じ播磨国守護の赤松則村が挙兵し、上洛途中の姫山にあった称名寺を元に縄張りし、一族の小寺頼季に守備を命じた。南北朝の争乱では、赤松則村は足利尊氏に呼応し再度挙兵し、1346年、次男の赤松貞範が称名寺を麓に移し姫山に築城し姫山城とした。1349年、貞範が新たに庄山城を築城して本拠地を移すと、再び小寺頼季が城代になって以後は小寺氏代々が城代を務める。
1441年(嘉吉元年)、嘉吉の乱を起こした赤松満祐・教康父子を山名宗全らが討伐軍を挙げ、赤松父子は城山城で自害し赤松氏は断絶し、赤松満祐に属していた城代の小寺職治は討死した。その後、山名氏が播磨国守護に、山名氏の家臣・太田垣主殿佐が城代になった。1458年(長禄2年)、長禄の変で後南朝から神爾を取り戻した功績で赤松政則(満祐の弟の孫)の時に赤松氏再興が許された。1467年(応仁元年)、応仁の乱で山名氏に対立する細川勝元方に与した政則が弱体化した山名氏から播磨国を取り戻し、姫路城に本丸、鶴見丸、亀居丸を築いた。
1469年(文明元年)、則村が隣国の但馬国に本拠地がある山名氏に備えるため新たに築いた置塩城に本拠地を移し、小寺豊職が城代になった。1491年(延徳3年)、豊職の子・政隆が城代になり、御着城(姫路市御国野町御着)を築城開始。1519年(永正16年)、政隆が御着城に本拠地を移し、子の則職が城代になった。
1545年(天文14年)、則職が御着城に移り、家臣の黒田重隆に城を預ける。黒田重隆・職隆父子が主君で御着城主の小寺政職(則職の子)の許可を受けて、御着城の支城として1555年(天文24年)から1561年(永禄4年)の間に、現在よりも小規模ではあるが居館程度の規模であったものから姫山の地形を生かした中世城郭に拡張したと考えられている。姫路(姫山)に城があったと確認できる一次史料は、永禄4年の『正明寺文書』に「姫道御溝」の記述や『助太夫畠地売券』に城の構えがあるという記述で、これらを根拠に姫路城の始まりという説もある。職隆は百間長屋を建てて貧しい者や下級武士、職人、行商人などを住まわせるなどして、配下に組み入れたり情報収集の場所としていた。
1567年(永禄10年)、職隆の子・孝高(官兵衛・如水)が城代になった。1568年(永禄11年)、青山・土器山の戦いで赤松政秀軍の約3,000人に対して黒田軍(職隆・孝高父子)は約300人という劣勢で姫路城から撃って出て赤松軍を撃退する。以後、1573年(天正元年)まで孝高が城代を務めた。
1576年(天正4年)、中国攻めを進める織田信長の命を受けて羽柴秀吉が播磨に進駐すると、播磨国内は織田氏につく勢力と中国路の毛利氏を頼る勢力とで激しく対立。最終的には織田方が勝利し、毛利方についた小寺氏は没落した。ただし小寺氏の家臣でありつつも早くから秀吉に誼を通じていた黒田孝高はそのまま秀吉に仕えることとなった。1577年(天正5年)、孝高は二の丸に居を移し本丸を秀吉に譲った。
1580年(天正8年)、秀吉は三木合戦で三木城を、続いて英賀城などを落城させ、播磨を平定。孝高は秀吉に「本拠地として姫路城に居城すること」を進言して姫路城を献上、自らは市川を挟んで姫路城の南西に位置する国府山城(こうやまじょう)に移った。秀吉は、同年4月から翌年3月にかけて行った大改修により姫路城を姫山を中心とした近世城郭に改めるとともに、当時流行しつつあった石垣で城郭を囲い、太閤丸に天守(3層と伝えられる)を建築し姫路城に改名する。
あわせて城の南部に大規模な城下町を形成させ、姫路を播磨国の中心地となるように整備した。この際には姫路の北を走っていた山陽道を曲げ、城南の城下町を通るようにも改めている。同年10月28日、龍野町に、諸公事役免除の制札を与える。この最初の条文において「市日之事、如先規罷立事(市場の日のことは、以前の規定に従って取りやめることとする)」とあることから、4月における英賀城落城の際に、姫路山下に招き入れ市場を建てさせた英賀の百姓や町人達が龍野町に移住したとする説がある。1581年(天正9年)、秀吉は姫路城で大茶会を催した後、鳥取城攻略へ出陣した。
1582年(天正10年)6月、秀吉は主君・信長を殺害した明智光秀を山崎の戦いで討ち果たし、天下人の地位へ駆け上っていく。このため1583年(天正11年)には天下統一の拠点として築いた大坂城へ移り姫路城には弟・豊臣秀長が入ったが、1585年(天正13年)には大和郡山へと転封。替わって木下家定が入った。
1600年(慶長5年)、池田輝政が関ヶ原の戦いの戦功により三河吉田城(15万石)から播磨52万石(播磨一国支配)で入城した。輝政は徳川家康から豊臣恩顧の大名の多い西国を牽制する命を受けて1601年(慶長6年)から8年掛けた大改修で姫山周辺の宿村・中村・国府寺村などを包括する広大な城郭を築いた。
中堀は八町毎に門を置き、外堀からは城下と飾磨津を運河で結ぶ計画であったが、輝政の死去と地形の高低差の問題を解決できず未完に終わる。運河計画は後の本多忠政の時代に船場川を改修して実現することになる。普請奉行は池田家家老の伊木長門守忠繁、大工棟梁は桜井源兵衛である。作業には在地の領民が駆り出され、築城に携わった人員は延べ4千万人 – 5千万人であろうと推定されている。また、姫路城の支城として播磨国内の明石城、赤穂城、三木城、利神城、龍野城、高砂城も整備された。
1617年(元和3年)、池田氏は跡を継いだ光政が幼少であり、山陽道の要衝を任せるには不安であることを理由に因幡国鳥取藩へ転封させられ、伊勢国桑名藩から本多忠政が15万石で入城した。忠政は城の西側を流れる妹背川を飾磨津までの舟運河川に改修して船場川と改名した。1618年(元和4年)には千姫が本多忠刻に嫁いだ化粧料を元に西の丸が整備され、全容がほぼ完成した。
藩主は親藩および譜代大名が務めたが、本多家の後は奥平松平家、越前松平家、榊原家、再び越前松平家、再び本多家、再び榊原家、再々度入封した越前松平家と目まぐるしく入れ替わる。1749年(寛延2年)に上野国前橋城より酒井氏が入城してようやく藩主家が安定する。しかし、姫路城は石高15万石の姫路藩にとっては非常な重荷であり、譜代故の江戸幕府要職の責務も相まって藩の経済を圧迫していた。
幕末期、鳥羽・伏見の戦いにおいて姫路城主酒井忠惇は老中として旧幕府方に属し、先の将軍だった徳川慶喜とともに行動を共にしたため、慶喜とともに朝敵となり、姫路城は岡山藩と龍野藩を主体とする新政府軍の兵1,500人に包囲され、車門・市ノ橋門、清水門に兵を配置されている。この時、池田茂政の率いる岡山藩の部隊が景福寺山に設置した大砲で姫路城に向けて数発空砲で威嚇砲撃を行っている。
その中に実弾も混じっており、このうち一発が城南西の福中門に命中している。両者の緊張は高まり、新政府軍の姫路城総攻撃は不可避と思われたが、摂津国兵庫津の勤王豪商・北風荘右衛門貞忠が、15万両に及ぶ私財を新政府軍に献上してこれを食い止めた。この間に藩主の留守を預かる家老達は最終的に開城を決定して新政府に恭順した。こうして姫路城を舞台とした攻防戦は回避された。
1869年(明治2年)の版籍奉還後、姫路城は国有化された。当時城郭は軍事建築物だったので姫路城も初め兵部省が管理し、明治5年(1872年)の兵部省廃止後は陸軍省に引き継がれた。大阪鎮台の管轄下になった。同年に陸軍省は全国城郭の存廃を定め、姫路城は存置となったが、維持費が莫大なうえ、老朽化が著しく保存修理に着手できる見込みもなかったので、腐朽する前の除却に着手したが、明治天皇巡幸の際に名古屋鎮台司令長官四条隆謌の進言により除却が見合わせとなった。
姫路城は民間に売却されることになり、公入札(競売)が行われ、姫路米田町の神戸清一郎が23円50銭で落札した。落札の際、旧城主の酒井忠邦より東屋敷庭前に据え置かれた芥田匠作の雪見灯籠を購得し、これを1892年(明治25年)に歩兵第10連隊本部へ寄贈した際に「撮歴縁起」書と銀杯を拝受した。
陸軍省と協力して城の永久保存をするために落札したという説と、城の古鉄または瓦を売るのが目的であったという説の2つがあるが、後者の説では、瓦を一般家屋に転用するには城の瓦は大きく重すぎることや解体費用が掛かりすぎるとの理由で結局そのままにされ、権利も消失した。なお1927年(昭和2年)5月末には、その息子である神戸清吉が、姫路城は父が落札したはずなのにいつの間にか国有になっているとして、弁護士の長田三保二を雇って姫路城の所有権を主張し、大蔵省を相手取って訴訟を起こすことを検討していることを読売新聞などが報じている。
それによると彼の父清一郎が落札したことは明らかだが、その後の事実関係が明瞭でなく、民法施行前のことでもあり、民法によるにしても時効にかかっているため、訴訟を断念したとしている。別の新聞が後日取材したところでは提訴する意思がないことを述べており、また同記事で1874年(明治7年)に買い受けた後に陸軍省に買い上げてもらったとしている。さらに後年の姫路市立城郭研究室による神戸氏の子孫、神戸雅弘氏への調査では、神戸清一郎は誤りであり、神戸清次郎が正しい名前であると指摘されている。
城跡は陣地として好適な場所であったことから陸軍の部隊は城跡に配置される例が多く、国有に戻った後の姫路城も1874年(明治7年)に三の丸を中心に歩兵第10連隊が設置され、この際に兵舎の増築のため本城と向屋敷、東屋敷等の撤去が行われた。また1882年(明治15年)には失火で備前丸が焼失した。1896年(明治29年)には姫路城南西に歩兵第39連隊が設置された。この頃の建物は第10師団兵器庫(1905年(明治38年)-1913年(大正2年)。現在の市立美術館)、第10師団師団長官舎(1924年(大正13年)。現在の淳心会本部)、旧逓信省姫路電信局(1930年(昭和5年)。後のNTT西日本兵庫支店姫路2号館、現在の姫路モノリス)などが残っている。中曲輪南東部(射楯兵主神社周辺)には第8旅団司令部や偕行社が置かれた。
1873年(明治6年)から1876年(明治9年)にかけて東部外堀の東半分が埋め立てられ、生野銀山と飾磨津を結ぶ生野鉱山寮馬車道が整備された。
国有に戻った後も姫路城の腐朽は進み、1877年(明治10年)12月には陸軍少佐の飛鳥井雅古(飛鳥井家)が陸軍中将の西郷従道に宛てて『姫路城天守修繕之義ニ付伺』を提出して承認されている。さらに1878年(明治11年)12月26日には姫路城の腐朽を憂いた陸軍省第四局長代理中村重遠大佐が名古屋城と姫路城を国内無比の名城となし、我が国往古の築城の模範としてこれを保存し、保存修理に要する費用は陸軍省に於いて負担すべき旨、陸軍卿山縣有朋に報告し、太政官に上申された結果、1879年(明治12年)1月29日の姫路城と名古屋城の保存が決定した。姫路城の菱の門内側には中村大佐の顕彰碑が残る。1879年(明治12年)に行われた大天守の地階を補強支柱工事の文書が残っている。1890年(明治23年)にも補強のために大天守地階に支柱22本、筋違21本を入れる工事が行われた。
しかしその後も年を経るにつれて腐朽は進み、いつ倒壊してもおかしくない状態になったため、更なる大規模工事が必要となった。市民の間でも姫路城の保存修理を求める運動が高まり、1908年(明治41年)には白鷺城保存期成同盟が組織され、政府や衆貴両院に陳情を行った。その結果1910年(明治43年)第26回議会を通過し、9万円の予算をもっての「明治の大修理」が行われることになった。
工事は1910年(明治43年)7月10日から1911年(明治44年)7月15日に行われ、修理個所は、大天守、東小天守、西小天守、乾小天守、はの渡櫓、ろの渡櫓、いの渡櫓、にの渡櫓、台所、水の四門、水の五門、水の六門が対象となった。
明治の大修理終了後、姫路市は陸軍が使用していない本丸・二の丸と三の丸の一部の城域を借り受け、姫山公園として整備し、1912年(大正元年)8月から一般公開を始めた。1919年(大正8年)には陸軍省が西の丸を修理している。城内にあった歩兵第10連隊は後に岡山市へ移転し、歩兵第39連隊は姫路所在のまま太平洋戦争の終戦を迎えた。1912年(大正元年)から1932年(昭和7年)にかけて南部中堀が埋め立てられ道路とされた。
1928年(昭和3年)に姫路城は史跡に指定され、文部省の管理となる(実際の管理は姫路市)。次いで1931年(昭和6年)1月、大小天守など8棟が国宝に指定され、同年12月には渡櫓、門、塀等74棟も国宝に指定される。ただしこの時点での「国宝」は「旧国宝」と呼ばれるもので、1950年(昭和25年)施行の文化財保護法における重要文化財に相当するものである。
1933年(昭和8年)、本来は繋がっていない三の丸東部の内船場蔵と喜斎門南の下三方蔵を繋ぐ通路を整備、1957年(昭和32年)に拡幅した。1944年(昭和19年)、中村重遠大佐の顕彰碑を建立。
太平洋戦争中、姫路城の白壁は非常に目立ち、また陸軍の部隊が置かれていてかつ軍需産業の拠点でもあった姫路はアメリカ軍の爆撃対象とされることは明らかであったため、黒く染めた網(擬装網)で城の主要な部分を覆い隠すこととした。さらに1945年(昭和20年)3月には大天守最上階に機関銃が持ち込まれている。しかし、同年7月3日の姫路空襲で城下の町は焼き尽くされた。城内にも着弾したが本城跡にあった中学校校舎が焼失しただけで、西の丸に着弾した2発は不発あるいはすぐに消火された。
また大天守にも焼夷弾が直撃したものの、最上階南側の薄い窓板を貫通して横滑りするように、最も衝撃が小さく、爆発しにくい角度で城内に入り込んだため、不発であったことなどにより、城郭建築の焼失は免れた。地元出身の作家阿部知二は、赤く燃える町の火炎の色を天守が映すさまを目撃し「妖しい生命を持った美しい怪鳥、生霊」と表している(清水橋西袂に文学碑が建つ)。翌朝、焦土の中に無事に建つ姫路城を見て、姫路市民は涙したという。この空襲の罹災者を西の丸に避難・収容した。擬装網は終戦後に撤去された。
かつて、姫路城は貴重な文化財なので爆撃対象とはされなかったと言われていたこともあるが、獨協大学の四宮満の研究によって否定されている。城内にも実際に着弾したものの、運良く破壊を免れただけのことであり、事前に爆撃対象から外されていたわけではなかったと考えられる。実際に内曲輪内の西三の丸にあった旧制姫路市立鷺城中学校(現・姫路市立姫路高等学校)は爆撃によって焼失している。
当時のB-29の機長だったアーサー・トームズは戦後50年に来日し姫路を訪れた際に「私は城があることすら知らなかった。上官から城について何の指示もなかった。レーダーから見れば城も輝く点の一つであり、それを歴史的建造物と認識するのは難しい」と語っており、実際の空爆時刻が夜間だったこともあって上空からは姫路城とは視認されず、レーダーには外堀の水が映ったことから姫路城一帯を沼地だと思い、沼地を攻撃しても意味がないと判断したため爆撃しなかったと回顧している。
この戦争の前後、いわゆる「昭和の修理」が行われた。直接的な契機は1934年(昭和9年)の豪雨で櫓や石垣の一部が損壊したことによる。この年から順次行われた修理は、戦時中の中断をはさんで1964年(昭和39年)まで続き、特に1956年(昭和31年)からの大天守の修理を「昭和の大修理」という。一連の修理は全解体を伴う大規模かつ抜本的なものであったことから「昭和の築城」の異名もとる。なお、この機会に後出の俗謡にも歌われた城の傾きを改善するために、礎石の取替えが行なわれ、鉄筋コンクリート製の基礎構造物になった。
1947年10月、三の丸を「三の丸野球場」として使用開始。
1964年(昭和39年)1月27日には、訪日中のベルギー国王ボードゥアン一世夫妻が淳心会(ベルギー発祥の修道会)の招きで来姫、淳心学院・賢明女子学院と併せて「昭和の大修理」完工間近の姫路城を見学している。これを機縁として姫路市とベルギー・シャルルロワ市が翌1965年に姉妹都市提携を結んでいる。
1976年(昭和51年)から姫路公園整備計画が行われ城北の姫山住宅跡地が公園に整備され、野外ステージなどが建てられた。この整備工事の過程で清水門の石垣が発掘された。
1992年(平成4年)、日本は世界遺産条約を批准すると、世界遺産暫定リストに姫路城などを記載した。そして姫路城は最初に推薦された物件の一つとなり、1993年(平成5年)12月11日、法隆寺地域の仏教建造物とともに日本初の世界遺産(文化遺産)に登録された。後述するように、木造建築物であり抜本的な修理工事を経ている姫路城の登録は、文化財のオーセンティシティ(真正性、真実性)をどう評価するかという問題を改めて提起し、その後の世界遺産登録にも大きく影響した「奈良ドキュメント」成立につながった。この年から石井幹子による夜間照明の演出が始まる。令和5年から順次LED照明に切り替えられる。
この世界遺産登録を機に制定されたのが「平成中期保存修理計画」である。このときには大天守の修理は昭和の大修理から50年を経て別途検討することとなっていたが、その後の破損などを踏まえて計画が前倒しされ、2009年(平成21年)から2015年(平成27年)に姫路城大天守保存修理工事が行われることとなった。これがいわゆる「平成の大修理」である。
石垣
築かれた時代によって大きく5つの時期に分けられる。本多氏以降は城郭の増改修に幕府の許可が必要となったため補修が主になっている。
1期 – 羽柴氏時代、1580年(天正8年)-1582年(天正10年)に築かれた石垣で、二の丸に多く残る。野面積み。
2期 – 池田氏時代、1601年(慶長6年)-1609年(慶長14年)に築かれた石垣で、本丸に多く残る。打ち込み接ぎ、算木積み、扇の勾配。
3期 – 本多氏時代、1618年(元和4年頃)に築かれた石垣で、西の丸に多く残る。打ち込み接ぎ、算木積み。
4期 – 江戸時代、1867年(慶応3年)までに行われた三の丸など各所の補修。切り込み接ぎ。
5期 – 明治時代、1878年(明治7年)以降に行われた西の丸や三の丸(本城)などの補修。
内曲輪の石垣には約10万t超の石材が使用されている。石質は多くの割合を占める凝灰岩の他、花崗岩・砂岩・チャートがある。石材は広峰山・増位山・景福寺山・手柄山・八丈岩山・砥堀山・鬢櫛山(びんぐしやま)・今宿山・別所谷などの近隣の山から採取された他、転用石として五輪塔・宝篋印塔・古墳の石棺・墓石・石臼・石灯籠の台座などが再利用されている。石材には、地名等の文字、斧や五芒星等の文様が刻印されたものもあり、54種類117個が確認できる。


姫路城 周辺スポット
姫路城西御屋敷跡庭園 好古園
好古園は姫路城の西屋敷跡に整備された、池泉回遊式の日本庭園です。発掘調査で分かった屋敷跡や通路の跡を活用して造られた庭園で、滝を配した大池のある庭・潮音斎、姫路城の隠れたビュースポットでもある築山と大池の庭などのほか、趣の異なる9つの庭を巡ることができます。江戸の庭園を彷彿とさせるその情景から、映画や時代劇のロケ地として使われることも。園内には、数寄屋造りの茶室・双樹庵や庭園を眺めながら食事ができるレストラン・活水軒もあり、ゆったりと過ごせる人気のスポットになっています。
廣峯神社
廣峯神社は、姫路城と姫路の街から瀬戸内海までを見下ろす、姫路市の広峰山山頂にある神社です。創建には奈良時代の遣唐使・吉備真備(きびまきび)が関わっていると伝えられる歴史ある神社で、素戔嗚尊(すさのおのみこと)を初めとする古代の神々が祀られており、本殿と拝殿は国の重要文化財にも指定されています。また、本殿裏の9つの穴のうち自分の星に対応する穴に願い札を入れると願いが叶うという「陰陽九星参り」という珍しい参拝方法も。2019年には境内に黒田官兵衛を祀る神社を建立し話題となっています。
書寫山園教寺
書寫山圓教寺(しょしゃざんえんぎょうじ)は書写山にある天台宗の古刹で、緑深い山中に数多くの堂塔が並ぶ様子から「西の比叡山」とも称されます。
京都の清水寺を思わせる観音堂「摩尼殿」や、本堂にあたる「大講堂」を初めとする数々の歴史を感じさせる建物が立ち並ぶ境内は、国内外の映画や大河ドラマのロケ地としても有名です。境内のあちらこちらに配置された建造物や仏像は、その多くが国や県の指定文化財でもあります。
播磨国総社 射楯兵主神社
姫路城の南西に位置し、歴代の姫路城城主にも信仰された古社。射楯大神(いたてのおおかみ)と兵主大神を大祭神とし、正式には「射楯兵主神社」といいます。二柱の神様と合わせて、播磨国のすべての神様が祀られているため「総社」とされています
。年末年始に多くの人が集まる初詣スポットとして、また最近では恋愛のパワースポットとしても人気があります。奇祭として有名な、60年に一度の一ツ山大祭、30年に一度の三ツ山大祭では、門前に色とりどりの絹布を巻いた円筒形の「山」を置いて祭事が行われます。
姫路市埋蔵文化財センター
播磨国の中核都市として栄えた姫路の街。古くは旧石器時代から江戸時代まで、姫路市内には約1,200か所の遺跡があることが知られています。姫路市埋蔵文化財センターは、こうした遺跡や出土品などの埋蔵文化財を調査・研究する施設で、出土品の展示を鑑賞することができます。
企画展や講演会、史跡の見学会、勾玉づくり体験なども随時行われていて、姫路の歴史を楽しく学ぶことができる施設です。南側に隣接する「宮山古墳公園」では、桜や紅葉など四季折々の自然を楽しむこともできます。
姫路城 周辺宿泊施設






























