伏見城

伏見の桃山地区は東山から連なる丘陵の最南端に位置し、豊臣秀吉・徳川家康が築いた複数の城の総称。
元和9(1623)年に廃城となりました。

現在は本丸跡周辺に明治天皇陵があります。その跡地の一部には、昭和39(1964)年に遊園地の伏見桃山城キャッスルランドが開園し、天守閣が造られました。

キャッスルランドは平成15(2003)年1月に閉園しましたが天守閣は現在でも残されています。

伏見城の見どころ

歴史ポイント

伏見城は、豊臣秀吉が隠居後の拠点として築いた城で、後に徳川家康が再建しました。
1592年に着工されましたが、大地震で倒壊したため、秀吉が木幡山に再建し晩年を過ごしました。その後、関ヶ原の戦いで焼失したものの、徳川家康が復旧し江戸時代の幕開けを支える拠点として機能しました。

大坂の陣の後に廃城となり、跡地が桃の木の名所となったことから「桃山」の地名の由来となっています

遺構ポイント

かつて栄華を誇り政治の中心地となった伏見城は、現在明治天皇陵になっており、宮内省管轄エリアが多く、主郭を含めて立入禁止が多いので、当時の遺構は少ないです。

現在は北堀公園に外堀の一部と、明治天皇陵の参道には当時の使われていた石が残っています。

伏見城の近くにある御香宮神社には、伏見城の大手門が移築されています。現在は閉演しているキャッスルランドには模擬の大天守や小天守、模擬城門があるので雰囲気を味わうことができます。

治部池

模擬天守

北堀

模擬城門

移築大手門

模擬城門

登城レポート

MEMO

  • 立入禁止エリアも多いので現在見ることのできる城郭範囲はかなり狭い
  • 遺構は北堀公園に堀の一部が残ているが、遺構は全体的に少ない

平均:3.16
合計:19.0

  • 遺構:遺構の多さ、貴重度、復元建築も含めて見どころの多さ
  • アクセス(目安):新幹線が最寄り→5、駅が近い→4、駅から歩いて行ける距離→3、駅から遠いがバスが走っている→2、車が無いと行けない→1
  • 満足度→攻城のトータル総評
  • 歴史→時代に影響を与えた歴史の舞台→5、有名な武将や合戦があった城→4
  • 整備:トイレの有無、城内の解説板、パンフレットのクオリティの評価
  • 城郭範囲:観覧範囲の広さと、遺構の残存度。見どころの多さにも直結

※全ての城にそれぞれの魅力があるのは前提での主観的評価になります。

伏見城の御城印

■御城印販売
・桃山天満宮社務所(御香宮神社)

・伏見夢百衆

・伏水酒蔵堂 Fushimi Sakagura Do

伏見城 周辺の天気

別名桃山城、木幡山城
城郭構造梯郭式平山城
天守構造不明(指月・1592年築)
不明(木幡山・1596年築/1601年再)
いずれも非現存
複合式望楼型5重6階(花畑曲輪跡・1964年築・RC造模擬)
築城主豊臣秀吉
築城年1592年(文禄元年)
主な改修者徳川家康
主な城主豊臣氏、徳川氏
廃城年1623年(元和9年)
遺構移築門、石垣、水堀、土橋、天守台
指定文化財伏見桃山陵が宮内庁治定
再建造物模擬天守

写真で見る伏見城

大天守と小天守
previous arrow
next arrow
 
大天守と小天守
模擬城門
伏見城の石
伏見城の石
治部池
移築 大手門
移築 大手門
previous arrow
next arrow

マップ

アクセス

■公共交通機関
・JR奈良線「JR藤森駅」から「伏見桃山城」まで徒歩12分
・JR奈良線「桃山駅」から「伏見桃山城」まで徒歩12分
・近鉄京都線「近鉄丹波橋駅」から「伏見桃山城」まで徒歩12分

車・バイク
・阪神高速8号京都線「城南宮南IC」から「伏見桃山城」まで2.4km
・阪神高速8号京都線「伏見IC」から「伏見桃山城」まで2.5km

■駐車場
・有料駐車場「伏見桃山城運動公園駐車場」あり

伏見城について

伏見の桃山地区は東山から連なる丘陵の最南端に位置し、南には巨椋池が広がり水運により大坂と京都とを結ぶ要衝の地であった。

伏見城は三度に渡って築城され、最初の城は朝鮮出兵(文禄の役)開始後の1592年(文禄元年)8月に豊臣秀吉が隠居後の住まいとするため伏見指月(現在の京都市伏見区桃山町泰長老あたり)に建設を始めた。
このとき築かれたものを指月伏見城、後に近隣の木幡山(桃山丘陵)に再築されたものを木幡山伏見城と呼んで区別され、さらに木幡山伏見城は豊臣期のものと、伏見城の戦いで焼失した跡に徳川家康によって再建された徳川期とに分けられる。豊臣期の伏見城は、豪華な様式が伝わる。

指月に築かれた伏見城は築城開始から2年後の1594年(文禄3年)に秀吉が入城し、更にその2年後の1596年(文禄5年)に完成をみるが、その直後に慶長伏見地震によって倒壊した。このため、指月から北東約1kmの木幡山に新たな城が築き直されることになり、翌1597年(慶長2年)に完成した。しかし、秀吉はその1年後の1598年(慶長3年)に城内で没した。

秀吉の死後、その遺言によって豊臣秀頼は伏見城から大坂城に移り、代わって五大老筆頭の徳川家康がこの城に入り政務をとった。関ヶ原の戦いの際には家康の家臣鳥居元忠らが伏見城を守っていたが、石田三成派の西軍に攻められて落城し建物の大半が焼失した。

なお、立てこもっていた徳川家の家臣らが自刃した建物の床板は、供養も兼ねて京都市の養源院、正伝寺などで天井板として再利用されたとの言い伝えがあり、血天井として現在も生々しい痕を見ることができる。ただし、徳川家家臣らの自刃した建物が焼失を免れた記録や移築を裏付ける資料はなく、信憑性は定かではない(正伝寺の天井板はかつて科学的調査がされ、その際「人血であることは確認できなかった」が「血液型は数種検出された」とする(正伝寺掲出新聞記事)。

焼失した伏見城は1602年(慶長7年)ごろ家康によって再建され、1619年(元和5年)に廃城とされた。このとき建物や部材は二条城、淀城、福山城などに移築された。伏見城の跡には元禄時代ごろまでに桃の木が植えられて桃山と呼ばれるようになり、現代に至り伏見城は桃山城あるいは伏見桃山城とも呼ばれるようになった。

第1期第2期第3期第4期第5期
豊臣秀吉の隠居屋敷の造営豊臣秀吉の指月の岡と向島築城豊臣秀吉の木幡山築城徳川家康の木幡山築城再築徳川秀忠、家光の改修・破却
1592年(文禄元年)-1593年(文禄2年)1594年(文禄3年)-1595年(文禄4年)1596年(慶長元年)-1600年(慶長5年)1600年(慶長5年)-1606年(慶長11年)1607年(慶長12年)-1623年(元和9年)

城郭

現在の城跡は江戸時代初期に破却され、その後明治時代に宮内省の御料地とされ、明治天皇桃山陵、昭憲皇太后桃山東陵となったため、遺構調査も容易ではなく、年代によっては史料が不明な点も多いが、推定復元は試みられている。

「伏見指月城がどのような縄張りだったのかについてはくわしいことはわからない」とし、指月伏見城がどのような城だったかは不明と指摘されている。また「伏見城築城工事に動員された人員の数が指月の面積に対して多すぎること、発掘調査によっても堀等が検出されなかった丘陵北側の防備が弱いこと、当時の文献で「指月」と呼ぶものが1例しかないこと等から、伏見城は当初から木幡山一帯を主体部とした」としており、指月伏見城のみに城があったという説を最近の発掘調査などより否定し、木幡山に伏見城の主体があった可能性が指摘されている。
しかし最近になって従来指月城があったとされていた場所から秀吉時代のものと思われる石垣が発見されたためやはり指月城は現在の指月の地にあったものと考えられるようになった。推定地はJR桃山駅南側にある市街地となっており、団地などが建っている。

縄張り

木幡山伏見城時代の縄張りは、標高約105mの木幡山丘陵一帯に比較的複雑な構造をしている。本丸部分は東西約200m、南北約300mの長方形を基調に、本丸西側には、側室「淀殿」の御殿があった二の丸(西の丸)、北東側には側室「松の丸殿」の御殿があった松の丸、東側には名護屋丸、南側には四丸(増田長政丸)を配して、北側には、本丸から松の丸そして出丸を介して、北側一帯曲輪群(4つの曲輪)と連絡する。

更に二の丸の南西側には、側室「三の丸殿」の御殿があった三の丸、そこから北西側には治部少丸(石田三成丸)を配し、その南側に大手が推定されている。治部少丸の間際まで及んでいた内堀は今も部分的に「治部池」として残る。この城の特徴として、城南東部に山里丸、茶亭学問所の空間があり、その先に宇治川と繋がる舟入場が設けられていた。また、宇治川により守られる南方部に対し脆弱な北方については、堀と防塁を設けた。

堀は現在も「濠川」として伏見の町並みを包むように北から南西に流れている。土塁はほとんどが破壊されたが、わずかに伏見区桃山町丹下の栄春寺境内に残る(高さ約6m、幅20m、長さ約80m)。

天守

徳川期木幡山伏見城の天守は二条城へ移築されたため史料が比較的残っているが、それ以前の天守については不明な部分が多い。

『洛中洛外図屏風』池田本では、徳川期木幡山伏見城のものと見られる天守が白壁の望楼型5重に描かれている。伏見城に移築される以前は、豊臣秀保期大和郡山城の7重天守であったが伏見城へ移築するにあたり5重に改められたといわれている。

しかし、大和郡山城の天守については、伏見城へではなく徳川家康によって二条城へ移築されたという説があり、寛永6年(1624年)徳川家光の二条城改修によって二条城旧天守を淀城へ移築する代わりとして伏見城天守は二条城へ移築されたという。この二条城の寛永期天守は寛延3年(1750年)に落雷のため焼失している。

天守台は地形図より本丸の北西部に独立した天守台が残っており、これは徳川家康が再建した天守台である。現在見られている模擬天守は木幡山伏見城の花畑曲輪跡に建てられた。天守、小天守の連結式天守であるが史実との関係はない。

伏見城 周辺スポット

御香宮神社

酒どころ伏見の氏神で、境内には伏見酒の全銘柄の酒樽が積まれている。香りの良い水が湧き出したので清和天皇から御香宮の名を賜ったという。
応仁の乱で荒廃したが、豊臣秀吉が社領を与えて伏見城の鬼門除けとしたと伝わり、現在も豪壮華麗な桃山文化の名残をとどめている。

伏見城の大手門が移築されている。

寺田屋

慶長2年(1597)創業の船宿で、現在は旅館と史跡博物館になっています。文久2年(1862)島津久光の命により薩摩藩の尊攘派9名が殺害された寺田屋事件、慶応2年(1866)坂本龍馬が幕吏に襲撃をうけ危うく難を逃れた坂本龍馬襲撃事件の場所。
現在の建物は、鳥羽伏見の戦いで焼失し、その後再建されたものです。

会津藩駐屯地跡

伏見の東本願寺伏見別院の門前脇に、「会津藩駐屯地跡 伏見御堂」の石標・副碑が立てられている。
幕末の鳥羽・伏見の戦いでは、旧幕府軍の会津藩先鋒隊が別院の伏見御堂を宿陣にしていた。

1868年1月2日伏見御堂に宿陣した会津藩は、翌3日、薩摩藩との間で小競り合いをしている最中の午後4時頃、鳥羽方面から聞こえる一発の砲声に触発され、御香宮(ごこうのみや)の東の高台に据えた薩摩藩の大砲が火を噴き、伏見奉行所を攻撃したことから伏見の町でも戦いが始まりました。

伏見稲荷大社

伏見稲荷大社は、全国に3万社あるといわれている「おなりさん」の総本宮で、稲荷信仰の総本山。京都市伏見の稲荷山に建立されたこの神社は、古くから人々の篤い信仰を集めています。

赤い鳥居の連なるミステリアスな雰囲気に魅了される人は後をたたず、日本だけでなく世界中からの観光客で賑わっています。パワースポットとしても人気な伏見稲荷大社の見どころと、周辺の観光スポットを紹介します。

伏見城 周辺宿泊施設

伏見城 周辺グルメ