大和郡山城【続日本100名城】
郡山城は筒井順慶の築城(1580年)に始まり、大和でもっとも大規模な城郭でした。
近世期には、豊臣家、水野家、松平家、本多家、柳澤家の居城となりました。
城郭は徐々に整備されましたが、早くも豊臣秀長の時代にほぼ完成し、増田長盛(ましたながもり)の外堀普請(ふしん)によって城郭の規模が定まったとされています。郡山城は内堀、中堀、外堀という三重の堀に囲まれた惣堀(そうぼり)の構えを持つものであり、この中に城郭の中心部や武家地、城下町が配置されていました。
Contents
大和郡山城の見どころ

大和郡山城は豊臣秀長の時代に積まれた石垣が最大の見どころで、転用石を多用した野面積みが特徴で、織豊系城郭の貴重な城跡です。
全国に秀長と関わりがある城は多くありますが、秀長時代の遺構が断トツで残っています。
広い水堀と本丸・二の丸の曲輪構造がよく残り、市街地化された現在でもその姿を留めています。

豊臣秀長が大和郡山城で毛利輝元を金魚を使った接待をしたことは有名は話です。珍しい魚として披露されたことが、後の「郡山=金魚」のイメージにつながったとも言われています。
この接待は秀長が西国の大大名である輝元に対して、文化的・経済的な豊かさや統治力を示す政治的パフォーマンスでもありました。
名城スタンプと御城印
◾️続日本100名城スタンプ
・柳沢文庫
時間:9:00〜17:00(毎週月曜・第4火曜日は閉館日)※祝日は除く
◾️御城印販売
・柳沢文庫
時間:9:00〜17:00(毎週月曜・第4火曜日は閉館日)※祝日は除く
大和郡山城 周辺天気
| 別名 | 雁陣之城 |
|---|---|
| 城郭構造 | 輪郭式平山城 |
| 天守構造 | 伝5層6階(1583年築・非現存) |
| 築城主 | 郡山衆及び筒井順慶 |
| 築城年 | 応保2年(1162年)及び天正8年(1580年) |
| 主な改修者 | 筒井順慶、豊臣秀長、増田長盛 |
| 主な城主 | 筒井氏、豊臣氏、水野氏、本多氏、柳澤氏 |
| 廃城年 | 1873年(明治6年) |
| 遺構 | 石垣、堀、土塁 |
| 指定文化財 | 国の史跡 |
| 再建造物 | 追手向櫓、追手東隅櫓、多聞櫓、追手門(梅林門)、極楽橋 |
写真で見る大和郡山城
登城レポート
大和郡山城について
10世紀後半、郡山衆が雁陣の城を築いたという記録が郡山城の初見とされる。奈良時代には薬園が営まれていた。郡山城は、秋篠川と富雄川の中間に突き出た西京丘陵南端上に位置する。平山城または平城として明智光秀や藤堂高虎らが普請に携わり、筒井順慶や羽柴秀長らの主導によって改修された。
奈良は良質な石材が乏しかったため、奈良一帯の各戸に五郎太石20荷の提供を義務付け、寺院の石地蔵や墓石、仏塔なども徴発され石垣石として使用された。中には、平城京羅城門のものであるといわれる礎石が使われていたり、8世紀ごろの仏教遺跡である「頭塔」(奈良市)の石仏が郡山城の石垣の中から見つかっている。
17世紀初頭、増田長盛が改易された後一時廃城となるが、水野勝成入封時に徳川幕府によって改修を受けた。その後は譜代大名が歴代城主を務め、柳沢吉里の入封後は柳沢氏が明治維新まで居城とした。
桜の名所として、日本さくら名所100選に選定されている。2017年(平成29年)4月6日、続日本100名城(165番)に選定された。2022年11月10日、国の史跡に指定された。
沿革
筒井順慶時代
筒井城の戦いで筒井城が松永久秀軍に属すると、郡山城は福住中定城と共に筒井順慶軍の拠点となっており、元亀元年(1570年)3月から元亀2年(1571年)8月まで松永久秀、松永久通親子の攻撃をうけていた。
松永久秀軍は、郡山城の四方に付城を築き、時間をかけて攻める攻城戦を行っていた。同年8月4日辰市城の戦いで、松永久秀軍と決戦となった時、筒井順慶増援軍は一旦郡山城らに集結してから辰市城に出軍した。
元亀2年(1571年)10月25日、順慶は明智光秀の斡旋をもって信長に臣従し、筒井順慶が織田信長により、天正8年(1580年)11月7日「大和一国一円筒井順慶存知」の信長朱印で大和国支配を任される(『多聞院日記』同日条)。そして、郡山辰巳は殺され、家来衆はそのまま筒井順慶に組み込まれた。
その少し前、天正7年(1579年)8月に、多聞山城の石垣を運んだりし、筒井城を拡張していたが低湿地の防御用の戦国城という地形の不利から筒井城をあきらめ、郡山城を本城とする改修を開始し天正11年(1583年)4月に「天守」が完成する(『多聞院日記』)。織田信長は天正8年(1580年)8月に破城令を出し大和国では一城とし、筒井城もこの時に破却して郡山城の一城のみとなった。
「織田信長は大和に争乱の時代が終わったことを示そうとしていた」と指摘されている。天正9年(1581年)から明智光秀が普請目付として着手し、大規模な近世城郭として工事が開始され、奈良の大工衆を集めたことが記録されている。しかし、その筒井順慶も天正12年(1584年)に死去すると、養子の筒井定次は羽柴秀吉の命により伊賀上野城へ転封となった。
豊臣時代初中期
天正13年(1585年)豊臣秀吉の弟豊臣秀長が大和国・和泉国・紀伊国三か国100万石余の領主として郡山城に入る。秀長は城を100万石の居城に相応しい大規模なものに拡大し、城郭作りや城下町の整備を急いだため根来寺の大門を移築したり、当時大和は石材に乏しかったために、天守台の石垣には墓石や石仏(地蔵)までも用いられている。
本丸、毘沙門曲輪、法印曲輪、麒麟曲輪、緑曲輪、玄武曲輪等の曲輪が多く普請され、大規模なものになった理由として、豊臣秀長の居城として以外に、大坂城の防衛の城としても重要であったと考えられている。また天守台には5層の天守が建っていたとの伝承があるが、「伝承でいわれるような五層の天守閣が建っていたかどうかは疑問」とされ、建築学的にはもう少し小さなものではなかったかといわれている。
また城下町を大いに発展させ、同年奈良の市中で行われていた商売をやめさせ、郡山城の城下町に集中させた。本町、魚塩町、堺町、柳町、今井町、綿町、藺町、奈良町、雑穀町、茶町、材木町、紺屋町、豆腐町、鍛冶屋町の14町がみられる(『郡山惣町日記』)。このうち最後の鍛冶屋町は枝町となり、城下町の基本はそれ以外の「箱元十三町」とされ、これらの町名は現在も残っている。
天正19年(1591年)豊臣秀長が没し、その養子豊臣秀保も文禄4年(1595年)に死去すると、大和大納言家は断絶し100万石城の時代は終了する。なお、豊臣秀吉は大和大納言家を直ちに断絶させずに、秀保の実兄である豊臣秀次の子の1人を秀保の養子として後を継がせ、また郡山城と弟や甥の早すぎる死を結びつけて城を破却して廃城となっていた多聞山城を再興して新しい根拠地とする方針を示していた。
しかし、わずか数か月後に秀次が自害してその子供達は皆殺しとされたためにこの方針は消滅し、郡山城も破却されないまま存続することになった。
豊臣時代後期
五奉行の一人増田長盛が22万3千石の領主として入城する。このとき約48町13間(後に50町に拡張)に及ぶ堀と土塁で城下町を囲む壮大な惣構えが構築され郡山は城郭都市の様相を呈するに至った。
関ヶ原の戦い後に増田長盛は高野山に追放となり、郡山城の建築物のほとんどは徳川家康により伏見城に移築された。しかし、天守は二条城に移されたという。城地は奈良奉行所の管轄下に入り大久保長安が在番した。
柳沢氏時代
享保9年(1724年)に柳沢吉里が甲斐甲府藩から15万石で移封され、城下町の整備に努めた。この頃の城下町の様子が『郡山町鑑』にみえる。
柳沢氏が入封して以降、郡山城は安定した時期を迎えていたが、天明7年(1787年)に大飢饉が発生、城下町の民家を群衆が打ち壊し、米穀を奪い取る騒ぎが起こる。安政5年(1858年)12月1日、郡山城二ノ丸付近から出火し、住居関係の建物群は全て焼失する大火にみまわれた。
文久元年(1861年)に再建に着手するが、明治維新を迎え、明治3年(1870年)に藩は今後城の修理を行わないことを出願し、これが明治新政府に聴許された。のち明治6年(1873年)郡山城は破却された。この際に櫓・門・塀などの建築物は入札によって売却され運び去られたものの、石垣や堀の多くは今も往時の姿を留めている。城下の永慶寺に城門が山門として移築され、現存している。
城郭
城跡は1881年(明治14年)に旧郡山中学校の校舎が二ノ丸に、旧郡山園芸高校が麒麟曲輪に建設されるなど、大きく姿をかえた。長らく荒廃していた郡山城であったが、1960年(昭和35年)7月28日、本丸と毘沙門曲輪が奈良県指定史跡となり、1983年(昭和58年)に追手門が、翌1984年(昭和59年)追手東隅櫓が、1987年(昭和62年)には追手向櫓が市民の寄付などにより再建された。
発掘調査
郡山城では、城内や城下町を含め大和郡山市教育委員会や橿原考古学研究所が1979年(昭和54年)以降、100回以上の発掘調査が実施され、一定の成果を収めている。文献などの間を埋める遺物、遺構が発掘され郡山城の実像が解明されつつある。
郡山城の歴史は古く、各時代によって大きく改修が重ねられた。近年の発掘調査などから各年代毎の城史が明らかになりつつある。
豊臣時代の遺物、遺構は散見される。追手向櫓の礎石列や常盤曲輪の瓦廃棄土坑などがある。しかし二ノ丸の同時代の該当発掘例はなく、二ノ丸は豊臣時代以降に開発された可能性がある。城下でも同時代の遺構が発掘されたが、礎石建物や大規模な整地の痕は認められていないので、大規模な城下町が整然と建てられた可能性は低いと考えられている。
2014年(平成26年)9月、市教育委員会が天守台頂上の発掘調査を行い、礎石などの遺構や金箔をあしらった瓦を発見したと発表した。これにより、これまで絵図などに一切描かれず、存在が確認できなかった天守が実在したことが判明した。大小の礎石の大きさや並びから建物の加重を分散・軽減する構造であったと推測されている。
マップ
アクセス
◾️公共交通機関
・近鉄橿原線「近鉄郡山駅」徒歩7分
・JR関西本線「郡山駅」徒歩15分
◾️車・バイク
・西名阪自動車道「郡山IC」から16分
大和郡山城 周辺スポット
永慶寺

黄檗宗龍華山。郡山城主柳澤家の菩提寺です。
永慶寺の山門となっている黒門は、豊臣秀長が郡山城主であった時代に城の「南御門」として建てられたものを幕末に移築したと伝わっています。
→マップ
大和郡山城 周辺宿泊施設

大和郡山城 周辺グルメ
奈良県の城を攻める
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