川越城【日本100名城】
川越城は太田道真、太田道灌父子によって築かれた城で、関東七名城のひとつです。江戸時代には川越藩の藩庁が置かれ、江戸の北側の防衛線として重要視されました。
松平信綱(知恵伊豆)や柳沢吉保など幕府の要職についた歴代藩主が多く、江戸幕府にとっても重要視された拠点でした。1848年(嘉永元年)に建られた本丸御殿の一部が現存しており、川越市内の城下町は小江戸として大人気の観光スポットになっています。
Contents
川越城の見どころ

1546年に武蔵国河越城周辺で起きた、戦国時代最大級の逆転劇として知られる河越野戦。日本三大夜戦のひとつで、北条軍と上杉・足利連合軍(扇谷上杉家・山内上杉家・古河公方)が激突します。
北条氏が守る河越城を連合軍が半年以上にわたり包囲。氏康率いる本隊が突如として連合軍に夜襲を仕掛け、連合軍は壊滅。扇谷上杉家の朝定は討死し滅亡。山内上杉家や古河公方も勢力を失い、北条氏が関東の覇権を決定づける歴史的な転換点となりました。

川越城の城下町は蔵造りの町並みが美しく、今も城下町の面影を色濃く残した、江戸情緒あふれる町として人気のスポットです。
かつては幕府の直轄地で、小江戸と呼ばれるほどに発展した川越。
川越の歴史をたどると、幾度となく火事に見舞われた記録が残っています。しかし、川越に暮らす人々はそのたびに名将のもとで、より強固な町づくりを達成し続けてきました。

江戸時代の城は政庁として御殿建築が中心となりましたが、明治の廃城令によって全国の城の御殿は取り壊されました。
当時の御殿が現存しているのは全国で4城のみで、本丸御殿は川越城と高知城の2城となります。
城郭の痕跡は少なめですが、三重の富士見櫓が建っていた櫓台と、中ノ門と中ノ門堀の一部が整備されています。
また、市内にある喜多院には徳川家光誕生の間や春日の局化粧の間など、江戸城の御殿の一部が移築されています。

中ノ門堀

富士見櫓跡

本丸御殿

中ノ門跡

家老詰所

中ノ門跡
名城スタンプと御城印
※スタンプ設置場所や御城印販売所の場所、営業時間は最新情報をご確認ください。
■日本100名城スタンプ
・川越城本丸御殿受付窓口
※休館日には川越武道館にて押印可
開館時間 9:00~17:00(入館は16:30まで)
■御城印販売
・川越城本丸御殿受付窓口

川越城 周辺の天気
| 別名 | 河越城、初雁城、霧隠城 |
|---|---|
| 城郭構造 | 平山城 |
| 天守構造 | 代用 (富士見櫓) (2重2階) |
| 築城主 | 太田道真、道灌父子 |
| 築城年 | 1457年(長禄元年) |
| 主な改修者 | 大道寺政繁、松平信綱、松平斉典 |
| 主な城主 | 扇谷上杉氏、後北条氏、酒井氏、 堀田氏、結城松平家、他 |
| 廃城年 | 1869年(明治2年) |
| 遺構 | 堀・土塁・御殿の一部・移築物3棟 |
| 指定文化財 | 埼玉県有形文化財(本丸御殿) 埼玉県史跡 |
写真で見る川越城
登城レポート
マップ
アクセス
■公共交通機関
・西武鉄道「本川越駅」から徒歩30分
・JR、東武東上線「川越駅」徒歩35分
※各駅からバスが出ています。
川越城について
武蔵野台地の北東端に位置する平山城。1848年(嘉永元年)に建られた本丸御殿の一部が現存する(埼玉県有形文化財)。かつての城は、現在の初雁公園から川越市役所に至る広さであった。大半は失われ、二の丸跡は川越市立博物館・川越市立美術館、三の丸跡は埼玉県立川越高等学校となっているが、高校の南に、小高い丘の「富士見櫓」跡(埼玉県指定史跡)が残り、頂に御嶽神社と浅間神社が建っている。
川越城には天守はなく、宇都宮城の清明台櫓と同様に、城の中で一番高い所にあった富士見櫓が天守の代わりをしていた。富士見櫓は三層であった。また、帯郭門、北門、高麗門、土塀、本丸御殿玄関の旧状の木造復元や土塁の復元計画がある。
中世から近世にかけて改築がなされ規模を大きく変えた。藩政時代には、酒井忠勝・松平信綱(知恵伊豆)や柳沢吉保など、幕府の要職についた歴代藩主が多く、幕閣の老中数7名は全国でも最多の藩の1つであり、江戸時代中期までは「老中の居城」であった(中期以降は親藩)。
遺構
現在、城址の大部分は市街地となっており、往時の姿を想像するのは難しいが、本丸御殿の一部(大広間と玄関)が現存している事は特筆に値する。
本丸御殿大広間が現存しているのは、日本では川越城の他には高知城のみであり、城郭御殿全体でも他に二条城と掛川城だけという極めて貴重な遺構である。本丸御殿南側には富士見櫓跡、西方には中ノ門付近の堀跡が現存している。
川越城本丸御殿
本丸御殿は、1848年(嘉永元年)、松平斉典の17万石時代に建てられた入母屋造りで、豪壮な大唐破風と霧除けのついた間口19間・奥行5間の大玄関・車寄せをもつ。36畳の大広間は、板間で玄関と区切られ、さおべり天井で奥行3間の座敷には9尺の廊下が四方を囲っている。建坪は165坪である。
当時は16棟、1025坪の規模をもっていた。明治に入ると廃城令で多くの建物は解体され、現在残る建物は玄関・大広間部分と家老詰所のみとなっているが、本丸御殿大広間は川越城の他には高知城にしか現存せず、全国的に見ても貴重な遺構である。玄関・大広間部分は入間県県庁、入間郡公会所、更には煙草専売局淀橋支局川越分工場へと転用され、1933年(昭和8年)には川越武道奨励会の修練道場となり、名称も初雁武徳殿に変更、戦後は川越市立第二中学校(現在は初雁中学校)の校舎や屋内運動場として使用されていたが、1967年(昭和42年)、県指定有形文化財に指定された。
家老詰所については、解体後上福岡市(現:ふじみ野市)の民家に移築されていたのを再度移築したものであり、位置は以前とは異なっている。こちらも1991年(平成3年)に県指定有形文化財に追加指定された。2008年(平成20年)10月から2011年(平成23年)3月まで保存修理工事が行われた。
富士見櫓跡
本丸御殿から南西へ直線で150メートル、道のりで約300メートルのところ、三の丸跡地である埼玉県立川越高等学校南側の小高い丘が城内で最も高い位置にあたり、この地に2層2階の富士見櫓があった。川越城には天守はなく、宇都宮城の清明台櫓と同様に富士見櫓が天守の代わりとなっていた。
正確な規模は不明だが江戸末期の慶応2年(1866年)に川越城を測量した時の記録によれば、長さ八間三尺(約15メートル)、横八間 (約14メートル)あったと記されている。富士見櫓の名前の由来は、文字通り富士山を望めたためである。現在は浅間神社と御嶽神社が建っている。
中ノ門堀跡
本丸御殿から市役所方面へ約300メートル西方の郭町1丁目付近の住宅の裏には、中ノ門付近の堀跡が現存しており、2008年(平成20年)より川越市による公園整備で堀や門の復元が行われた。中ノ門掘は西大手門側から本丸方向への敵の進入を阻むために巧みに配された堀のひとつであり松平信綱によって造られたものである。
その他の遺構
本丸御殿の東側に隣接する三芳野神社境内には、かつての川越城の土塁とみられる高台がある。また、城跡と北方の氷川神社の間は低地となっており、かつて堀であったことがわかる。
かつての西大手門は川越市役所前に、本丸門は初雁球場近くに、田曲輪門は富士見櫓近くに、南大手門は第一小学校西門近辺にあった。南大手門の「馬出し」からの道がかつての城内の路の名残を留めている。
南大手門近くの「永島家住宅」は武家屋敷跡で、埼玉県内に残る江戸時代の武家屋敷の遺構はここだけである。川越では藩命で武家屋敷の生垣はカラタチと決められており美しい家並を形成、永島家住宅の生垣もカラタチである。また市内にある雲興山榮林寺の山門は二の丸の蓮池門を移築したもの。
市立博物館の資料によると、東松山市葛袋にある野口家の長屋門(旧川越城裏門扉)は川越城の裏門を移築した二層の長屋門のものといわれ、間口十四間、奥行き三間半、扉部が二間半の規模を持つ。川越城の移築門とされるのは、扉の天井部分等に今でも朱の跡が残されているためであり、城門由来の部材は扉のみである。
この他、市内三久保町の成田山旧客殿、加須市むさしの村武芸館が移築されていることが同じ資料にあるが、加須市のものは取り壊されて現存しない。
また、川越市立博物館には川越城のものと言われる門扉が保存されている(非公開)。
MEMO
市内の氷川神社には1637年(寛永14年)に家光が江戸城二の丸に建立した東照宮が移築されています。
川越城 周辺スポット
喜多院
住職であった天海が家康と関係があった為、徳川家とゆかりの深いお寺で、江戸城から移築された”家光誕生の間”や”春日の局化粧の間”が一般公開されています。
家康の遺骸を日光に運ぶ途中に喜多院で法要を行ったことから、日本三大東照宮のひとつである仙波東照宮も建てられています。
氷川神社
東参道にそびえる高さ15mの明神型の大鳥居は、木製としては日本最大級の規模を誇る。鳥居中央の扁額に記された社号は勝海舟の直筆によるもの。
川越氷川神社の歴史は古く、古墳文化が伝えられた6世紀に創建されたと伝える。室町時代に太田道灌が川越城を築城して以来、城の守護神・当地の総社として崇敬されてきた。
江戸時代には藩領の総鎮守として歴代城主により篤く崇敬された。江戸彫りといわれる精緻な彫刻が全面に施された現在の本殿は天保13年(1842)、当時の城主松平斉典と地域の氏子により寄進された。
熊野神社
川越熊野神社は、室町時代に紀州熊野本宮大社から分祀された開運・縁結びの神社です。
川越熊野神社の御祭神は熊野大神で、伊弉諾命(いざなぎのみこと)、伊弉册命(いざなみのみこと)、事解之男命(ことさかのおのみこと)、速玉之男命(はやたまのおのみこと)の御四神です。開運のご利益が高いとされ、境内には「運試し輪投げ」や金運アップを願ってお金を洗い清める「宝池」などの開運スポットが多数。
雲興山榮林寺
曹洞宗寺院で川越藩 二代藩主・酒井忠利が建立しました。 榮林寺の山門は、川越城の一郭を移築したものです。
もともと市立博物館横の川越武道館あたりにありました。蓮池門は、本丸からみて北東の鬼門に位置していました。川越城の遺構は数が少なく貴重な存在です。
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