小田原城

Contents
見どころ
- 復元された天守は三層ながら圧巻
- 北条氏時代の大空堀
概要
小田原城(おだわらじょう)は、神奈川県小田原市にあった戦国時代から江戸時代にかけての日本の城(平山城)。北条氏の本拠地として有名である。江戸時代には小田原藩の藩庁があった。城跡は国の史跡に指定されている。
別名 | 小峯城(小峰城)、小早川城(小早川館) |
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城郭構造 | 平山城 |
天守構造 | 複合式層塔型3重4階(1633年 築) (1706年 再) (1960年 RC造復興) |
築城主 | 大森頼春 |
築城年 | 応永24年(1417年) |
主な改修者 | 杉村氏、北条氏綱、氏政、氏直、大久保忠世、稲葉正勝 |
主な城主 | 後北条氏、阿部氏、稲葉氏 大久保氏 |
廃城年 | 1871年(明治4年) |
遺構 | 石垣、土塁、水堀、空堀、大堀切、土塁、郭、障子堀跡 |
指定文化財 | 国の史跡 |
再建造物 | 天守、門 |
北条氏は、居館を今の天守の周辺に置き、後背にあたる八幡山を詰の城としていた。 居館部については北条氏以前の大森氏以来のものとするのが通説であるが、大森氏時代にはより東海道に近く15世紀の遺構が実際に発掘されている現在の三の丸北堀付近にあったとする異説もある。
3代当主北条氏康の時代には難攻不落、無敵の城といわれ、上杉謙信や武田信玄の攻撃に耐えた。江戸時代に居館部が近世城郭へと改修され、現在の小田原城址の主郭部分となったが、八幡山は放置された。
そのため、近世城郭と中世城郭が江戸期を通して並存し、現在も両方の遺構が残る全国的に見ても珍しい城郭である。
最大の特徴は、豊臣軍に対抗するために作られた広大な外郭である。八幡山から海側に至るまで小田原の町全体を総延長9キロメートルの土塁と空堀で取り囲んだものであり、後の豊臣大坂城の惣構を凌いでいた。
慶長19年(1614年)、徳川家康は自ら数万の軍勢を率いてこの総構えを撤去させている。地元地方の城郭にこのような大規模な総構えがあることを警戒していたという説もある。
ただし、完全には撤去されておらず、現在も北西部を中心に遺構が残る。古地図にも存在が示されており、小田原城下と城外の境界であり続けた。明治初期における小田原町の境界も総構えである。
北条氏没落後に城主となったのは大久保氏であるが、2代藩主大久保忠隣の時代に政争に敗れ、一度改易の憂き目にあっている。一時は2代将軍秀忠が大御所として隠居する城とする考えもあったといわれるが、実現しなかった。
その後、城代が置かれた時期もあったが、阿部氏、春日局の血を引く稲葉氏、そして再興された大久保氏が再び入封された。小田原藩は入り鉄砲出女といわれた箱根の関所を幕府から預かる立場であった。
なお、小田原藩大久保氏の大名となった支藩(分家)には荻野山中藩(現在の神奈川県厚木市)がある。
小田原城は、江戸時代を通して寛永10年(1633年)と元禄16年(1703年)の2度も大地震に遭い、なかでも、元禄の地震では天守や櫓などが倒壊するなどの甚大な被害を受けている。天守が再建されたのは宝永3年(1706年)で、この再建天守は明治に解体されるまで存続した。又、老朽化した天守の木造復元計画もある。
総構
小田原城は中核部が二の丸総堀、三の丸総堀、総構堀によって三重に囲われた構造となっている。
二の丸総堀は平地部及び八幡山古郭外周の堀が繋がったものである。三の丸総堀は近世城郭部の三の丸堀に加え、南側の天神山丘陵の尾根を走る空堀、そして最西端の小峰大堀切によって構成される。
小峰大堀切は中世城郭部最大の遺構である。東側へと伸びる八幡山丘陵、天神山丘陵、谷津丘陵が集まる点にあり、各丘陵と西側の山地部を切断している。総構堀は上述のように小田原の町全体をとりかこんだ、連続した空堀と水堀である。
山地部の空堀は小峰大堀切よりさらに西の小田原城最高所となるお鐘の台をとりこんでおり、ここから北西部の桜馬場、稲荷森の総構堀は比較的よく残る。平地部の水堀は消滅、あるいは暗渠化したが、南西部の早川口や東部の蓮上院近辺に辛うじて土塁が残る。
歴史・沿革
元は、平安時代末期、相模国の豪族土肥氏一族である小早川遠平(土肥小早川氏の祖とされる)の居館であったとされる。
「鉢木物語」にて、北条時頼から佐野源左衛門に与えられたという物語がある。
応永23年(1416年)上杉禅秀の乱で禅秀方であった土肥氏が失脚し、駿河国に根拠を置いていた大森氏がこれを奪って、相模国・伊豆国方面に勢力を広げた。
明応4年(1495年)、伊豆国を支配していた伊勢平氏流伊勢盛時(北条早雲)が大森藤頼から奪い、旧構を大幅に拡張した。
ただし、年代については明応4年(1495年)、以後に大森氏が依然として城主であったことを示すとされる古文書も存在しており、実際に盛時が小田原城を奪ったのはもう少し後と考えられている。ただし、盛時は亡くなるまで韮山城を根拠としており、小田原城を拠点としたのは息子の伊勢氏綱(後の北条氏綱)が最初であったとされ、その時期は氏綱が家督を継いだ永正15年(1518年)もしくは盛時が死去した翌永正16年(1519年)の後とみられている。
以来北条氏政、北条氏直父子の時代まで戦国大名北条氏の5代にわたる居城として、南関東における政治的中心地となった。
永禄4年(1561年)、北関東において後北条氏と敵対する上杉謙信が越後から侵攻し、小田原城の戦いとなる。軍記などでは、11万3千(関八州古戦録より)ともいわれる大軍勢で小田原城を包囲。1か月にわたる篭城戦の後、上杉軍の攻撃を防ぎ切ったと伝えているが、実際は10日間ほどの包囲であったとみられる。
永禄11年(1568年)甲斐国の武田信玄は駿河今川領国への侵攻を開始し(駿河侵攻)、後北条氏は甲相同盟を破棄し越後上杉氏との越相同盟を結び武田方に対抗した。
信玄はこれに対して北関東の国衆と同盟し後北条領国へ圧力を加え、翌永禄12年10月1日から4日(1569年11月9日から12日)にかけて後北条領国へ侵攻し、小田原城を包囲する軍事的示威活動を行い、撤退に際して追尾した後北条勢を三増峠の戦いにおいて撃退した。
後に後北条氏は武田の駿河領有を承認し甲相同盟を回復している経緯からも、この時の小田原攻めは本格的侵攻ではなく軍事的示威行為に過ぎないものであったと考えられている。
後北条氏による小田原城の改築は大きいものでは少なくても2度あったと考えられている。最初は伊勢盛時(北条早雲)が小田原城を得た直後で、ほぼ同時期に鎌倉に大被害をもたらした大地震があったと言われており(明応地震を参照のこと)、文献上の記録はないものの距離的に近い小田原も被害を受けた可能性があり、戦闘と地震による打撃を回復させるための改築が行われたと見られている。
もう1度は永禄9年(1566年)から同12年の時期に小田原城の改築に関する文書が多数発給されており、この時期に相次いだ上杉氏・武田氏の侵攻に備えたものと考えられている。
また、甲相駿三国同盟の時期を除けば、小田原城の西隣に位置する駿河国駿東郡は後北条氏を含めた諸勢力による争奪が長く続いており、後北条氏の時代全体を通じて一番緊迫した国境であった駿東方面への押さえとして小田原城は重要視されており、関東地方の大半を制圧した後もその中央部に本拠地に移動させずに小田原城を本拠とした理由と考えられている。
なお、北条氏康の居館には会所・寝殿が備わっており、永禄元年(1558年)に小田原に入った古河公方足利義氏が氏康邸を宿舎としていたことが知られている。
安土桃山時代
天正18年(1590年)豊臣秀吉が天下統一の仕上げとして隠居北条氏政と当主氏直が指揮する北条氏と開戦し、当時北条の台頭に対抗していた関東の大名・佐竹義重・宇都宮国綱らとともに数十万の大軍で小田原城を総攻撃した。
小田原征伐(小田原合戦、小田原の役など)と呼ばれるこの戦いにおいて秀吉は圧倒的な物資をもって取り囲むとともに別働隊をもって関東各地の北条氏の支城を各個撃破し、篭城戦によって敵の兵糧不足を待ち逆襲しようとした北条氏の意図を挫き、3か月の篭城戦の末ほとんど無血で開城させた。
この篭城戦において、北条側が和議と抗戦継続をめぐって議論したが一向に結論が出なかった故事が小田原評定という言葉になっている。その後、秀吉は国綱とともに下野国宇都宮に陣を移し、参陣した東北地方の諸大名の処遇を決定、秀吉の国内統一事業はこれをもって完成した(宇都宮仕置)。
- 八幡山古郭 東郭
- 中世遺構とされる本丸と二宮神社間の空堀
- 城山 八幡山古郭本丸付近の土塁
- 小峰の土塁
- 小峰の東堀1
- 小峰の東堀2
- 小峰の東堀3
- 東堀と中堀間に残る曲輪
- 小峰の中堀
- 香林寺西の空堀
- 新三ノ丸の土塁
- 新三ノ丸
総構(大構)の建造時期
後北条氏は永禄12年(1569年)に武田信玄に小田原城を攻められたことで未曾有の小田原城の大改修が始まったといわれているが、年代と普請内容については未だに不明な部分が多い。
亥歳大普請
天正15年(1587年)正月~
相府大普請
天正15年(1587年)5月~
- 豊臣政権による小田原征伐に備えたもの。
寅歳大普請
天正17年(1589年)の秋から天正18年(1590年)正月
普請の内容
関東の支城群の普請・総構(大構)の築造。城下町と農村を城内に入れて、豊臣との全面対決を意識した。
江戸時代以降
戦後、北条氏の領土は徳川家康に与えられ、江戸城を居城として選んだ家康は腹心大久保忠世を小田原城に置いた。
小田原旧城は現在の小田原の市街地を包摂するような巨大な城郭であったが、大久保氏入部時代に規模を縮小させ、以後、17世紀の中断を除いて明治時代まで大久保氏が居城した。なお、天守閣は元禄地震により発生した火災で焼失した。
一方北条氏は、一族の北条氏盛が河内国狭山(現在の大阪府大阪狭山市)1万余石を治める外様大名として明治に至っている。
近現代
- 明治3年から明治5年にかけ、城内の建造物はほとんど取り壊され、天守台には大久保神社が建てられた。
- 1901年 旧城内に小田原御用邸が設置された。
- 1909年 唯一取り壊されなかった二の丸平櫓の修築工事が行われた。
- 1923年9月1日の関東大震災により、御用邸は大破し、その後廃止された。現存していた二の丸平櫓は倒壊、石垣も大部分が崩壊した。
- 1930年 から1931年にかけて上記石垣が積み直されている。しかし、以前より低く積んでしまったため、偉容を損ねてしまっている。
- 1935年 震災で倒壊した二の丸平櫓が隅櫓として復興されたが、予算の関係で規模が2分の1となっている。
- 1950年 関東大震災で崩壊した天守台の整備を開始。その後、小田原城址は小田原城址公園として整備される。
- 1953年 天守台の石積工事が完成。その後、小田原市制の施行20周年記念事業で天守の復興が計画され、現存している旧天守模型を元にし、天守の再建工事が行われる。天守が再建されるまでの間、天守台には観覧車が置かれていた。
- 1960年5月25日:天守の再建工事が完成。ただし、再建した天守は鉄筋コンクリート構造によるもので、小田原市当局の要望により天守最上階に高欄が取り付けられ、天守の本来の姿を忠実に再現するものではない。天守からは太平洋や笠懸山の石垣山城がよく見える。
- 現在、小田原市では、城の中心部を江戸末期の姿に復元することを計画しており、天守の復興を手始めに1971年には常盤木門(ときわぎもん)(外観復元)、1990年には住吉橋、1997年には銅門(あかがねもん)、2009年には馬出門を復元した。
- 2006年4月6日:日本100名城(23番)に選定された。
- 2013年 御用米曲輪跡で堀跡,北条氏時代の池、庭園跡が発見された。
- 2015年7月から2016年3月まで耐震工事及び屋根瓦や壁の修復が行われた為に天守内へ入館できなくなっていた。
- 2016年5月1日:耐震工事と修復が終了し、再公開された。
移築建造物
建造物としては、県内中井町(中井町史跡文化財)の民家に二の丸にあった幸田門と伝わる門が現存しているが、当時の部材が少しだけしか使われていないようであり、大きさの面でも違いがあることから確定には至っていない。また、市内の民家にも城門が移築現存しているが、改造が著しくこちらも移築城門と確定に至っていない。
中世城郭の遺構
中世小田原城の遺構としては、
- 小峰の大堀切、土塁、中堀
- 八幡山古郭 東郭
- 新三ノ丸土塁、
- 稲荷森の堀
- 高校脇ポケットパークの土塁、障子堀跡
- 大久保神社付近の残存土塁、
- お鐘の台曲輪付近に空堀および土塁
- 早川口付近に二重土塁
- 幸田口および蓮上院付近に土塁
などが、それぞれ現存する。また、遺跡調査では旧三の丸の幸田口門があった付近(小田原市栄町一丁目)で障子堀跡が確認されている。堀跡の1号堀は幅約20メートルの障子堀で、2号堀は幅約7メートル。
史跡指定
1938年(昭和13年)8月8日、「小田原城跡」として国の史跡に指定された。1959年(昭和34年)5月29日一部地域を追加指定したが、1974年(昭和49年)と1975年(昭和50年)の両年度にわたって小田原市保存管理計画策定事業を行った結果、主として外郭部の未指定地において良好な遺構の遺存が確認。
そのうち、後北条氏時代のものと思われる北東側の空堀と、江戸時代の絵図などで知られる「早川口」関連遺構と考えられる二重の土塁について1977年(昭和52年)5月4日、さらに当該部分の追加指定がなされた。
その後もたびたび追加指定が行われている。
史跡指定範囲は、小田原市城内・本町・栄町・浜町・城山・板橋・十字・谷津・南町におよんでいる。
所在地
- 神奈川県小田原市城内6-1