小倉城【続日本100名城】

小倉城は現在の福岡県北九州市小倉北区に細川忠興の居城として築城。
唐造り(南蛮造り)の天守が建てられたことでも有名で、幕末期には長州藩を攻める第一線基地となった。現在は勝山公園として整備されており、一部の石垣や堀が残り、唐造りの天守も再建されている。

隣接する小倉城庭園には奈良や京都から職人を呼んで建てられた書院造りの大名屋敷が再現されている。また、北九州市役所の展望フロアからは小倉城を一望することができる。

続日本100名城で北九州市の観光スポットでシンボルとなっている。

お城ニュース ※外部リンク

小倉城の見どころ

歴史ポイント

小倉戦争とは、1866年6月に江戸幕府が長州藩に攻め入った「第二次長州征伐」内での戦のひとつです。幕府軍は、小倉藩を中心に肥後藩、柳川藩、久留米藩の兵およそ20,000人が集結。
一方、高杉晋作が指揮する長州藩は、奇兵隊・長州藩報国隊などおよそ1,000人と少数でした。
圧倒的な人数をほこる小倉軍でしたが、鎧かぶとを身に着け、火縄銃と槍・弓矢で戦ったのに対し、ケーベル銃で武装した長州藩が次第に有利になり、小倉軍は大里から藤松へと退きました。

8月1日、自ら小倉城に火を放ち、香春に退き、小倉南部で抵抗を続けました。
1867年1月、両藩の間に和議が成立して終結。
この戦いで小倉城楼門の一つにあった大太鼓と城内の燈籠一対が戦利品として下関に持ち帰られました。

遺構ポイント

小倉城には建築物は現存していませんが、水堀と石垣が当時の姿で残っています。
特に天守台は自然石を使用した野面積みで、高さ18mの大迫力な石垣を見ることができます。
天守台の他にも西ノ門跡とその脇の本丸西側の石垣は高く圧巻です。

当初の天守閣は「唐造り」と呼ばれる最上階を大きく張り出した独特なものであったが、1837(天保8)年に焼失しました。遺構は財政難もあり再建されませんでしたが、1959(昭和34)年に4重5層、白壁、高さ27mの天守が再建されました。

大手門跡

天守台石垣

西ノ口門跡

着見櫓

松の丸東側石垣

水堀と天守

多門口門

本丸西側石垣

登城レポート

ポイント

  • 新幹線も停車する小倉駅からも近くアクセスが良好
  • 遺構は石垣と水堀になるが、天守や櫓などが復元されており、売店なども含めて整備が綺麗にされている
  • 幕末の小倉戦争の主戦場だったので歴史的なポイントも高い

平均:3.66
合計:22.0

  • 遺構:遺構の多さ、貴重度
  • アクセス(目安):新幹線が最寄り→5、駅が近い→4、駅から歩いて行ける距離→3、駅から遠いがバスが走っている→2、車が無いと行けない→1
  • 満足度→攻城のトータル総評
  • 歴史→時代に影響を与えた歴史の舞台→5、有名な武将や合戦があった城→4
  • 整備:トイレの有無、城内の解説板、パンフレットのクオリティの評価
  • 城郭範囲:観覧範囲の広さと、遺構の残存度。見どころの多さにも直結

※全ての城にそれぞれの魅力があるのは前提での主観的評価になります。

名城スタンプと御城印

続日本100名城スタンプ
・小倉城内の しろテラスにてスタンプを押印
 営業時間:9:00~20:00(4月〜10月) 9:00~19:00(11月〜3月)

御城印販売
・小倉城内の しろテラスにて御城印を購入

小倉城 周辺の天気

別名勝山城、指月城
城郭構造輪郭式平城(海城)
天守構造連結式層塔型4重5階(1609年築 非現存)
連結式望楼型4重5階(1959年再 RC造復興)
築城主毛利氏、毛利勝信
築城年永禄12年(1569年)
主な改修者細川氏、小笠原氏
主な城主細川氏、小笠原氏
廃城年慶応2年(1866年)
遺構石垣、堀、総構(含障子堀)
指定文化財なし
再建造物天守、模擬櫓、庭園

写真で見る小倉城

小倉城 天守北側
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小倉城 天守北側
小倉城-天守
小倉城 天守台石垣
小倉城 大手門跡
小倉城 大手門石垣
小倉城 松の丸東側石垣
小倉城 多門口門
小倉城 本丸西側石垣
小倉城 天守ライトアップ
小倉城 逆さ天守
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マップ

アクセス

■公共交通機関
・JR九州鹿児島本線/日豊本線・西小倉駅から徒歩10分
・山陽新幹線・小倉駅から徒歩15分

■車・バイク
・北九州都市高速・大手町ランプから5分

■駐車場
・近隣に一般有料駐車場が各所になり

小倉城について

1569年(永禄12年)、中国地方の戦国大名毛利氏が城を築いたことから始まり、高橋鑑種や毛利勝信が居城した。

関ヶ原の戦いで徳川家康に与した細川忠興は、徳川政権下で豊前国へ加増転封となり、1602年(慶長7年)から約7年かけて唐造の天守閣を築城し、細川氏の肥後国熊本藩へ転封となった後、1632年(寛永9年)に譜代大名である小笠原忠真が入城し、以後幕末まで小笠原氏が居城した。

1837年(天保年)に失火のため天守閣が焼失し、残る城郭も1866年(慶応2年)、第二次長州征討で長州藩の反撃を受けた小倉藩が、混乱の中で自ら城を焼却した。

明治時代から第二次世界大戦中には、大日本帝国陸軍歩兵第12旅団や第12師団の司令部が城内に置かれた。戦後、1959年に天守閣が再建された。

小倉城の構造

本丸を中心に、南に松丸、北に北の丸、それらを囲い込むように二の丸、三の丸、外郭が配された梯郭式平城であった。建物は、野面積みの石垣の上に大天守と平の小天守1基、平櫓117、二重櫓16、櫓門12、狭間3271を配していた。

城下は、城の東を流れる紫川を天然の堀として活用し城内に町を取り込んだ総構えを採っていた。

天守

細川忠興によって建てられた天守は、4重5階の大天守と1重の小天守からなる連結式層塔型天守で、大天守は最上層の入母屋破風以外に破風が無い簡素な外観を大きな特徴としていた。

最上階は、3間四方の御上段を取り囲むように東西に2間×5間と南北に1間×3間の縁側をめぐらせ、外側には戸板で覆った半間幅の内縁がせり出しており、「唐造り(南蛮造り)」と称された。この戸板は黒塗りで、下階の白漆喰塗籠とは対照的であったため、「黒段」と呼ばれていた。

『倉府見聞集』には、この唐造りの構造の由来が記載されている。当代一流の茶人であり文化人であった忠興の美意識が現れた個性的で独特な外観の天守は当時他に類を見ないものであり、視察が訪れるほどの評判を呼んだ。津山城天守と高松城天守は小倉城天守を参考にしたものと伝わる。

この天守は天保8年(1837年)に失火によって御殿とともに焼失し、残った天守台には「御三階」と呼ばれる建築を建て、天守の代用としていた。

現在見られる天守は『豊前小倉御天守記』『小倉城絵巻』『延享三年巡見上使御答書』等をもとに藤岡通夫の設計考証により鉄筋コンクリート構造によって復興されたもので、6千万円の費用を掛けて1959年(昭和34年)に完成した。

藤岡の当初案は資料考証に基づいたものであったものの、建設資金を捻出した地元商工会の「お城の恰好をよくするためには必要」という要望によって、大入母屋破風や千鳥破風、唐破風などの破風が追加されてしまったため、外観は史実と大きく異なる。

このように昭和になってから新造された天守であるため文化財には指定されておらず、最上階の5階まで上水道が引かれるなど観光施設として運営されている。

海城としての小倉城

小倉城は海城であるが、豊臣氏政権時代から徳川氏政権初期段階において九州地方に入部した大名は海城を居城としていることが多い。豊臣政権時代に森氏が小倉城に入城した。

徳川氏政権初期段階には細川氏が入城したが、細川氏はこれまた海城である豊前中津城(大分県中津市)を同時使用している。細川氏がそれ以前に居城としていた丹後宮津城(京都府宮津市)も海城であり、細川氏の海城に対する執着が窺える。

小倉城 周辺スポット

常盤橋

2本の橋のうち、河口付近に架けられていたのが「常盤橋」です。

初代小倉藩藩主・細川忠興は、小倉城の東を流れる紫川を天然の堀として利用し、海と堀に囲まれた小倉城を築き、橋を築いた。

→マップ

皿倉山展望台

北九州市街地が一望できるパノラマ展望台。

標高622mの山頂にある展望台へは、ケーブルカーとスロープカーを乗り継いで登る。

→マップ

小倉城 周辺宿泊施設

北九州市名物グルメ

■肉うどん

■小倉焼うどん

■八幡ぎょうざ

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