CASTLE DATA FILE.126
登城日:2026年8月16日
交通手段:東武アーバンパークライン「岩槻駅」徒歩25分
ステータス:県指定史跡
ジャンル:総曲輪式 平城
遺構:裏門・黒門・土塁・曲輪・空堀・土橋・馬出
御城印:水野書店で購入
撮影:Nikon D750
後北条氏の遺構が今も息づく、400年以上の歴史を持つ名城。
本日は埼玉県さいたま市岩槻区にある、岩槻城に初訪城です。
岩槻城は室町時代に、太田道真、太田道灌によって築城したと考えられていますが、成田氏とも言われており、築城年代や築城者は未だ不明な点が残る城です。
江戸時代には岩槻藩の藩庁が置かれ、明治の廃城令まで存続した歴史の長い城です。
城の大部分は市街地化によって失われ、岩槻城址公園として一部が整備されています。
八橋と呼ばれる朱色の橋と、橋が架かる菖蒲沼、公園内に移築された城門が岩槻城の定番スポットです。
定番の写真イメージで、サクッと行ってみようと思い訪城しましたが、実際に行ってみると180度 岩槻城の印象が変わりました。
岩槻城の歴史や、街の中に残された痕跡も含めて紹介します。最寄りは東武鉄道アーバンパークライン「岩槻駅」です。

岩槻駅の改札近くに観光案内所があります。
まず、ここに行くのはマストです。
パンフレットが幾つも用意されていますが、岩槻城と城下町を堪能するのであれば、スタッフさんに声がけをして貰うことができる観光用パンフレットがお勧めです。
今回は頂戴したパンフレットとGoogleマップを元に周りました。

東武アーバンパークラインの岩槻駅。
岩槻区は人形の町として有名で、あちこちに人形店があり、岩槻人形博物館も人気のスポットです。

最初に目指したのは線路沿にある愛宕神社。
大溝と呼ばれる土塁の一部が残っています。

土塁の上に愛宕神社の社殿が鎮座しています。

岩槻城は後北条氏の支配の時代に、豊臣秀吉との決戦に備えて、全長8kmに渡って土塁と堀を造り、城下町を城内に取り込んだ総構えの城に改変しました。
後北条氏の本城となる小田原城の総構えが、全長9kmです。この話が本当であれば岩槻城は、戦略上 重要視された巨大な城郭であったことが分かります。
土塁の殆どが失われていますが、この大溝は愛宕神社があったことで守られた貴重な遺構といえます。

続いて日光街道から時の鐘を目指します。
宿場町や関所もあり、12代将軍 徳川家慶は日光東照宮の宮参りの際に岩槻城に宿泊しています。

日光街道沿いには大龍寺があります。
将軍宮参りの道中図にも描かれているお寺。

江戸時代の1620年に、三代将軍 徳川家光の御守役だった岩槻城主、青山氏が開基のお寺です。
立派な薬医門形式の山門。

奥には本堂。
写真が暗くなってしまいましたが、梁に掘られた芸術的な龍の彫刻は必見です。

大龍寺から歩いて5分ほどで、時の鐘に到着です。
時の鐘は1671年に当時の岩槻城主 阿部氏によって設置された鐘楼で、今でも現役で時を告げています。

鐘にヒビが入ったことで、1720年に改鋳されたものですが、それでも江戸中期の貴重な鐘です。
住宅街の中にひっそりと佇んでいます。
たまたま12時だったので、目の前で音を聞くことができました。
人が鳴らしていると思っていましたが、自動で鐘付きが動いて鳴らしており驚きました。

武家屋敷通りの広小路。
現在、城址公園として整備されている岩槻城は主郭となる本丸ではありません。
まずはセオリーに沿って本丸跡へ向かいます。

直線的に伸びた広小路の先に、クランクした道があります。
これこそが、岩槻城の大手門跡。
奥の生い茂った木のあたりに、当時は東櫓が建っていました。

喰違いになった大手門跡。
右側のフェンスの下は縁になっていて高低差があります。

大手門跡から さいたま春日部線に出ると、岩槻本丸公民館と温水プールがあります。
この辺りは三ノ丸でした。
三ノ丸には藩主の屋敷などがあり、当時の岩槻城で広い敷地を有する曲輪でした。

岩槻城の絵図。
大手門から三ノ丸→本丸に繋がっています。
右側の新曲輪と鍛冶曲輪が城址公園になっています。
元荒川を天然の外堀として、沼に浮かぶ城というイメージ。同じ埼玉県の忍城に似ています。

本丸公民館から元荒川方面に向かうと本丸の石碑があります。
周囲を見渡しても、市街地化で完全に痕跡も失われています。

本丸の先には二ノ丸の石碑が道路沿いにあります。
二ノ丸があった場所も痕跡は失われています。
当時はこの辺りが主郭部として機能しており、本丸を中心として小規模の曲輪が幾つも展開されていました。

元荒川沿いには桜並木となっており、このあたりは当時は湿地帯でした。
この道沿いを歩いて、元荒川を見に行きます。

歩行者専用として整備されており、散歩コースとして絶好の道です。
春には桜が綺麗だと思われます。

元荒川は蛇行しており、岩槻城の東・北・西側の外堀として機能していました。
大雨の後だったので水位が高いように思えます。

ふるさと散策路という城址公園な入口があるので、ここから入城してみます。
この高低差に注目です。

ふるさと散策路はなんと堀底です!

堀底を進むと階段があります。

階段の上は土橋になっています。
土橋の先は鍛冶曲輪。

土橋から見た横堀。L字にクランクしています。

土橋から見た反対側の横堀。
この時点で岩槻城のイメージがガラリと変わりました。
明治まで存続していた城だったので、まさか戦国期を偲ばせる遺構がここまで残っているとは思っていませんでした。
ボルテージが一気に上がりました。

土橋から鍛冶曲輪に入る虎口跡。

鍛冶曲輪から見た虎口跡と土橋。

土塁の上から見た虎口跡。
この土塁が鍛冶曲輪を囲んでいます。

ふるさと散策路の入口で注目した高低差は、この鍛冶曲輪の土塁でした。

土塁の上にある白鶴城址碑。
白鶴城は岩槻城の別名で、堀が白い鶴が舞い降りた姿に見えたことや、築城時に二羽の白鶴が現れたという伝説が由来とされています。

鍛冶曲輪の東側にあたる虎口跡。
土塁の縁は石で保護されていますが、形状は残っています。

土塁の上から見た虎口。
虎口の先には土橋があります。

土橋と虎口。
草木が生い茂っていますが、橋の両脇は堀を巡らせています。

鍛冶曲輪内にある菖蒲沼。奥の赤い橋は八橋。

菖蒲沼と鍛冶曲輪。

鍛冶曲輪内の土塁。
土塁の裏側は、ふるさと散策路で堀底になっています。

この場所から堀底を歩きたかったのですが、鷺がど真ん中で門番として防衛にあたっています。

一眼レフの絞りを入れて門番を拡大。

ここは虎口なのでしょうか。
高さのある土塁が切れているので、一見すると虎口のように見えます。
しかし、堀と土塁をくり抜いて虎口があると、防衛上の欠点になりそうなので謎です。

土塁の裏側には不自然に整備された道があります。
新曲輪と鍛冶曲輪を仕切るこの堀は、発掘調査で発見された障子堀の跡になります。
浅い堀のように見えますが、堀底は3mほど地中に埋まっていることが調査で明らかになっており、実際は深く防御力が高い横堀でした。
障子堀は後北条氏の特徴的な築城術なので、岩槻城が後北条氏によって改修されたことが明らかになりました。
カマボコ状の石が畝部分の印なのでしょうか。障子堀の畝は9mの間隔で三基発見されています。

堀底を歩いてみます。
クランクして複雑な形状をしており、三方から攻撃できるように設計されています。

この迫力!
後北条氏の手によって造られたことも納得!
堀底までの深さは7m〜10mクラスだと思われます。感覚なので正確には分かりませんが、かなり高さがあります。

後北条氏の本拠は小田原城ですが、関東圏をほぼ手中に納めていたので、後北条氏によって改修された城は多く残っています。
埼玉では武蔵松山城、鉢形城が有名です。
市街地化で城郭範囲は狭くなっていますが、岩槻城の遺構規模としては匹敵、もしくは凌駕しています。

綺麗に整備されて、堀底を歩くことができるのも素晴らしい。
やはり土造りの横堀は下から写真を撮ると迫力が伝わりやすい。

さらにもう一枚!
天気は曇りでしたが、カメラも絶好調です。山城系は燦々照りの晴れよりも、曇りの方が綺麗に写真が撮れます。

堀の突き当たりもL字にクランクしており、三方から狙われたら確実に討ち死に必至です。

クランクした先は、先ほど鍛冶曲輪に入る時に渡った土橋に繋がります。

振り返ってのショット
堀底の距離も長く、個人的には岩槻城の一番の見どころです。

堀底から見た土橋。
階段が設置されているので、階段を登って新曲輪跡に向かいます。

左側が鍛冶曲輪を繋ぐ土橋。凄いのが右側の道も土橋になっている点。か

右側の土橋から見た空堀。

振り返ってのショット。
右側が鍛冶曲輪を繋ぐ土橋。
直進すると新曲輪に進むことができます。ここも土橋になっています。

土橋からのショット。
右側は草が生い茂っていますが、空堀になっています。左側は先ほど堀底を歩いた横堀。
右側の少し盛り上がっている場所が馬出です。
鍛冶曲輪を繋ぐ土橋と、新曲輪を繋ぐ土橋を防御する役割があったと思われます。

土橋を進むとT字路となり、割と車通りの多い道に繋がります。
右には新曲輪の石碑があります。

普通の道のように見えますが、これも土橋です。
右側は先ほど堀底を歩いた横堀。

土橋から見た左側は、立ち入りができませんが立派な横堀を巡らせています。しかも二重の堀。

再び土橋からのショット。
左側の森には先ほどの堀が二重で巡らせており、ここにも馬出が設けられています。
この堀をもっと見てみたい!

と思い、堀沿いにある稲荷神社にきました。

お参りをした後に写真撮影。
手洗いの裏手に堀と馬出があります。
拝殿の裏手にはやはり深い堀があります。宮の周りをズカズカ歩き周るのは気が引けるので控えましたが、遠くから見ても深い堀だというのが分かりました。

鍛冶曲輪と新曲輪周辺の遺構を示した説明看板。
赤丸で印を付けた辺りは、土橋と馬出を連続させ、さらに堀を複雑に巡らせているので、かなり防衛力を意識した造りになっています。

先ほどの土橋を進むと左側に野球グラウンドがあります。
この辺りが新曲輪となります。

執念深い私は先ほどの横堀を見たくて、グラウンドの周りを歩いてみました。
左側には土塁と空堀があり、新曲輪となる野球グラウンドを囲んでいます。

土塁の上を歩いてみます。
木が多いので堀は上手に写真が撮れませんでしたが、確かに深い空堀があります。未整備エリアなので、堀底を歩くことはできないのですが、ふるさと散策路よりも遥かに深い横堀だったように思えます。
このエリアは本当に凄いです!
土塁の上は尾根のようになっており、完全に山城のテイスト。

竪堀のような斜面に沿った堀も確認できました。

尾根の先は公園となっており、階段を降りてみました。

広大な公園の敷地が広がります。
このあたりは絵図では水堀になっています。

公園広場の隅には大ケヤキがあります。
このケヤキの背後が、稲荷神社の裏手にあった横堀のエンド部分です。
夏の時期でなければ横堀も綺麗に見えるかもしれません。
樹齢は不明とされていますが、幹まわりが4mで根まわりは6mもあるので、おそらく岩槻城の歴史をこの地で長いこと見てきたのだと思います。

再び新曲輪へと戻ります。
新曲輪跡にあるテニスコートの近くには、岩槻城の貴重な遺構となる、黒門が移築現存しています。

岩槻城の城門と伝わりますが、どこの門だったかは不明です。
幅13mの長屋形式。門の脇には小部屋が付属しています。
明治の廃城令で撤去され、浦和県庁、県知事公舎、岩槻市役所の通用門など転々と移築され利用されてきました。昭和45年にこの地に移築されました。

何度も修理されたので改変されているようですが、門の部分は城門の雰囲気を色濃く残しています。
全体的なフォルムは城門というよりも、屋敷の門のようにも感じます。

屋根は寄棟造り。
側面部に小部屋に入るための扉があります。だいぶ傷んでいるようにも見えるので少し心配。
黒門は市の有形文化財に指定されています。

同じく新曲輪には岩槻城の裏門も移築されています。
廃城令によって民間に払い下げられましたが、当時の岩槻市に寄与されてこの地に移築されました。

裏門も城内の位置は明らかになっていないようです。

門の形式は控え柱で屋根を支える薬医門形式。
江戸時代の1770年に岩槻城主 大岡氏の家臣によって修造され、1823年に修理されたことが、柱のホゾの部分に記されているようです。
建築年代が明確な貴重な遺構で、市の有形文化財に指定されています。

裏門と奥には黒門があります。
この二つの城門も岩槻城の見どころの一つです。

黒門の近くには鍛冶曲輪と新曲輪を繋ぐ虎口跡があります。
土橋になっており、両側が横堀になっています。

土橋から見た横堀。
この堀が先ほど見た障子堀に繋がり、堀底を歩いたふるさと散策路となります。

土橋の反対側。
堀底を歩いてみます。
左側の高い土塁の上が新曲輪となります。
おそらくこの横堀も経年で埋まっており、本来はもっと深い堀だったと思われます。

土塁の高さは1m位でしょうか。この土塁は全長が長く、見応えあります。
岩槻城はごく一部だけが公園として整備されていますが、それでも広範囲で遺構が残っています。

鍛冶曲輪にある八橋。

八橋から見た土塁。
菖蒲沼は在城時から湿地と沼地で、当時の面影を残しています。

続いて城址公園の近くにある太田諏訪神社に移動です。
社殿は市の有形文化財に指定されています。
太田諏訪神社は岩槻城守護の軍神として創建され、城主や家臣の祈願所だったので、岩槻城に行った際はマストのスポットです。
創建年代は不明とされていますが、1623年から1681年まで岩槻城主だった阿部氏時代の絵図には、既にこの地に描かれています。
方角的に鬼門除けとして岩槻城の築城時に創建された可能性もあります。

猫城主?猫神主?を発見。

人懐っこくて、とても可愛らしい城主様。
無料でナデナデさせてくれます。

モデル並みにカメラ目線で様々なポーズをしてくれます。

一眼レフのポテンシャルを発揮。
背景ぼかしの絞りがビシッときまってます。

太田諏訪神社から裏小路を歩いて10分程度の場所にある岩槻藩遷喬館に向かいます。
岩槻は城下の町割りが活かされており、雰囲気も道の名前も残っていて、とても素敵な街です。
また改めてゆっくり来たいと思います。

岩槻藩遷喬館に到着!
こちらは岩槻藩の児玉南柯が開いた私塾で、後に岩槻藩の藩校になりました。
無料で観覧することができます。

埼玉県内では岩槻藩遷喬館が唯一の現存する藩校の建物です。
メインの教場は15畳。コンパクトですが趣があって、妙に落ち着く空間です。

明治の廃城令で一般の住居として残され、時代と共に改変されたので、現在の間取りは当時の姿を想定したものです。
昭和30年に土地と建物が岩槻市に寄贈されました。倒壊寸前の建物を大規模修理して、改変が加えられた箇所を元に戻す復元も行われました。
平成に解体、復元工事が行われて現在に至ります。

岩槻藩遷喬館の特徴でもある茅葺屋根。

当時のトイレも見ることができます。

最後は岩槻駅近くにある芳林寺に行く予定でしたが、雨が降ってきたので撤収しました。
岩槻城には併せて観光できるスポットが多く、城下町の雰囲気も残っているので、もっと有名になっても良いのかなと思える素晴らしい城でした。
様々な情報で得た事前イメージと、実際に行って感じたギャップがとても大きく満足でした。
約4時間ほど歩いて周りましたが、全く時間が足りませんでした。また改めた攻略したいと思います。
大宮からも近くて、アクセスが良いのも高ポイント。推しの城になりました。

御城印は岩槻藩遷喬館の近くにある水野書店さんで購入しました。
岩槻はワタクシも見ていたアニメの聖地でもあります。人形など伝統的な文化と歴史、そして今を生きる素敵な街でした。
☆ランキング参加中☆

