篠山城【日本100名城】

篠山城は関ケ原の合戦後に豊臣と徳川が最高の軍事緊張が高まった1609年に築城された。
豊臣を包囲する城のひとつとして山陰道の要衝である丹波篠山盆地に、築城の名手と謳われる藤堂高虎が縄張を担当して築城。
15か国20大名の助役による天下普請により、わずか6か月で完成したといわれている。城址には堀や石垣、天守台が残っており、馬出の遺構が国の史跡に指定されている。2000年4月には二の丸大書院(おおしょいん)が復元。外堀沿いには桜が約1000本、植えられているので、春には多くの花見客で賑わう。
篠山城の見どころ

慶長13年、松平康重が丹波八上城に移り、徳川家康の命によって、大坂城攻略の包囲陣の一画として、篠山城は築城されました。諸大名が城造りを担当する国家プロジェクトとなる天下普請で築城されました。
築城名手として知られる藤堂高虎が縄張(基本設計・設計)を担当し、1609年の着工からわずか半年で完成。高虎らしい合理的な構造が採用されており、実戦的で防備に徹した篠山城は、家康がその堅固に過ぎることを責めたと伝わるほどの防御力を誇ります。

築城名人 藤堂高虎が設計した城は、シンプルな縄張りながらも防御力が高く、見上げるほどの高い石垣と最大幅45mの巨大な水堀が今でも残っています。
城郭全体は方形に近いが石垣は屏風折れになっており、横矢の設計がされています。
さらに、見どころの一つとして馬出が完存しています。近世城郭としては珍しいので注目です。
慶長14年の築城とほぼ同時に建てられた大書院は、二条城を模したといわれており、明治に廃城になったのちも小学校や公民館に使われながら現存していましたが、昭和19年に焼失。
しかし平成12年に伝統工法で復元され、今でも篠山城のシンボルとして親しまれています。

屏風折れ石垣

天守台石垣

大広間

中門跡

東馬出

井戸跡

外堀

内堀
登城レポート

MEMO
- 徳川家康の命で藤堂高虎が造った城という歴史から、歴史ポイントは高いが合戦の経験はない。
- 篠山口駅が最寄りになりますが、駅からバスと徒歩になるのでアクセスはやや難易度がある。
- 遺構は石垣のみとなりますが、大書院が復元されている
平均:3.0
合計:18.0
- 遺構:遺構の多さ、貴重度
- アクセス(目安):新幹線が最寄り→5、駅が近い→4、駅から歩いて行ける距離→3、駅から遠いがバスが走っている→2、車が無いと行けない→1
- 満足度→攻城のトータル総評
- 歴史→時代に影響を与えた歴史の舞台→5、有名な武将や合戦があった城→4
- 整備:トイレの有無、城内の解説板、パンフレットのクオリティの評価
- 城郭範囲:観覧範囲の広さと、遺構の残存度。見どころの多さにも直結
※全ての城にそれぞれの魅力があるのは前提での主観的評価になります。
名城スタンプと御城印
※スタンプ設置場所や御城印販売所の場所、営業時間は最新情報をご確認ください。
■日本100名城スタンプ
大書院館内
開館時間:9:00~17:00(受付終了は16:30)
休館日:月曜日(祝日の場合は翌日)、年末年始(12月25日~1月1日)
■御城印販売
大書院館内で販売
篠山城 周辺の天気
| 別名 | 桐ヶ城 |
|---|---|
| 城郭構造 | 輪郭式平山城 |
| 天守構造 | なし(天守台はあり) |
| 築城主 | 徳川家康 |
| 築城年 | 1609年(慶長14年) |
| 主な城主 | 形原松平家、青山氏 |
| 廃城年 | 1871年(明治4年) |
| 遺構 | 石垣、堀 |
| 指定文化財 | 国の史跡 |
| 再建造物 | 二の丸御殿玄関、大書院 |
写真で見る篠山城
マップ
アクセス
■公共交通機関
・JR福知山線・篠山口駅より、神姫バスで15分、「二階町」下車、南へ300m
■自動車
・舞鶴若狭自動車道・丹南篠山口IC
■駐車場
・無料専用駐車場あり
歴史・沿革
江戸時代
1609年(慶長14年)徳川家康は、松平康重を常陸国笠間城から丹波国八上城に移し、さらに新城の築城を命じた。これは、山陰道の要衝である丹波篠山盆地に城を築くことによって、大坂の豊臣氏をはじめとする西国諸大名のおさえとするのが目的であったとされる。
篠山盆地中心部の丘陵である笹山を築城地と定め、藤堂高虎が縄張を担当した。普請総奉行を池田輝政が務め、15か国20の大名の助役による天下普請により6か月で完成した。二の丸御殿を藩庁として使っていた。
以後、松井松平家一代、藤井松平家二代、形原松平家五代、青山家六代の歴代篠山藩主を経て明治を迎えた。
近現代
1873年(明治6年) に城郭の建造物が取り壊され始めた。二の丸御殿の大書院(おおしょいん)も公示入札を行ったところ100円での落札が決まったが、取り壊しに多くの費用が必要なことから放置された。これを旧藩士の安藤直紀が入手し、小学校、次いで公民館へと転用されて現存した。
しかし1944年(昭和19年)に火災訓練時の失火により焼失した。
復元・整備
城周辺の整備がすすめられており、2000年(平成12年)4月には二の丸御殿の中心的建物だった玄関、大書院(おおしょいん)が江戸時代の平面図や昭和時代初期の実測図、昭和時代初期に撮影された外観の古写真を基に木造復元された。大書院は一般公開されている。
堀に不法投棄される自転車などのゴミや、増える外来種を駆除するために堀の水を抜いて作業するなどして水質を改善する活動が行われている。令和元年7月、三の丸南広場の整備が終わり供用が再開された。
縄張
城は内堀と外堀を有し、内堀内に本丸と二の丸を設ける。外堀の外周は1辺約400mのほぼ正方形で、東・北・南の門には馬出を設置して守りを固めていた。二の丸を囲む土塀は所々、屏風折りに外側に突き出しており狭間の死角を少なくする工夫がされていた。
築城当初より天守台はあるが天守は建設されなかった。これは石垣や堀をはじめとする城の造りが堅固すぎることを幕府が懸念したためと伝えられている。実際には次に予定していた名古屋城の普請にあたり、篠山城築城に関わった助役大名のほとんどを移らせたためであり、家康も必要以上に堅固とした為、普請期間が伸びたと難じた。
天守の建てられなかった天守台には、平櫓が南西隅に建っていた。
三の丸に上級武士、外堀沿いに中級・下級武士、外堀南に足軽長屋、街道沿いに町や社寺が配置された。
文化財
馬出の遺構が東と南の2カ所が残っている、特に南馬出は現存する唯一の土塁だけの馬出であり、その高さは約4メートルである。1956年(昭和31年)12月28日国の史跡に指定された。いずれの門か不明だが市内金照寺に山門として移築現存している。
篠山城 周辺スポット
河原町妻入商家群

「河原町妻入商家群」は、江戸時代の佇まいを色濃く残す歴史的な町並みです。約600m続く通り沿いには、妻入と呼ばれる建築様式の商家が立ち並び、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。
篠山城 周辺宿泊施設





















