長篠城(ながしのじょう)は、三河国設楽郡長篠にあった日本の城。特に天正3年(1575年)の長篠の戦いに先立つ長篠城をめぐる攻防戦で知られる。
現在は国指定史跡に指定され城跡として整備されている。
地形変化の境目となるこの場所は、東三河と長野県方面と、静岡県と岐阜県方面の各所に至る陸上交通や東三河と河川の豊川で結ぶ水上交通が交わる交通の要所であった。
お城ニュース ※外部リンク
2023年12月22日
江戸時代の長篠城描いた絵図発見 110年以上前に行方不明
長篠城の見どころ

本丸土塁

土橋

内堀

馬出
長篠城カルテ
■攻略のレーダーチャート(ポイント)
■ポイント
- 歴史の転換期を迎えた長篠城の攻防戦の主戦場だったので歴史ポイントは最高クラス
- 主に本丸のみが整備されているので、遺構残存度は低く整備範囲も低い
- JR飯田線「長篠駅」から歩いていけるのでアクセスポイントは高い
平均:71/100 ポイント
合計:425/600 ポイント
おススメ度:★★★★★☆
■見どころバロメーター
■愛知県 主要城郭との比較(ポイント)
※全ての城にそれぞれの魅力があります。当サイト独自のデータになります。

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■長篠城址史跡保存館
・開館時間:午前9時~午後5時(入館可能時間:午後4時30分)
・休館日:通常毎週火曜日(火曜日が休日の場合は次の平日が休館)
※館外に設置しているので、保存館の開館時間外・休館日でも押印が可能です。
御城印販売
■長篠城址史跡保存館
・開館時間:午前9時~午後5時(入館可能時間:午後4時30分)
・休館日:通常毎週火曜日(火曜日が休日の場合は次の平日が休館)


長篠城 周辺の天気
| 別名 | 末広城、扇城 |
|---|---|
| 城郭構造 | 平城 |
| 天守構造 | なし |
| 築城主 | 菅沼元成 |
| 築城年 | 永正5年(1508年) |
| 主な改修者 | 奥平信昌、徳川家康 |
| 主な城主 | 菅沼氏、奥平氏 |
| 廃城年 | 天正4年(1576年) |
| 遺構 | 移築門、曲輪、土塁、空堀、石垣、井戸、虎口 |
| 指定文化財 | 国の史跡(城跡の一部) |
写真で見る長篠城
マップ
アクセス
■公共交通機関
・JR飯田線「長篠城駅」で下車、徒歩約8分
■車・バイク
・新東名高速:新城ICより、国道151号を飯田方面へ約3km
・東名高速:豊川ICより、国道151号を新城方面へ約19km
■駐車場
・専用無料駐車場があり(普通車約50台、大型バス2台)
長篠城の歴史
永正5年(1508年)、菅沼元成が築城したと伝えられる。元成以後、長篠城では俊則、元直、貞景、正貞が城主を務めている。
長篠菅沼氏が徳川家康に服属していた元亀2年(1571年)、武田信玄による三河侵攻の一端として、天野景貫によって攻められる。攻守双方の払った犠牲は大きかったが、陥落だけは免れた。その後、菅沼総領家・田峯菅沼氏から遣わされた使者の説得を受け、城主であった元成の直系玄孫・菅沼正貞は、心ならずも武田軍の圧力に屈した。
元亀4年(1573年)、武田家の当主であった武田信玄の病が悪化したことにより、前年末から続いていた武田軍の「西上作戦」は春には切り上げられ、武田軍は本国へ退却する。その途中で武田信玄は死去。
その間隙、徳川家康は長篠城を攻める。
天正元年8月(1573年)、城主・正貞は徳川軍に対して開城し、自らはそこから退去する。それ以降、正貞はその城に返り咲くことはなかった。
以後、長篠城は徳川家の城となり、徳川家康は武田軍の再侵攻に備えて、長篠城をさらに拡張し、防御力を高めた。(現在に残る本丸の大規模な土塁などはこの時のものと考えられている。)
天正3年5月21日(1575年6月29日)、父・信玄の跡を継いだ武田勝頼が1万5千の兵を率いて長篠城の奪還を試みたことによって長篠の戦いが始まった。
天正4年(1576年)奥平信昌が新城城を築城し、長篠城は廃城になったとされる。
元禄2年(1698年)、大身旗本の一色直興が知行替えで当地を領する。陣屋は長篠城跡の二の丸にあった。現在は代官家の林家屋敷跡の石碑が建つ。
遺構
主な遺構は、主郭北東部の「横矢掛け」を意識した土塁とその堀、野牛曲輪では物見櫓跡、厩跡とされる窪地や井戸があり、現存する曲輪は、本丸と野牛曲輪だけである。飯田線の鉄道は主郭とこの曲輪を画する土塁の上に敷設されている。
平成11年から平成18年にかけての発掘調査において、長篠城では前方の開けた平坦地に対して土塁と堀を巧みに配し、後方では崖地や河川といった自然地形を利用することで防御性の優れた縄張りであったことが判明した。当初造られた城の遺構面のうえに水平に盛土造成が行われ、その上部に現在みられる土塁や虎口が構築されたことも判明した。
なお現存建築物としては、新城市内の桃牛寺に弾正郭の門として使用されていたという山門が、長篠城→新城城→永住寺→桃牛寺と度重なる移築を経て現存している。
長篠城 周辺スポット
医王寺山武田勝頼本陣跡
武田勝頼本陣は、天正3年の長篠の戦いの時に医王寺の裏山に勝頼が長篠城攻めの際に陣城として築きました。
丘陵の先端部で比高差約30mをもつ標高約120mの位置に立地しています。約600mの南方に位置する長篠城に睨みを利かすような位置にあたり、また、長篠城包囲における武田軍の各陣をくまなく展望することができます。
救援軍を迎え討つ拠点として家康との対決を視野に入れた選地でもあったことが考えられています。
天神山陣地跡
天正3年の長篠・設楽原の戦いにおいて、一条信龍、土屋昌次、真田信綱、真田昌輝らが2,000人の兵を率いて陣を構えて布陣しました。
陣地跡に建つ荏柄天神社は、江戸時代の元禄11年(1698年)、旗本一色氏が旧領(下総国(千葉県))からこの地に移したもので、参道の石段123段の内、88段は下総国から運んだものといわれている。
大通寺山陣地
大通寺山陣所は、長篠城の本丸、巴城郭、瓢郭を眼下に見下ろす丘にあって、天正3年(1575)の長篠の戦いの時、武田軍の馬場信房、武田信豊、小山田昌行らが陣を置いた所である。
織田・徳川連合軍の来襲を受け医王寺山本陣で開かれた軍議において設楽原に出撃と決した時、馬場信房、山形昌景、内藤昌豊、土屋昌次ら四名の諸将は討死を覚悟してこの寺の清水の湧出井戸で、馬柄杓で別れの水杯を交わし出陣して行った。その後、盃井戸と呼ばれている。
牛渕橋
宇連川と豊川が合流する場所に架けられている。鳥居強右衛門が岡崎城に援軍を要請しに行く際、長篠城は武田軍に包囲されていたため、この辺りから川に潜り、武田軍の目をくらまし包囲網を突破したとされている。
長篠城のビューポイントにもなっています。
設楽原決戦場
日本三大決戦の一つとされる長篠・設楽原の戦いは、初めて新兵器鉄砲(火縄銃)を大量に使用し、その威力をまざまざと見せつけ、後の戦術に一大変革をもたらした日本史に残る著名な戦いです。
設楽原決戦場まつりは、「設楽原をまもる会」が中心となって、毎年7月に戦死者の供養、鉄砲隊の演武などが行われます。
徳川家康本陣跡
天正3年5月1日、武田勝頼軍は長篠城に攻撃を開始しました。5月15日に、長篠城の落城寸前の知らせを受けた徳川家康は、織田信長とともに設楽原へ出陣し、5月18日に到着して「高松山・八剣高松山、弾正山」などと呼ばれたこの地に本陣を構えたと伝えられています。
愛知県の城を攻める



























