人吉城【日本100名城】

球磨川南岸に臨む高台にある。人吉城は1198(建久9)年以来、明治維新に至るまで相良氏が鎌倉時代に地頭として人吉荘に赴任して以来35代670年の長きにわたり在城し、江戸時代には人吉藩の藩庁であった。
修築の際、三日月紋の入った石が見つかったことから、別名「繊月城」とも呼ばれた。

球磨地方統一の象徴であったこの城は、現在「武者返し」と呼ばれる石垣だけが残る。桜の名所でもあり、二の丸跡からは球磨川の流れと人吉市内が一望できる。

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人吉城の見どころ

歴史ポイント

人吉城は鎌倉時代のはじめ、源頼朝の命を受け、人吉庄の地頭として着任した遠江国相良庄 (静岡県牧ノ原市相良)を出身とする相良長頼により修築されたと伝えられています。

相良氏は、明治維新までの約700年間にわたり、肥後国人吉球磨地方(熊本県)を統治した稀有な一族です。遠江国(静岡県)から下向した長頼を祖とし、地元の文化を尊重する寛容な政治で民衆の信頼を得て、戦国大名から近世人吉藩主へと存続しました。 

遺構ポイント

圧倒的な石垣の規模を誇る人吉城は、特徴として武者返しと呼ばれる上部が跳ねだした石垣が特徴です。
相良清兵衛の広大な屋敷跡に石造りの地下室が1997年の発掘調査で発見されました。今でも謎に包まれた地下室で、井戸を備えた全国的に類例のない構造。人吉城歴史館内で見ることができます。

その他にも人吉城には櫓や土塀が復元されています。
山城エリアには壮大な石垣が残っており、御下門と中御門跡の石垣は圧巻です。

多聞櫓

長塀

大手門跡

隅櫓

地下室

堀合門

跳ねだし石垣

御下門跡

中御門跡

水ノ手門跡

人吉城カルテ

■攻略のレーダーチャート(ポイント)

ポイント

  • 遺構は石垣と曲輪、地下室の曲輪がメイン
  • 土塀、平櫓、堀合門が復元されており、城内には歴史観もあり、整備されている。
  • 平城と山城で全く異なるテイストの城郭を見る頃ができるので、範囲は広く満足度は高い

平均:76/100 ポイント
合計:455/600 ポイント
おススメ度:★★★★★★

見どころバロメーター

■熊本県 主要城郭との比較(ポイント)

※全ての城にそれぞれの魅力があります。当サイト独自のデータになります。

写真でめぐる お城ツアー

名城スタンプと御城印

※スタンプ設置場所や御城印販売所の場所、営業時間は最新情報をご確認ください。
日本100名城スタンプ
・人吉城歴史館
 時間:9:00~17:00 ※火曜定休

御城印販売
・相良護国神社

人吉城 周辺の天気

別名球麻城、求磨城、繊月城、三日月城
城郭構造梯郭式平山城
天守構造なし
築城主相良長頼
築城年元久年間(1204年 – 1206年)
主な改修者相良義陽、相良頼寛
主な城主相良氏
廃城年明治4年(1871年)
遺構石垣、土塁
指定文化財国の史跡
再建造物隅櫓、多門櫓、土塀

写真で見る人吉城

多聞櫓
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多聞櫓
多聞櫓
堀合門
跳ねだし石垣
跳ねだし石垣
御下門石垣
 二の丸石垣
二の丸石垣
二の丸石垣
中御門石垣
中御門石垣
球磨川と水ノ手門
地下室
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マップ

アクセス

■公共交通機関
・JR肥薩線「人吉駅」徒歩約18分

車・バイク
・九州自動車道路「人吉IC」から約5分

■駐車場
・24時間無料駐車場(10台)あり

人吉城について

人吉城は市内中央部を流れる球磨川の南側に位置し、球磨川とその支流胸川の合流点の山に築かれており、北側と西側は球磨川と胸川を天然の堀とし、東側と南側は山の斜面と崖を天然の城壁として、巧みに自然を利用している。球磨川沿いに三の丸を配し、その南に二の丸、さらに丘陵上に本丸が配されている、梯郭式の平山城である。

本丸には天守は築かれず護摩堂があったといわれる。 中世には本丸から谷を挟んで、南・南東・東の丘に上原城・中原城・下原城という支城もあったとされるが、現在の城跡公園には含まれていない。

幕末に築かれた御館の石垣の一部には、ヨーロッパの築城技術である槹出工法(はねだしこうほう)を応用した「武者返し」と呼ばれる独特の石垣がある。この武者返しは城壁最上部に平らな石がやや突き出して積んであり、ねずみ返しのように城壁越えを阻止すると共に、上からなら割合簡単に落下できるようになっており、城壁に張り付いた敵への攻撃にも使えるようにしている。
この城壁は日本の城では他に函館の五稜郭と龍岡城にしかない(城以外も含めればお台場にも見られる)珍しいもので、いずれも人吉城の石垣程の規模ではない

この武者返しは球磨川に面した面が最も高く大きくなっているが、これは球磨川対岸の火事が飛び火した「寅助火事」で城郭が炎上したために、防火の意味ももたせたためである。 相良氏の領地を縦貫する球磨川に面していることからも、水運も考慮されており水手門がある。またこの付近に間米蔵などがあった。

現在の城跡は「人吉城公園」として整備され、一部の櫓や塀は木造復元されている。また、城址の西側には相良護国神社がある。またかつては城内に野球のグラウンドと人吉市役所、市民会館があったが、熊本地震の被害を契機に移転、現在は人吉城歴史館と駐車場になっている。

人吉城の歴史

鎌倉時代

源頼朝に仕えた遠江国相良荘国人の相良長頼は元久2年(1205年)肥後国人吉荘の地頭に任ぜられた。この地は平頼盛の家臣の矢瀬主馬佑が城を構え支配する所であった。主馬佑は長頼に反抗したため、鵜狩りと称して主馬佑を誘き寄せ謀殺した。これを悲しんだ主馬佑の母・津賀は恨みをもって自害し、亡霊となって祟ったという。後に三の丸には鎮魂の為に「お津賀の社」が建立された(現在は残っていない)。

長頼は主馬佑の城を拡張し人吉城の基礎を造った。築城の際、三日月型の模様の入った石が出土した。このため、この城の別名を「繊月城」「三日月城」とも言う。

戦国時代・安土桃山時代

戦国時代になると相良氏は球磨地方を統一する。しかし、家督問題で内訌が生じた後の大永6年(1526年)7月14日、日向真幸院を治める北原氏が率いた大軍(一向宗を率いていたともいわれる)により人吉城は包囲される。相良義滋は策を用いて北原氏を追い返し事なきを得たが、これが相良氏入城後の人吉城が他家に攻められた唯一の出来事となった。

その後、19代当主の相良義陽によって天正年間(1573年 – 1593年)より城の大改修が始められた。途中に度々改修の中断があり、22代頼寛の寛永16年(1639年)漸く近代城郭に生まれ変わった。

戦国時代の相良氏は南の島津氏や北原氏、北の名和氏や大友氏などに絶えず脅かされよく耐えていたが天正9年(1581年)に島津氏に降伏し臣従する。その後、義陽の子・相良頼房は天正15年(1587年)羽柴秀吉の九州征伐の際に奮戦するもこれに降伏、家臣・深水長智の交渉により再び独立領主として人吉城と領地を安堵された。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは当初は石田三成方(西軍)に付き伏見城などを攻めるが、本戦で石田方が敗れると徳川方(東軍)に内応し戦功を挙げ、徳川家康より2万2千石の領地を安堵された。

江戸時代

享和2年(1802年)には城内から出火、文久2年(1862年)2月には城下町の鍛冶屋から出火があり「寅助火事」と呼ばれる大火となった。この2度の火災で城は全焼した。その後、一部の建物が再建された。

近現代

明治4年(1871年)廃藩置県により廃城となった。1877年(明治10年)に起こった西南戦争では西郷隆盛軍の拠点となり戦闘が行われた。この際に幕末に再建された建造物も全焼したが、焼け残った堀合門が市内の民家に移築され現存する

その後、城跡は人吉城公園として整備され、1961年(昭和36年)9月2日、国の史跡に指定された。

人吉城 周辺スポット

武家蔵(旧新宮家武家屋敷)

武家蔵(旧新宮家武家屋敷)にある門は人吉城内(御館の水の手門側入口)にあった門ですが、明治初期の廃藩置県で人吉城内の建物が取り壊された際に、相良家の一族であった新宮家が拝領し、自宅の門としてここに移されたものです。
現存する唯一の人吉城の建造物です。現在、人吉城内の現地には復元された門があります。

青井阿蘇神社

創建は806年(平安時代)で1200年以上の歴史を誇る。本殿・廊・幣殿・拝殿・楼門の五棟社殿群が熊本県で初の国宝指定を受けた。建造物としては日本最南端の国宝になり、茅葺の建物としては全国唯一の国宝。茅葺きの桃山様式の楼門は、華やかさと迫力を醸し出し圧倒的な存在感を示している。

人吉温泉

人吉温泉の起源は明治43年(1910)で、今では50数カ所に泉源があります。泉質は弱アルカリ炭酸泉などで、しっとりとした優しい肌触りが特徴です。
 球磨川沿いには温泉旅館があり、ヒノキ風呂や露天風呂、石積み風呂など、それぞれの宿で趣向を凝らした温泉が楽しめます。また、市内には公衆浴場(銭湯)が20数軒あり、市民の憩いの場として多くの方が利用しています。

鹿目(かなめ)の滝

本滝は、安永2年(1773年)に作成された『球磨絵図』に雄滝とみられる滝が紅葉とともに鮮やかに描かれており、少なくとも江戸時代中期には景勝地として認識されていました。
「日本の滝100選」の一つで、雌滝は高さ30m、急崖を滑るように落下しています。滝の周辺は真夏でも肌寒く、夏場は避暑スポットとして賑わう。

人吉城 周辺宿泊施設

人吉城 周辺グルメ

熊本県の城を攻める

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