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熊本城【日本100名城】

日本三名城のひとつといわれる熊本城は、加藤清正が慶長6年(1601年)から7年の歳月をかけ築城した天下の名城です。その構えは豪壮雄大で、城域は98ha、周囲5.3Kmにも及びます。

当時は大小天守はじめ、櫓49、櫓門18、その他の城門29を数え実戦を想定した巨大要塞でした。
明治10年の西南戦争では、薩摩の大軍を迎えて50余日の籠城に耐え、難攻不落の名城の真価を発揮しました。

しかし、薩軍総攻撃の3日前、原因不明の出火により、宇土櫓をはじめ11棟を残して主要な建物を焼失しました。

熊本城の見どころ

歴史ポイント

熊本城を築城した加藤清正は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけて活躍した武将・大名です。豊臣秀吉の子飼いとして頭角を現し、武勇だけでなく、築城術や治水事業でも類まれな才能を発揮しました。

秀吉亡き後は、石田三成ら文治派との対立から徳川家康に接近し、関ヶ原の戦いでは東軍として活躍しました。しかし、生涯を通じて豊臣家への忠義を忘れなかったと言われています。

遺構ポイント

熊本城の見どころ 城めぐり

熊本城の魅力は加藤清正が築いた「戦うための機能と美」です。最大の特徴である武者返しの石垣は、上部に向かって急勾配になる美しい曲線を描き、敵の侵入を阻みます。
籠城戦を想定して敷地内に多くの井戸を掘り、畳に食用可能な「ずいき」を用いたり、壁に干瓢(かんぴょう)を塗り込んだという逸話があるほど、実用性を極めた設計が光ります。
熊本市役所前の石垣は長さとしては日本最長です。2016年の震災で被災し、現在も復旧工事が進められています。

熊本城の見どころ 城めぐり

小天守

熊本城の見どころ 城めぐり

二様の石垣

熊本城の見どころ 城めぐり

備前堀

熊本城の見どころ 城めぐり

大天守

熊本城の見どころ 城めぐり

連続枡形

熊本城の見どころ 城めぐり

未申櫓

熊本城の見どころ 城めぐり

平櫓石垣

熊本城の見どころ 城めぐり

天守台

熊本城の見どころ 城めぐり

数寄屋丸 二階御広間

熊本城の見どころ 城めぐり

闇り通路

熊本城の見どころ 城めぐり

長塀

熊本城の見どころ 城めぐり

本丸御殿

※熊本城は2016年の震災で被災した為、現在も修復工事中です。2026年3月現在で見れるポイントを紹介。

熊本城カルテ

■攻略のレーダーチャート(ポイント)

ポイント

  • 地震の影響で立入禁止エリアが多いが城郭エリアが広く、全体的に規格外の石垣を見ることができる。二様の石垣は熊本城でしか見ることができない
  • 復旧工事中ではあるが宇土櫓など現存建築も多く、復元建築も多い。お土産やミュージアムなど、城下町の雰囲気を味わえる馬彩苑など、城郭全体の整備が素晴らしい。
  • 新幹線も停車する熊本駅からは路面電車で15分ほど、駅からも近いのでアクセスは良好

平均:91/100 ポイント
合計:545/600 ポイント
おススメ度:★★★★★★

見どころバロメーター

■熊本県 主要城郭との比較(ポイント)

※全ての城にそれぞれの魅力があります。当サイト独自のデータになります。

写真でめぐる お城ツアー

名城スタンプと御城印

※スタンプ設置場所や営業時間は最新情報をご確認ください。

◼︎日本100名城スタンプ
・二の丸券売所
・北口券売所
・南口券売所
・熊本城ミュージアムわくわく座
 営業時間 9:00~17:00

◼︎御城印販売
・二の丸お休み処
 営業時間 9:00~17:00
・本丸お休み処
 営業時間 9:00~17:00

熊本城の御城印
熊本城の御城印

熊本城 周辺の天気

別名千葉城(出田氏)、六実城、隈本城(鹿子木氏、菊池氏、城氏、佐々氏、加藤氏半国期)、銀杏城
城郭構造梯郭式平山城
天守構造連結式望楼型5重6階地下1階(非現存・1600年築)
外観復元(RC造 1960年再)
築城主出田秀信(千葉城)、鹿子木親員(隈本城)
築城年1469年(文明元年)
主な改修者加藤清正
主な城主加藤氏、細川氏
廃城年1874年(明治7年)
遺構櫓・門・塀、石垣、堀
指定文化財国の重要文化財:櫓11棟、門1棟、塀1棟
国の特別史跡:熊本城跡
再建造物外観復元:大小天守、平櫓
木造復元:西大手門、数奇屋丸二階広間、南大手門、西出丸戌亥櫓、未申櫓、元太鼓櫓、飯田丸五階櫓、馬具櫓、本丸御殿大広間

写真で見る熊本城

天守
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天守
熊本城 全景
平左衛門丸から見た天守
本丸から見た天守
二様の石垣
数寄屋丸二階御広間
本丸御殿
闇り御門と連続枡形
連続枡形
未申櫓
長塀
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マップ

アクセス

■公共交通機関
・市電(路面電車)「市役所前」
・市電(路面電車)「桜町バスターミナル」徒歩10分
・熊本城周遊バス(しろめぐりん) 二の丸駐車場下車
※阿蘇くまもと空港からはリムジンバスが運行中
 熊本桜町バスターミナルで下車

車・バイク
・九州自動車道路「熊本IC」から30分
※駐車場 各所にあり

熊本城について

熊本市北区植木町の中心から南に伸びる舌状台地(京町台地)の尖端、茶臼山丘陵一帯に築かれた平山城。現在の地名では中央区の本丸、二の丸、宮内、古城町、古京町、千葉城町に当たる。

中世に千葉城、隈本城が築かれ、安土桃山時代末期から江戸時代初期にかけて加藤清正がこれを取り込み、現在の本丸にあたる部分の築城を行った。 細川氏の時代になると城地の拡張と増築が盛んに行われ、西側に二の丸、三の丸が加わった。明治時代の初めまでは大半の建物が撤去されずに現存していたが、熊本鎮台が置かれた後に建物や石垣、曲輪の撤去や改変が行われ、西南戦争で一部の建物を残して天守を含む御殿や櫓など主要な建物を焼失した。

現在は、宇土櫓や東竹之丸の櫓群が残っている。1889年(明治22年)の熊本地震で石垣の一部が崩落し、改修された部分があるものの、ほぼ江戸期の姿をとどめ、城跡は特別史跡に指定されている。

天守は1960年に鉄筋コンクリート造で外観復元され、内部は「熊本市立熊本博物館分館」となっている。2000年以降は門や櫓、御殿の一部などが木造で復元された。

2016年4月の熊本地震の際に、多くの石垣が崩落したほか宇土櫓などの文化財建造物、大小天守などの復元建築が被災し、修復が進められている。今後さらに櫓、門、土塀が木造復元される予定。

熊本城の歴史

1587年(天正15年)、豊臣秀吉の九州平定に際し、薩摩の島津氏に属していた親冬の孫・城久基は城を明け渡して筑後国に移った。秀吉の御伽衆・大村由己の『九州御動座記』には「此所は肥後の府中なり、城十郎太郎(久基)と云者相踏候、数年相拵たる名城なり」と記す。また、秀吉が一柳直末に送った朱印状の中で「肥後は然るべき国に候間、羽柴陸奥守(佐々成政)おかせられ候、熊本名城に候間、居城として御普請仰せ付けられ候」と述べている。

新たに肥後の領主となり隈本城に入った佐々成政は、秀吉の指示に反して検地を強行し、肥後国人一揆を引き起こす。この時、隈本城は国人衆による猛攻を受けたが、城代の神保氏張が死守して落城は免れている。1588年(天正16年)、成政は切腹を命じられ、加藤清正が肥後北半国19万5,000石の領主となり隈本城に入った

加藤清正は、1591年(天正19年)から千葉城・隈本城のあった茶臼山丘陵一帯に城郭を築き始めた。1600年(慶長5年)頃には天守が完成。同年の関ヶ原の戦いの行賞で清正は肥後一国52万石の領主となる。1606年(慶長11年)には城の完成を祝い、翌年「隈本」を「熊本」と改めた。これが現在の熊本城である。1610年(慶長15年)から、通路によって南北に分断されていた本丸に通路をまたぐ形で本丸御殿の建築が行われた。これにより天守に上がるには、本丸御殿下の地下通路を通らなければならないようになった。

1632年(寛永9年)、清正の子・加藤忠広の改易により豊前小倉城主だった細川忠利が肥後54万石の領主となり熊本城に入った。この時、忠利は天守に上り清正を祀る廟所がある本妙寺の方角に向かって遙拝したと伝えられる。忠利は城の長塀の南、坪井川を渡った所に花畑屋敷を造営し、以後、歴代藩主はここを日常の居所とした。

加藤家の治世末期には、藩財政の疲弊や御家騒動により、城の修理もままならない状況であった。細川家が肥後入部時には、熊本城は現在の本丸周辺のみ整備されていて二の丸の一部と三の丸の大半は未開発であった。 このため細川忠利は入部後、直ちに熊本城の修繕を江戸幕府に申し出ている。

この修繕は建築物の修理に留まらず、本丸の増築(二様の石垣に跡が見られる)・二の丸の整備にもおよんで居る。更に上級家臣の下屋敷地や中級家臣用地として順次、現・三の丸や壺川地域(江戸時代中期まで三の丸扱いされていた)の開発が進められ、最後に西端の段山(現在の段山町周辺)の郭が完成したのは明治維新まで30年を切った天保年間である。この時点で城内の櫓は焼失した森本櫓・硫黄櫓を除き62を数えていた。熊本城は細川氏の治世下で江戸時代を通じて拡張され続けていた。

明治時代

幕末の熊本藩には学校党、実学党、敬神党の3つの勢力があったが、維新後の1870年(明治3年)に進歩的な実学党が政権を握り、「戦国の余物」「無用の贅物」であるとして熊本城の解体を新政府に願い出た。これは諸藩の改革を促進したい新政府の意向を受けたもので、願い出は聞き届けられた。しかし、作業開始当日になって解体の方針は凍結されることになった。藩知事細川護久の主導で進められた方針に対し、前藩知事で保守派の細川韶邦が不満であるなど、藩内に意見の相違があったためといわれる。代わりに、城内は天守を含めて一般に公開されることとなった

軍都熊本の名前もあるように、太平洋戦争終戦前は陸軍が使用していた。熊本空襲では一部(将校集会所) を除き、焼失を免れた。

それに先立つ維新直後の1871年、鎮西鎮台が設置された。二の丸を中心に1875年歩兵第13連隊、1925年、熊本陸軍教導学校、1943年、熊本予備士官学校ができた。またその近くの現在監物台樹木園の場所に熊本陸軍幼年学校(1897年9月1日-1927年3月31日)ができた。この施設は軍縮により廃止。その後、清水町に再建された。二の丸と古城の間は、江戸時代は大名屋敷であったが、明治4年、鎮西鎮台病院、その後は陸軍病院となった。1945年より国立熊本病院、その後は国立病院機構熊本医療センターとなっている。1871年(明治4年)の廃藩置県後は熊本県の県庁が二ノ丸に置かれ、同年に花畑邸鎮西鎮台(後に熊本鎮台に改められた)が置かれた。

この時の熊本鎮台司令であった桐野利秋は老朽化した櫓、多重櫓の破却を指示し、特に西出丸は石垣を取り崩し、郭自体を破却している。西南戦争前には天守・本丸御殿を中心とした本丸主要部のみ保存されていた

1876年(明治9年)の神風連の乱の時には反乱士族が鎮台司令官種田政明などを襲い城内の砲兵営を制圧したが、1日で鎮圧されている。

最初で最後の攻防戦

西南戦争では政府軍の重要拠点であると同時に西郷軍の重要攻略目標となる。西郷軍の総攻撃2日前、1877年(明治10年)2月19日午前11時40分から午後3時まで原因不明の出火で大小天守などの建物(同時に30日間の米、城下の民家約千軒)を焼失した。現時点で西南戦争での焼失が確認されている建造物は、大天守・小天守・本丸御殿・本丸東三階櫓・月見櫓・小広間櫓・小広間西三階櫓・長局櫓・耕作櫓門・三之櫓門・東櫓門である。焼失を免れた建造物は現存のものを除くと西竹之丸脇五階櫓・飯田丸三階櫓・札櫓門・六間櫓・書物櫓・堀預り櫓が確認されているが、西南戦争後から大正期までに陸軍により順次破却されている。

管理人:つぶやき城ー
管理人:つぶやき城ー

MEMO
政府軍と西郷隆盛率いる薩摩軍は激しい攻防が行われたが、熊本城は司令官谷干城の指揮の下、4000人の籠城で、西郷軍14000人の攻撃に耐え撃退に成功しました。
「おいどんは官軍に負けたとじゃなか。清正公に負けたとでごわす」と、西郷が嘆いたというエピソードがは有名です。加藤清正が心血を注いで築城した熊本城は、300年の時を超えてその防衛力の高さを発揮することになりました。

熊本城 周辺スポット

水前寺成趣園

池泉式回遊庭園。寛永9年(1632年)、肥後細川初代藩主・細川忠利公が御茶屋を置いたのが始まりで、その後、三代目藩主綱利公のときに庭園が完成しました。
阿蘇の伏流水が湧き出る池を中心に、ゆるやかな起伏の築山、浮石などが配された庭園は四季折々の自然と庭園美を楽しめます。
園の北側には細川家の歴代がまつられる出水神社もあります。

雲巌禅寺(霊巌洞)

熊本市の西方、金峰山山麓にある洞窟、霊巌洞。うっそうと茂る樹木におおわれ、神秘的な霊場として知られる雲巌禅寺に、洞窟内には岩戸観音の名で知られる観音像が安置されています。晩年の5年間を熊本で過ごした宮本武蔵が、この洞窟にこもって兵法書「五輪書」を著したことはあまりにも有名。
雲巌禅寺から霊巌洞に至る岩山を削った細道に、五百羅漢が安置されています。

桜の馬場 城彩苑

バーチャルで熊本の歴史が体感できる「熊本城ミュージアム 湧々座」や、江戸時代の城下町を再現した館に、熊本のお土産や食を集めた20以上のショップが並ぶ飲食物販施設「桜の小路」などを併設。食べて、観て、体験できる熊本の観光交流施設です。
敷地内には「総合観光案内所」もあります。

田原坂西南戦争資料館

幕末・維新期の争いの中で最大規模、かつ国内最後の内戦「西南戦争」。なかでも、17日間にわたり戦闘が繰り広げられた激戦地・田原坂(たばるざか)にある資料館です。
館内には、映像や音、ジオラマなどで戦いの様子を再現した体感展示をはじめ、実際に使われた刀や銃、発掘された銃弾、戦死者名簿など、西南戦争関係の資料や遺品が多数展示されています。

旧細川刑部邸

細川家三代・忠利公の弟にあたる興孝公が、正保3年(1646年)に2万5千石を与えられて興したものです。
現在の熊本市東子飼町で下屋敷として使用していたものを熊本市が4ヶ年かけて移築したもので、県重要文化財に指定されています。建坪は300坪。唐破風の大きな玄関は、重臣などの訪問や当主だけが使ったとされているほか、入側造りの表御書院は江戸時代の大名邸宅の造りを残しています。

高橋稲荷神社

日本稲荷五社の一つに数えられる「高橋稲荷神社」。商売繁盛の神様としても知られ、毎年2月に開催される“初午大祭”には県内外から多くの参拝者が訪れます。また奥宮には、五穀豊穣や学業成就の源策社、安産、縁結びなどの峯吉社、病気除災、悪疫除災の元吉社などがあり、さまざまな神様に参拝できるのも魅力。朱色が映える楼門や大鳥居、大提灯も圧巻の美しさで、高台にある社殿からの眺めも絶景です。

熊本県の城を攻める

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