彦根城は滋賀県彦根市にある、国宝に指定された天守を持つ平山城です。徳川家康の命により1606年頃から井伊直継・直孝が約20年かけて築城した「金亀城(こんきじょう)」とも呼ばれる名城で、以降 多くの大老を輩出した譜代大名・井伊氏14代の居城として用いられました。
天守は現存12天守のひとつで国宝。その他にも櫓など多くの建築物が現存している貴重な城です。
お城ニュース ※外部リンク
2025年9月4日
5回目挑戦 世界遺産への道開く 国宝・彦根城 推薦候補に
彦根城の見どころ

天秤櫓

水堀

天守

佐和口門

厩

太鼓門

続櫓

石垣
彦根城カルテ
■攻略のレーダーチャート(ポイント)
■ポイント
- 現存建築物の多さは日本屈指。厩は現存例がない貴重な遺構です。自然石を使った高石垣も見どころ
- 彦根駅からも近く、新幹線停車駅の米原駅からも近いのでアクセスは良好
- 世界遺産を目指していることもあり、城郭の整備も進み、ライトアップなども楽しむことができる
平均:93/100 ポイント
合計:560/600 ポイント
おススメ度:★★★★★★
■見どころバロメーター
■滋賀県 主要城郭との比較(ポイント)
※全ての城にそれぞれの魅力があります。当サイト独自のデータになります。

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日本100名城スタンプ設置場所
・彦根城内「開国記念館」に設置
御城印販売
・彦根城内「開国記念館」で販売



彦根城 周辺の天気
| 別名 | 金亀城 |
|---|---|
| 城郭構造 | 連郭式平山城 |
| 天守構造 | 複合式望楼型 3重3階地下1階(1606年築) |
| 築城主 | 井伊直継 |
| 築城年 | 1604年(慶長9年)竣工 1622年(元和8年)落成 |
| 主な城主 | 井伊氏 |
| 廃城年 | 1874年(明治7年) |
| 遺構 | 現存天守、 櫓、門、塀、馬屋 石垣、土塁、堀 |
| 指定文化財 | 国宝(天守等2棟) 重要文化財(櫓、門、馬屋等5棟) 特別史跡 |
| 再建造物 | 表御殿(表向:外観復元・奥向:木造復元) |
写真で見る彦根城
マップ
アクセス
■公共交通機関
・JR東海道本線「彦根駅」から徒歩約15分
■車・バイク
・名神高速道路・彦根ICから約5分
・北陸自動車道・米原ICから約20分
■駐車場
・専用駐車場あり
彦根城について
江戸時代初期、現在の彦根市金亀町にある彦根山に鎮西を担う井伊氏の拠点として築かれた平山城(標高50m)。山は「金亀山(こんきやま)」の異名を持つため、金亀城(こんきじょう)とも呼ばれた。多くの大老を輩出した家系で譜代大名である井伊氏の居城である。14代藩主までの居城であった。
明治時代初期の廃城令による破却を免れ、天守が現存する。天守と附櫓(つけやぐら)及び多聞櫓(たもんやぐら)の2棟が国宝に指定されるほか、安土桃山時代から江戸時代の櫓・門など5棟が現存し、国の重要文化財に指定されている。中でも馬屋は重要文化財指定物件として全国的に稀少である。
天守が国宝指定された5つの城の一つに数えられる。姫路城とともに遺構をよく遺している城郭で、1992年(平成4年)に日本の世界遺産暫定リストに掲載されたものの、近年の世界遺産登録の厳格化により、20年以上推薦が見送られている。
滋賀県は廃城令で解体された城が多く、彦根城は県内唯一の保存例である。
彦根城の歴史
徳川四天王の一人・井伊直政は、1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いの後、その軍功により18万石にて近江国北東部に封ぜられ、西軍指揮官・石田三成の居城であった佐和山城に入城した。
佐和山城は「三成に過ぎたるものが二つあり、島の左近に佐和山の城」と言われるほどの名城であったが、直政は、中世的な古い縄張りや三成の居城であったことを嫌ったという。このため琵琶湖岸に近い磯山(現在の米原市磯)に居城を移すことを計画していたが、関ヶ原の戦傷が癒えず、1602年(慶長7年)に死去した。
家督を継いだ井伊直継が幼少であったため、直政の遺臣である家老の木俣守勝が徳川家康と相談して直政の遺志を継ぎ、1603年(慶長8年)琵琶湖に面した彦根山に彦根城の築城を開始した。
築城には公儀御奉行3名が付けられ、尾張藩や越前藩など7か国12大名(15大名とも)が手伝いを命じられる天下普請であった。1606年(慶長11年)2期までの工事が完了し、同年の天守完成と同じ頃に直継が入城した。大坂夏の陣で豊臣氏滅亡後、1616年(元和2年)彦根藩により第3期工事が開始され、御殿が建造された。
1622年(元和8年)、すべての工事が完了し、彦根城が完成した。その後も井伊氏は加増を重ね、1633年(寛永10年)には徳川幕府下の譜代大名の中では最高となる35万石を得るに至った。
彦根城を築くにあたり、大津城、佐和山城はじめ近江国の諸城を移転や破却し、城の建設物に利用したとされる。結果として彦根藩には彦根城しか残らず、大老も出す譜代筆頭の井伊氏が諸大名に一国一城令を守る手本を示した格好になった。
筆頭家老・木俣家は1万石を領していたが、陣屋を持たなかったため、月間20日は西の丸三重櫓で執務を行っていたという。徳川統治下の太平の世においては、城郭は軍事施設としての意義を失い、彦根城も西国大名の抑えのための江戸幕府の重要な軍事拠点から、藩政や年貢米の保管の場所となり、天守や櫓は倉庫等として使われた。
1854年(安政元年)に天秤櫓の大修理が行われ、その際、石垣の半分が積み直された。向かって右手が築城当初からの「牛蒡積み」、左手が新たに積み直された「落し積み」の石垣である。
幕末に大老を務めた井伊直弼も、35歳で藩主となるまでこの城下町で過ごしている。直弼がその時に住んだ屋敷は、「埋木舎(うもれぎのや)」として現存している。
その後の彦根城
明治維新後、廃藩置県によって各藩の城郭はそれまでの機能を失い、建築物としても「無用の長物」となり、その多くが廃城令により廃城となったが、彦根城は当初陸軍省管轄下の施設となったため維持された。
しかし、老朽化のため民間へ売却されて破却される予定となったが、明治11年の明治天皇の彦根行幸の際に供奉していた参議大隈重信が天皇に働きかけた結果、天守や櫓の保存が決定し、皇室付属地彦根御料所となり、最終的には最後の彦根藩主であった井伊直憲に下賜されて保存された。

MEMO
世界遺産登録の実現を目指す彦根城。ユネスコが世界遺産周辺における景観修繕を求めるようになったことをうけ、滋賀県と彦根市が関西電力と協力し、内堀沿いの電柱約40本とそれに連なる電線を撤去し、電線類地中化を実施。国内の世界遺産登録地・候補地の中でもこれだけの規模での修景を行ったのは初めての事例でした。
彦根城の構造
城の形式は連郭式平山城。本丸、二の丸、三の丸と北側に山崎曲輪が配置された。御殿は二の丸に置かれた。本丸に天守、西の丸と山崎曲輪に三重櫓が建てられた。山崎曲輪三重櫓は明治初期に破却された。
なお、城の北側には玄宮園と楽々園という大名庭園が配されており、これらは「玄宮楽々園」として国の名勝に指定されている。
玄宮園、楽々園はかつて松原内湖に面しており、入江内湖も望める絶景であった。
なお、現存例の少ない築城の技法でもある「登り石垣」が良好な形で保存されている。この石垣は、天秤櫓の向かって右が牛蒡積み(野面積みの一種)、向かって左が落し積みとなっている。
彦根城の建築物
彦根城の建築物には、近江の名族京極高次が城主を務めた大津城の天守をはじめ、佐和山城から佐和口多門櫓(非現存)と太鼓櫓門、小谷城から西ノ丸三重櫓、観音寺城からや、どこのものかは不明とされているが太鼓門などが移築されたという伝承が多い。
建物や石材の移築転用は縁起担ぎの他、コスト削減と工期短縮のために行われたもので、名古屋城や岡山城や姫路城、福岡城など多くの城に建物の移築の伝承がある。
天秤櫓は、長浜城から移築したといわれ、時代劇の撮影にも使われる。堀切の上の掛橋を渡った突き当たりにあたる、長い多聞の左右の端に2重2階の一対の隅櫓を構え、天秤ばかりのような独特な形状である。
国宝

天守・附櫓
天守は3階3重、つまり3階建て3重の屋根で構成されています。規模は比較的小ぶりですが、屋根は「切妻破風(きりづまはふ)」「入母屋破風(いりおもやはふ)」「唐破風(からはふ)」を多様に配しており、2階と3階には「花頭窓(かとうまど) 」、3階には高欄付きの「廻縁(まわりえん)」を巡らせるなど外観に重きを置き、変化に富んだ美しい姿を見せています。
その構造は、通し柱を用いないで、各階ごとに積み上げていく方式をとっており、全体として櫓の上に高欄を付けた望楼を乗せる古い形式を残しています。昭和32年から35年にかけて行われた解体修理により、慶長11年(1606)の墨書のある建築材が発見されたことと、その他の史料の情報を総合的に判断して、天守の完成が慶長12年(1607)ころであると推定しています。
また、建築材を克明に調査した結果、もともと5階4重の旧天守を移築したものであることも分かりました。彦根藩主井伊家の歴史を記した『井伊年譜』には、「天守は京極家の大津城の殿守也」とあり、彦根城の天守が大津城(大津市)の天守を移築した可能性が考えられています。
国の重要文化財

三重櫓及び続櫓
西の丸三重櫓は、本丸に隣接する西の丸の西北隅に位置しており、さらに西に張り出した出曲輪(でぐわ)との間に設けられた深い大堀切(おおほりきり)(尾根を切断して造られた空堀)に面して築かれています。大堀切の底から見上げる三重櫓は絶壁のようにそそり立っており、西の搦手(からめて)(裏手)方面からの敵に備えた守りの要かなめでした。
この三重櫓は、東側と北側にそれぞれ1階の続櫓(つづきやぐら)を「く」の字に付設しています。三重櫓には天守のように装飾的な破風(はふ)などはありませんが、櫓全体を総漆喰塗りとし簡素な中にも気品のある櫓となっています。

天秤櫓
天秤櫓は、大手門と表門からの道が合流する要(かなめ)の位置に築かれた櫓です。
この櫓は、上から見ると「コ」の字形をしており、大手門からと表門からの登城道をそれぞれ押さえるために両隅に2階建ての櫓を設け、中央に門が開く構造となっています。あたかも両端に荷物を下げた天秤のようであり、江戸時代から天秤櫓の名があります。
彦根藩主井伊家の家譜である『井伊年譜』には、この櫓が長浜城の大手門を移築したものであると記されています。昭和30年代の解体修理では、移築された建物であることは確認されていますが、天秤櫓の前身が『井伊年譜』の記載どおり長浜城大手門と断定するには至っていません。

馬屋
表門の外、内堀と道路を隔てて建っている細長い建物が馬屋です。この馬屋は、全国の近世城郭に残る大規模な馬屋としてほかに例がなく、国の重要文化財に指定されています。
馬屋の建物はL字形をしており、佐和口の櫓門に接する東端に畳敷の小部屋、反対の西端近くに門があるほかは、すべて馬立場(うまたちば)と馬繋場(うまつなぎば)となっています。その数は21。つまり21頭もの馬を収容することができたのです。馬屋は、さらに現在の売店方向に伸びていたようですが、現在は復元されていません。

太鼓門・続櫓
本丸にそびえる天守を目の前にした最後の門が重要文化財の太鼓門櫓です。門櫓の南には、「く」の字に曲がった続櫓が付設されています。この門櫓は、建物の背面の東壁面が開放され、柱間に高欄(手すり)を設置して1間通りを廊下にしています。
櫓にはたいへん稀な例で、一説には名称となっている「太鼓」が櫓の中に置かれ、その太鼓の音が広く響くための工夫とも考えられていますが、明確ではありません。
太鼓門櫓も、天秤櫓・西の丸三重櫓、そして天守などと同様に、築城時にほかの場所から移築された建物です。解体修理に伴って実施された建物部材調査により、移築前の建物も、どこかの城の城門であったことが判明したのです。しかも、かつての城門は規模が大きく、それを縮小して今日の太鼓門櫓としていました。ただ、それがどちらの城の城門だったのかは、今も謎のままです。

佐和口多門櫓
重要文化財となっている佐和口多聞櫓は、佐和口に向かって左翼に伸びており、その端に二階二重の櫓が建ち、多聞櫓に連接しています。多聞櫓は長屋のような形が特徴的な櫓の一種で、「多聞」の名は戦国武将松永久秀(まつながひさひで)の多聞城(奈良市)で初めて築かれたことに由来すると伝えています。佐和口の多聞櫓は、佐和口の桝形を囲むように二度曲折する長屋となっています。この櫓の内部は7つに区画され、中堀に向って三角形「△」と四角形「□」の狭間(ざま)が交互に配置されています。
現存する多聞櫓の右端は切妻屋根で不自然に途切れ、石垣のみの空地が広がります。
彦根城 周辺スポット
名勝 玄宮園

城の北東にある大名庭園で、琵琶湖や中国の瀟湘(しょうしょう)八景にちなんで選ばれた近江八景を模してつくられました。4代藩主直興が延宝5年(1677年)に造営したとされています。毎年11月には「錦秋の玄宮園ライトアップ」が催され、大名庭園ならではの趣が味わえます。
→マップ
彦根市河原町芹町地区
保存地区は城下町の南東隅部にあり、江戸時代前期に形成された城下町の特徴ある町割と、街路に沿って建てられた町家とともに良好な歴史的風致を形成しており、風情ある街並みを見ることができます。
井伊神社
天保13年に彦根藩12代藩主井伊直亮が、井伊家の始祖井伊共保の750回忌にあたり、井伊谷(現静岡県)八幡宮から井伊大明神を分霊して神像を造り、龍潭寺の参道脇に祀ったのがはじめとされます。また、彦根藩初代藩主直政・彦根藩2代藩主直孝も祀られています。
彦根城 周辺宿泊施設

彦根城 攻城の拠点
滋賀県の城を攻める

























