【東京都】稲付城

CASTLE DATA FILE.123
登城日:2026年7月20日
交通手段:JR赤羽駅から徒歩5分
ステータス:-
ジャンル:山城
遺構:-
現存建築:-
復元建築:-
スタンプ:-
御城印:渋沢×北区 飛鳥山 おみやげ館で購入
※稲付城からは離れているので注意
遺構は無くても名将 太田道灌の息吹を感じる城
本日は東京都北区にある稲付城に初訪城です。
稲付城は関東で名を馳せた室町時代の武将で、江戸城を最初に築いたことでも有名です。
現在の江戸城は徳川家康が関東に移封した際に大改修したものですが、今でも太田道灌時代の堀と伝わる、道灌濠などが残っています。
関東の至る所で太田道灌のゆかりの城は残っています。
この稲付城もその一つと考えられており、赤羽駅の目と鼻の先にある城跡です。
稲付城には現在、静勝寺が建てられており、この一帯が城だったと考えられています。
赤羽は商店街や住宅やビジネスなど、開発された大きな街ですが、その赤羽駅の近くにひっそりと佇んでいます。
この辺りは元々は武蔵野大地の北東端部に位置しており、舌状台地と呼ばれる突き出した形状の山でした。
標高は21m程度ですが、丘陵だったことが今でもハッキリと分かります。
この辺りは住宅地として開発されていますが、かなりアップダウンがあります。
これこそが、城があったと連想させるポイント。
階段を登り頂上部には静勝寺南門があります。
まるで中世城郭の城門のような雰囲気を出しています。
門の脇には解説板が設置されており、城跡としての整備もしっかり行われています。
静勝寺の本堂。
静勝寺の由来は太田道灌の死後、道灌の師・雲綱和尚が1504年に、城の一角に彼を弔う堂を建立して道灌寺としたことにはじまります。
明暦元年(1655年)、道灌の子孫の太田資宗が堂などを整備して中興、道灌とその父・太田資清の法号によって寺号を自得山静勝寺と改めたと言われています。
江戸時代を通じて、静勝寺は太田氏の菩提寺とされています。
本堂玄関の軒唐破風。
屋根上の大棟には太田氏の家紋、桔梗を確認できます。
寺内にある道灌堂。
内部には太田道灌の木造の坐像が安置されています。
道灌堂には250回忌にあたる享保20年(1735年)7月に建立されました。像は道灌の命日である7月26日にちなんで、毎月26日に開扉されます。
次回は26日に合わせて行きたいと思います。
稲付城脇の路地。
稲付城の周りの至る箇所にこのようなアップダウンがあるので、この場所が城郭があったであろう丘陵の痕跡を見ることができます。
南側の坂道。
昭和62年の発掘調査では、永禄年間の1558年〜1569年末ごろから1582年頃に普請されたと考えられる、城の空堀が確認されています。
この辺りが城であったことは間違いないようです。
階段を降りると一帯を眺めることができます。
この付近は鎌倉時代には宿場があり、室町時代には関が設けられており、街道の主要地点になっていました。
武蔵野台地の北東端部に位置しており、三方が丘陵に囲まれているので、街道を抑える意味と江戸城と岩槻城の中継するための城だったと考えられます。
人しか歩けない細路地。
都心とは思えない、味わいのある道です。
左側は急な縁(へり)となっており、右側は家が建っています。まるで、帯曲輪のように細い平地です。
一段高い場所にある墓地が静勝寺。
もし静勝寺のある場所が稲付城の主郭であれば、この形状は納得です。
宅地造成で改変された可能性も高いですが、好きなように想像して見て周ることは、街に埋もれた城跡の楽しみ方の一つです。
こちらも稲付城周辺の路地。
右側が静勝寺のあるエリア。
見てわかるように、路地を挟んで住宅の高低差があります。
もしかしたら横堀などがあって、形状を生かして開発された可能性もあります。
左側の道を下れば、最初にスタートした稲付城の入口となる階段。
右側は静勝寺坂と呼ばれる道で、静勝寺南門に抜けることができます。
太田道灌が稲付城を築城し、道灌の死後は孫の資高が居城し、後に資高は後北条氏に仕えました。
後北条氏は豊臣秀吉との合戦で滅亡し、徳川家康が江戸に移封されると稲付城は廃城になったと伝わります。
遺構らしい遺構は確認できませんが、間違いなく太田道灌と稲付城の伊吹を感じることができました。
静勝寺が稲付城と太田道灌の歴史を守ってきたのだと実感することになりました。
やはり歴史は人によって守られるもの。
アクセスも良いので、フラッと立ち寄るにも最適な城跡でした。




























