【福島県】猪苗代城

CASTLE DATA FILE.124
登城日:2026年7月26日
交通手段:白河小峰城から車で1時間
ステータス:県指定史跡
ジャンル:平山城
遺構:曲輪跡・空堀・土塁・石垣・堀切
現存建築:-
復元建築:-
スタンプ:-
御城印:オンラインショップ奥州王で購入
室町時代から幕末まで存続した歴史ある城。良好な遺構が今も残る
本日は昨日の白河小峰城に続いて、福島県の猪苗代城に初訪城です。
福島県には名城が多く、会津若松城、白河小峰城、二本松城が日本100名城に指定されており、さらに向羽黒山城と三春城は続日本100名城に指定されています。
昔から新潟、山形、宮城の主要道が交差する福島県は守りの要として重要視されていました。
特に会津は名武将が統治しました。
名城がひしめいているが故に猪苗代城はややマイナーな城になっていますが、福島県の史跡に指定されており、歴史上でも重要な城でした。
朝4時に起きて、宿泊した猪苗代のホテルから車で10分ほど。早朝5時に登城口に到着しました。猪苗代城は現在、一帯が亀ヶ城公園として整備されています。
車の場合は図書歴史情報館と、公園東側に城跡専用の駐車場があります。
無料の専用駐車場には早速に枡形虎口と大手口多聞櫓の石垣が出現します。
これはかなり期待できます。
駐車場に設置された解説看板。
猪苗代城は亀ヶ城とも呼ばれ、始まりは三浦氏の一族となる佐原氏が、鎌倉時代に奥州征伐で軍功をあげたことで、源頼朝に会津4郡を与えられます。
その子、長男が猪苗代氏を名乗り、1191年に亀ヶ城を築いたと考えられています。
14代まで猪苗代氏の居城となりましたが、天正17年に伊達政宗と現在の会津一帯を治めていた蘆名氏による摺上原の戦いで、伊達氏が蘆名氏に勝利したことで、会津は伊達領となります。
豊臣秀吉による奥州仕置で伊達政宗は会津の領地を没収されて、後に会津を離れると猪苗代氏もこの地を離れたことで、猪苗代氏の400年続いた支配が終焉を迎えます。
ちなみに猪苗代氏は幕末まで仙台藩士として伊達氏に仕えています。
左側が枡形虎口で、長く伸びた石垣の上には長屋形式の多聞櫓が建っていました。
猪苗代城は比高30mの小高い山に築かれた平山城で、外からの景色は中世城郭の雰囲気ですが、この石垣を見ると近世城郭を併せ持つ城であったことが分かり、イメージが一新されます。
伊達政宗が領地没収された後は、会津領主は蒲生氏、上杉氏、加藤氏など有力大名が支配。猪苗代城は会津を守る重要拠点として残り続けました。
江戸時代の一国一城令が発布されても猪苗代城は破却されずに幕末まで城の機能を維持しました。
石垣は蒲生氏郷の時代と考えられています。
蒲生氏郷は会津統治時代に、会津若松城や二本松城などを改修して現在の骨格を造りました。
特に最高クラスの技術を持つ石工集団 穴太衆によって石垣が積まれており、土造りが多い関東や東北地方の中では革新的な築城技術がもたらされています。
石垣の右手には鐘突堂があります。
戊辰戦争時に新政府軍が試し撃ちした弾丸が鐘を貫通したそうで、当時の鐘は公民館にて展示されています。
鐘突堂は元々城内の異なる場所にあったものを、現在の地に移築したそうです。
大手口の枡形の先にはクランクした階段があります。
この場所は石垣に囲まれた枡形の空間になっており、石垣が良好に残っています。猪苗代城の見どころの一つです。
階段を登ると三本杉井戸があります。
石で積まれた井戸で、猪苗代城には他にも南帯曲輪に空井戸が残っています。
三本杉井戸の前には先ほど下から見た鐘突堂があります。
階段はさらに続きます。
右側が三本杉井戸と鐘突堂、左側は急な縁になっており、上には帯郭が展開されています。
階段から振り返っての一枚。
急な階段の右脇には銅丸という帯郭が展開されています。
現在は立入禁止となっています。
階段を登ると二手に道が分かれます。
本来は階段を登った先に石垣があるのですが、現在は土のうとシートによって保護されています。
通行の規制も行われています。
築城当時の野面積みと、修築によって江戸中期頃の打込接、さらに鏡石が2つ積まれているようですが、孕み出して崩落の危険性があることから、土のうで応急処置が施されています。
令和2年に設置されてから6年もこの状態というのも心配です。予算の問題か技術的な問題かは不明ですが、いつかこの石垣を見てみたいものです。
石垣の上は本丸で切岸になっており、登ることは不可能なほどの急な崖になっています。
交通規制の為、右側を進むと北帯郭が広がります。一段上の高い場所が本丸。
北帯郭からは猪苗代小学校のグラウンドが広がります。
当時はこの場所は堀となっていました。
北帯郭から見た本丸。
近くで見ると北帯郭と本丸との高低差がを一層感じることができます。
北帯郭を囲む土塁。
続いて北帯郭から切岸脇の細い道から西帯郭に向かいます。
虎口のような通路もあります。
この辺りは先ほどの石垣の近世的な城郭から一変して、中世城郭の雰囲気が満載です。
この細い通路を進むと西帯郭へと繋がります。
西帯郭の土塁。
北側よりも高い土塁となっています。奥に見える平場が西帯郭となります。
西帯郭。左側が本丸となります。
北帯郭よりはコンパクトな平地なので、土塁の高さから見ても西側の防御機能を強く意識した曲輪であったと思われます。
続いて本丸。
土塁が本丸全体を囲んでいます。
本丸は広めの平地となっています。
江戸時代には城代が置かれて機能していたので、御殿などがあったのでしょうか。
土塁に雁木のような石積みも確認できます。
本丸から一段下がると二ノ郭があり、野口英世の銅像があります。
ちなみに野口英世は猪苗代氏の子孫で、幼少時代には猪苗代城(亀ヶ城公園)で遊んでいたようです。
二ノ郭も土塁で囲まれています。写真を撮った階段あたりには黒門がありました。
門の形状等は分かっていないようです。
二ノ郭には櫓門が建っており、石垣が残っています。
櫓門跡の前は枡形になっています。
大手から本丸に直結する門なので、防御力と格式が高かったのだろうと想像できます。
櫓門跡から下を眺めると大手櫓門階段があります。
下は最初に登城した際に通行止めになっていた道と繋がります。
櫓門の土台となる石垣。
反対側も櫓台の石垣が残っています。
アジサイで見えにくいのですが、綺麗に加工された算木積みの隅石が確認できます。
大手枡形は自然石を使った野面積みでしたが、主郭部はより近世的な積み方となっています。
櫓門跡には礎石のような石も残っていました。
櫓台から見た大手櫓門跡。
この角度で櫓型の門が建っていました。
猪苗代城は幕末まで建物も残っていましたが、戊辰戦争で会津藩と新撰組が母成峠を新政府軍に突破されると、この猪苗代城に退却しました。
新政府軍に城を利用されるのを防ぐために、焼き払ってから会津若松城へと退却した為に、建築物は全て焼失してしまいました。
大手櫓門の反対側となる西側には四脚門跡があります。
二ノ郭にはこの東西の2ヶ所に門が設けられており、こちらが裏側の搦手となります。
下から見た四脚門跡。
四脚門跡の脇には隅櫓の石垣が残っています。
加工された石を使った打込接で、アール形状になっています。
本丸の上には隅櫓の石垣、左の坂道を上ると西帯郭へと繋がります。見た感じは完全に中世城郭ですが、随所に見ることのできる近世的な技術。
コンパクトな城ながら、見どころが多くて面白い城です!
南帯郭も北側と同様に広めの平地となっています。
正面には本丸が聳えています。
別名亀ヶ城と呼ばれていますが、確かにこの角度から見ると本丸は亀のように見えます。
猪苗代城がある山自体も亀のような形状をしています。
本城となる会津若松城の別名は鶴ヶ城、さらに猪苗代城と隣り合わせで連立している城は鶴峰城なので、鶴と亀という民謡を表したようなネーミングです。
南帯郭から見た景色。
朝から雨が降っていたので空は曇りですが、奥には猪苗代湖が広がります。
猪苗代湖は日本で4番目に大きな湖で、田園風景と重なり今も昔もあまり変わらない姿を見ることができます。
南帯郭から見た本丸と搦手の隅櫓石垣。
隅櫓が突き出しているので、なんとなく亀の頭に見えます。
南帯郭から下山して、麓にある猪苗代町図書歴史情報館の方へ向かいます。
左側が南帯郭。削り落としたような急な崖になっているのが分かります。
猪苗代城は全体的にこのような急な斜面で曲輪が形成されています。
下から見た主郭部。
戦国時代であればかなり防御力が高い城だったと感じます。
南帯郭から麓に下りると旧山内家住宅が移築されています。
会津藩制の時代の村役人の農家住宅となります。
注目はこの住宅の前にある図書歴史情報館の裏側!
斜面を登ると空堀が隠れています!
左側が南帯郭となります。
空堀の堀底も歩いてみます。
深さが10mは超えていそうな、迫力ある空堀です。南側は完全にこの堀で防御されています。
土塁の上からのショット。
反対側が南帯郭で、台地を切り裂いたような空堀です。
南帯郭からもこの空堀を見下ろすことができるのですが、この時期は草木が多いので上からは見えにくいので、図書歴史情報館の裏手の土塁から撮影。
堀の深さが伝わる良い写真が撮れました。
空堀の土塁を図書歴史情報館から見るとこのような形で、写真の通りとても高く鋭い斜面となっています。
この裏に先ほど歩いた空堀があります。
整備された亀ヶ城公園内を歩いて、西側から再び城内を目指します。
右側に見える建物は旧山内家住宅。
住宅の裏側の整備された水路は、当時の堀跡を生かして整備されたように思えます。
なんとなく地形の形状が横堀に見えます。
城郭西側から細路地に入ると、ほのぼのとした公園の雰囲気から一変して、緊張感の漂う城郭へと切り替わります。
山の尾根を分断する堀切で、右側が猪苗代城で左側が鶴峰城です。
近くで見るとダイナミックな堀切で、これは良い写真が撮れました。
文献によると鶴峰城は猪苗代氏代々の隠居城となっていたようです。
猪苗代城は近世城郭として改修されましたが、鶴峰城は手が加えられなかった為、今でも戦国期の遺構が残っています。
今回は猪苗代城のみを徹底して見てまわったので、鶴峰城は次回改めて訪城したいと思います。
堀切の裏側には空堀があるようなので向かいます。
スタジアムのように高くアールを描いた土の壁に囲まれています。
こちらが西側の空堀。
南側の空堀に比べて距離があり、堀底も広いのが特徴。
左側が公園側で右側は西帯郭。
訪城前に想像していたよりも、はるかに遺構が残っており、ひとつひとつのスケールが大きいです。
横から土塁形状を見てみます。
戊辰戦争で建物が焼失して廃城になった後は、猪苗代城は荒廃していたそうです。
明治38年に町内の有志によって、桜やツツジを植樹して公園として整備されました。
明治に全国の城がことごとく破却されていく中で、猪苗代城は焼失して城の役目が既に終わっていたからでしょうか。城郭形状がそのままの状態で現在まで残っているように感じます。
堀が深すぎて写真に映りきらないので、西帯郭側を見上げたショット。
この高さある急斜面の上に、西帯郭が展開されています。
序盤に周った時に、西帯郭の土塁が他の郭に比べて一際高いと思っていましたが、結果的に下から見るとこのように高い土の防壁となっています。
北帯郭と西帯郭にある虎口に戻り、これで現在整備された猪苗代城を一周しました。
時間は約2時間ほど。
過去一番に早い時間帯での登城でしたが、当然ながら誰もいなかったので猪苗代城を独り占めしました。
予想を超える満足度を得ることができました。
室町時代に築城された城が幕末まで残り、現代に至るまで綺麗に残っている城は珍しいです。
全国には2万から3万の城があったと言われています。長い歴史の中で、戦によって落城して廃城、一国一城令、明治の廃城令、空襲、市街地化による消滅、様々な事由によって城は姿を消してしまいました。
その中で、全てを乗り越えて残存していることが、いかに貴重であるかを改めて感じることになりました。
この城を守り続けた地元の有志の方や自治体には感謝です。
名城の会津若松城からも近いので、訪城の価値は十分高い城でした。
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