白河小峰城【日本100名城】

JR白河駅の北方約500mに本丸が位置する近世城郭です。阿武隈川の南側に東西に延びる独立丘陵と、丘陵の南方に広がる段丘上を利用して築城されており、東北地方では珍しい総石垣の城として人気があります。

戊辰戦争の際に焼失した御三階櫓は、1991年(平成3年)に復元されました。

白河小峰城の見どころ

歴史ポイント

翌慶応4年(1868年)、白河小峰城は戊辰戦争で奥羽越列藩同盟軍と新政府軍との激しい攻防の舞台となりました。
白河を防衛の生命線と考えた会津藩が進軍し、奥羽越藩列藩同盟を構成する仙台藩、棚倉藩等も集結し、新政府軍を撃退するなどして戦闘状態に入りました。
新政府軍は5月1日、激戦の末に白河藩を奪還しますが、7月中旬まで約100日間、白河をめぐり激しい争奪戦を繰り広げました。およそ100日間にわたる白河口の戦いにおける死傷者数は1,000人以上と言われています。この戦いで白河小峰城は大半を焼失し落城しました(白河口の戦い)

遺構ポイント


東北地方では貴重な石垣の城で会津若松城・盛岡城と並ぶ東北3名城の白河小峰城。
様々な石垣の積み方を確認でき、特に円を描くように積まれた、同心半円落し積みと呼ばれる石垣は見逃すことができません。
本丸の下に設けられた帯曲輪と北側外堀から見る姿は、東北産名城3名城の名に相応しい壮大な石垣を見ることができます。

さらに、城のシンボルとなる三階櫓と前御門が木造で復元されており、かつての姿が蘇っています。現在、清水門も復元工事中なので、注目度の高い城です。

白河小峰城 城めぐり

同心半円型 石垣

白河小峰城 城めぐり

木造復元天守

白河小峰城 城めぐり

前御門

白河小峰城 城めぐり

桜之門跡

白河小峰城 城めぐり

三重櫓

白河小峰城 城めぐり

雪見櫓跡

白河小峰城 城めぐり

富士見櫓

白河小峰城 城めぐり

本丸土塁

白河小峰城 城めぐり

外堀

白河小峰城 城めぐり

和党門

白河小峰城 城めぐり

水懸口

白河小峰城 城めぐり

搦手門石垣

白河小峰城 城めぐり

帯曲輪門跡

白河小峰城 城めぐり

矢之門跡

白河小峰城カルテ

■攻略のレーダーチャート(ポイント)

ポイント

  • JR白河駅の目の前が城跡で、東北新幹線「新白河駅」から白河駅まで1駅なのでアクセスが良好
  • 城内には歴史館が併設されており、遺構の説明やパンフレットも充実。三重櫓や城門が復元されているので、整備のポイントが高い
  • 戊辰戦争で焼失したので現存建築はないが、本丸と帯曲輪の石垣は素晴らしい
  • 本丸を中心としたエリア以外は市街地化しており、範囲が狭いので整備範囲は狭い

平均:71/100 ポイント
合計:425/600 ポイント
おススメ度:★★★★★☆

見どころバロメーター

■福島県 主要城郭との比較(ポイント)

※全ての城にそれぞれの魅力があります。当サイト独自のデータになります。

写真でめぐる お城ツアー

名城スタンプと御城印

※スタンプ設置場所や御城印販売所の場所、営業時間は最新情報をご確認ください。
日本100名城スタンプ
・小峰城三重櫓
・小峰城歴史館
・二ノ丸茶屋(小峰城内)
・JR白河駅観光案内所

御城印販売
・二ノ丸茶屋(白河小峰城内)で購入

白河小峰城周辺の天気

別名小峰城、白河城
城郭構造梯郭式平山城
天守構造三重櫓(複合式層塔型3重3階 1632年築・1991年木造復元)
築城主結城親朝
築城年興国元年/暦応3年(1340年)
主な改修者丹羽長重
主な城主白河結城氏、蒲生氏、丹羽氏
松平氏、阿部氏他
廃城年明治4年(1871年)
遺構石垣、土塁、堀
指定文化財国の史跡
再建造物三重櫓・太鼓櫓・門

写真で見る白河小峰城

前御門と御三階櫓
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前御門と御三階櫓
前御門と御三階櫓
本丸跡
御三階櫓内部
御三階櫓内部
桜御門跡
高石垣
同心半円型 落し積み石垣
高石垣
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マップ

アクセス

公共交通機関
・JR東北本線「白河駅」徒歩約10分
・JR東北新幹線・東北本線「新白河駅」徒歩約40分

車・バイク
・東北自動車道「白河中央スマートIC」から約10分

駐車場
・無料駐車場有り(約100台)

白河小峰城について

阿武隈川と谷津田川の間に位置する、小峰ヶ岡という丘陵にあった平山城である。東北地方では珍しい総石垣造りの城で、盛岡城、若松城と共に「東北三名城」の1つにも数えられている。

本丸と二の丸の一部が残っており、周辺は城山公園として整備され、公園内には結城氏や阿部氏に関する資料を展示した「白河集古苑」がある。本丸帯廓の北側には白河バラ園があったが、東日本大震災による本丸石垣崩落の復旧工事に伴い廃止となった。

縄張りは梯郭式で、阿武隈川を背にした北端に本丸が位置し、本丸の南に二の丸、三の丸と広がっている。また本丸は周囲を帯廓および竹之丸で囲んでいる。二の丸までは総石垣で固められていたが、三の丸からは一部が土塁となっていた。

戊辰戦争でほとんどの建物が焼失し、城址には石垣が残るのみとなっていたが、1991年に本丸御三階櫓が木造により復元された。現在各地の城址で進められている、発掘調査や、図面、古写真等の資料に基づく木造による復元の嚆矢とされている。

2011年3月11日に発生した東日本大震災により石垣等が崩壊したため、三重櫓も含め本丸は立入禁止となっていたが、2015年4月19日に小峰城復興式が開催され復興式終了後に入城可能となった。

2020年、白河市は本丸正面にあった清水門の木造復元を目指し、「小峰城一石城主」プロジェクトを立ち上げた。当初2024年度の完成を目標としていたが、白河市によれば2023年10月20日付で国の復元許可が下りた事から、2024年1月着工2025年度末完成を目指すとしている。

白河小峰城の歴史

近代以前

白河小峰城は南北朝時代の興国元年/暦応3年(1340年)に結城親朝が小峰ヶ岡に築城して小峰城と名づけたのが始まりとされる。 この当時は、現在の本丸と三の丸北端の丘陵部が城域で、現在の二の丸付近を阿武隈川が流れており、川に挟まれた細長い丘の上の城だった。

天正18年(1590年)、城主の白河結城氏が豊臣秀吉の奥州仕置により改易されるとこの地は会津領となり、蒲生氏、続いて上杉氏、再度蒲生氏が支配したが、寛永4年(1627年)に丹羽長重が10万石で棚倉城(福島県棚倉町)から移封されると、幕命により寛永6年(1629年)より城郭の大改築に着手、3年の歳月を費やして寛永9年(1632年)に完成した

この際に阿武隈川は城の北の流れを本流とし、南の河床は埋め立てて二の丸、三の丸が築かれた。また、竹之丸東側の堀切を拡大して本丸を丘陵から切り離し現在の縄張りとなっている。後には、城の西側で南に大きく蛇行していた阿武隈川の流れを北につけかえ、埋め立てた跡地には町屋が形成された。会津藩の出身者が多く住んだ事から、会津町の名が今に残っている。

その後丹羽氏、榊原氏、本多氏、奥平松平氏、越前松平氏、久松松平氏、阿部氏と7家21代の城主の交代があったが、慶応3年(1867年)に最後の阿部氏が棚倉藩に移封された後、白河藩は幕領となり城郭は二本松藩丹羽氏の預かるところとなる

翌慶応4年(1868年)、白河小峰城は戊辰戦争で奥羽越列藩同盟軍と新政府軍との激しい攻防の舞台となり、5月1日、大半を焼失し落城した(白河口の戦い)。

近現代

1873年(明治6年)1月14日の廃城令では存城処分とされた。城跡には曲輪・土塁・石垣・水堀を残すのみだった。1887年(明治20年)、三の丸に東北本線が敷設され、鉄道駅が設置された。城郭の多くは民間へ払い下げられ、本丸を中心とした部分は陸軍省の所管となった後、1893年(明治27年)に白河町に払い下げられた。

二の丸広場は白河町の公園広場として用いられた後、1952年(昭和27年)には「白河市営城山球場」として野球場が整備され、高さ10m・幅50mほどの石垣がバックスクリーンとして用いられた。1956年(昭和31年)にはセ・リーグ公式戦が1試合・その他2軍戦4試合が行われ野球のほか馬の競り市「白河馬市」や競輪も開催された。

その後、史跡公園としての整備方針に伴い、1987年(昭和62年)に球場施設を撤去した上で、「白河城御櫓絵図」(文化5年(1808年)成立)に基づく、1991年(平成3年)に本丸跡に三重櫓(天守に相当)が、1994年(平成6年)に前御門が、それぞれ復元された。

2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(13番)に選定された。

白河小峰城の構造

本丸には、御三階櫓、本丸御殿、前御門・櫻門と2箇所に櫓門があり、御三階櫓は1632年(寛永9年)に建てられた複合式層塔型3重3階の櫓で、当時は「三重御櫓」と呼ばれた実質的な天守であった。

石垣上端に余裕を持たせ、付櫓や2階に出窓を付けた姿は、若松城天守に共通する。黒漆塗りの下見板張りで、風雨にさらされることを考慮して、窓を小さく開いている。この三重櫓は1868年(慶応4年)に起こった戊辰戦争によって焼失した。現在の御三階櫓は、1991年に復元された物である。

復元天守について

復元天守は昭和期に多数造られたが、それらはみな鉄筋コンクリート造で、外観のみ元に復したもの(外観復元)であった。これに対して、白河城の三重櫓は木造復元された城郭建築のうち、天守に相当する建物の復元では最初のもので、現在でも数少ない木造復元天守の1つである。戊辰戦争の激戦地となった松並稲荷山の杉を使って復元をしており、中に入り柱をみると弾傷が確認できる。御三階櫓、本丸御殿、櫓、門、土塀といった建造物に関する資料は江戸時代の「白河城御櫓絵図」、「本丸御殿絵図」が残されている。

屋根は、雨漏り、腐朽を防ぐため、葺土を用いない引掛桟瓦葺工法を使用している。瓦の文様は、松平定信の家紋である梅鉢である。石垣はさまざまな大きさの石を積んだ乱積を用いている。石は地場産の白河石で、火に弱く、火災による劣化が見られる。

日本国内では、大規模な木造建築は建築基準法で原則禁止されているが、白河城では人の立ち入りを想定しない工作物として建築許可を得たのち、完成後に見学者を内部に入れるよう変更した。これは一種の「脱法行為」であるとの観点から問題となったが、後に問題なく立ち入れるようになった。

白河小峰城 周辺スポット

南湖

12代白河藩主・松平定信が「大沼」と呼ばれていた湿地帯に堤を作って水を貯め、庭園の要素を取り入れて享和元年(1801)に築造されました。
当初は単に「南湖」と称されました。南湖の名は、中国唐時代の詩人李白が洞庭湖に詠んだ詩「南湖秋水夜無煙」から、また「小峰城」の南に位置することから名づけられたと伝えられます。
定信は、武士も庶民も共に楽しむことができる「士民共楽」という理念のもと南湖を築造しました。

石都々古和気神社

石都々古和気神社は、延喜式内社の一つに数えられる古社で、古くから山岳信仰の聖地として、多くの方々に信崇敬されていました。
全国的にも数少ない祭祀遺跡の跡地として、考古学的にも大変重要な遺跡といわれています。
約一万年位前から信仰されており、多くの磐境が山々に点在していて、屏風岩、船形岩、鏡岩、亀石、天狗石、石門、更には三種の神器と言われる剣、玉、鏡等があります。

南湖神社

南湖公園内にある白河藩主・松平定信公を祀る神社で、大正11年に渋沢栄一翁の援助のもと建立されました。境内には定信公の遺品や渋沢翁の書を収めた「南湖神社宝物館」があります。
また、境内に立つベニシダレザクラ「楽翁桜(らくおうざくら)」は定信公が南湖を築造した際に植えたものといわれ、樹齢約200年と推定されます。名前は定信公の号から取られたもので、紅色が濃く、小さい可憐な花をたくさん咲かせます。

白河小峰城 周辺宿泊施設

白河小峰城 周辺グルメ

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