医王寺山城(いおうじやまじょう)は、愛知県新城市長篠にある、天正3年(1575年)の長篠の戦いの際に武田勝頼が築いた陣城で、長篠城の攻防戦で武田勝頼が本陣を置きました。一般的には医王寺山武田勝頼陣所とも呼ばれます。
山頂部には物見櫓が建てられており、当時 武田勝頼が見たであろう景色を見ることができます。
お城ニュース ※外部リンク
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医王寺山城の見どころ

土橋

馬出

本丸跡

竪堀
医王寺山城カルテ
■攻略のレーダーチャート(ポイント)
■ポイント
- 長篠城の攻防戦で武田勝頼が築城し、本陣を置いた城なので歴史ポイントは高い
- 長篠城から城の麓の医王寺までは歩いて15分ほど。長篠駅から歩いて30分ほどで行ける距離にある
- 遺構は土橋や竪堀が残っており、主郭部には物見櫓も建てられており、綺麗に整備されている。陣城だったこともあり範囲は狭い
平均:63/100 ポイント
合計:380/600 ポイント
おススメ度:★★★★☆☆
■見どころバロメーター
■愛知県 主要城郭との比較(ポイント)
※全ての城にそれぞれの魅力があります。当サイト独自のデータになります。

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医王寺山城の御城印
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御城印販売
■長篠城址史跡保存館 ※長篠城内
営業時間:9:00~17:00
定休日:火曜日

医王寺山城 周辺の天気
| 別名 | 武田勝頼陣所 |
|---|---|
| 城郭構造 | 陣城 |
| 天守構造 | – |
| 築城主 | 武田勝頼 |
| 築城年 | 天正3年(1575年) |
| 主な改修者 | – |
| 主な城主 | 武田勝頼 |
| 廃城年 | 天正3年(1575年) |
| 遺構 | 土橋・曲輪・竪堀 |
| 指定文化財 | なし |
| 再建造物 | 物見櫓 |
写真で見る医王寺山城
マップ
アクセス
■公共交通機関
・JR飯田線「長篠城駅」徒歩30分
■車・バイク
・新東名「新城IC」約10分
■駐車場
・無料専用駐車場あり
医王寺山城の歴史
医王寺山城は天正3年(1575年)の長篠・設楽原の戦いの際に武田勝頼によって築かれた陣城です。
長篠城の攻防戦で武田勝頼は長篠城を包囲する形で砦を築きました。そして標高120mの医王寺の裏山に医王寺山城を築いて本陣を置きました。
医王寺山城は丘陵の先端部にあたり、約600m南へ離れた位置に長篠城がある。長篠城へ睨みを効かせつつ、武田軍の各陣を眺望できることから戦況を一望していたと考えられます。
「三河日記」では武田軍の長篠包囲において本軍の武田勝頼らは医王寺山に3000人、後軍の医王寺山後方に2000人が陣を配置したと記されています。
山麓には医王寺があり、境内には「武田勝頼公本陣跡」の石碑が建っています。
長篠・設楽原の戦いの出撃前夜、武田勝頼公の夢枕に葦の精が老人の姿となって現われ、勝頼を諫め戦を避けるようにと勧めましたが、勝頼はこれを無礼とし太刀にて老人の腕を切り落としました。翌朝、境内の弥陀が池を見ると、茂っていた葦が全て片葉になっていたということです。境内の弥陀が池にはそんな伝説のある「片葉の葦」が生えています。
医王寺山城の構造
医王寺山城の曲輪は標高120mの丘陵頂部にあり、東西方向に3つの曲輪が直線的に連なっています。
山頂は掛田勝頼が本陣を置いた場所とされ、周囲の曲輪よりも高い場所にあり長篠城一帯を見ることができます。
前後の曲輪は土橋で接続されており、馬出の役割があったように思えます。
北側の土橋の脇は傾斜のきつい大きな竪堀が形成されています。
範囲は狭いものの、全体が切岸で防備されており切り立った形状をしています。
医王寺山城の前方には天神山陣地と大通寺山陣地があり、連携して長篠城を包囲しつつも武田勝頼の本陣を守備しています。
医王寺山城 周辺スポット
天神山陣地跡
天正3年の長篠・設楽原の戦いにおいて、一条信龍、土屋昌次、真田信綱、真田昌輝らが2,000人の兵を率いて陣を構えて布陣しました。
陣地跡に建つ荏柄天神社は、江戸時代の元禄11年(1698年)、旗本一色氏が旧領(下総国(千葉県))からこの地に移したもので、参道の石段123段の内、88段は下総国から運んだものといわれている。
大通寺山陣地
大通寺山陣所は、長篠城の本丸、巴城郭、瓢郭を眼下に見下ろす丘にあって、天正3年(1575)の長篠の戦いの時、武田軍の馬場信房、武田信豊、小山田昌行らが陣を置いた所である。
織田・徳川連合軍の来襲を受け医王寺山本陣で開かれた軍議において設楽原に出撃と決した時、馬場信房、山形昌景、内藤昌豊、土屋昌次ら四名の諸将は討死を覚悟してこの寺の清水の湧出井戸で、馬柄杓で別れの水杯を交わし出陣して行った。その後、盃井戸と呼ばれている。
牛渕橋
宇連川と豊川が合流する場所に架けられている。鳥居強右衛門が岡崎城に援軍を要請しに行く際、長篠城は武田軍に包囲されていたため、この辺りから川に潜り、武田軍の目をくらまし包囲網を突破したとされている。
長篠城のビューポイントにもなっています。
設楽原決戦場
日本三大決戦の一つとされる長篠・設楽原の戦いは、初めて新兵器鉄砲(火縄銃)を大量に使用し、その威力をまざまざと見せつけ、後の戦術に一大変革をもたらした日本史に残る著名な戦いです。
設楽原決戦場まつりは、「設楽原をまもる会」が中心となって、毎年7月に戦死者の供養、鉄砲隊の演武などが行われます。
徳川家康本陣跡
天正3年5月1日、武田勝頼軍は長篠城に攻撃を開始しました。5月15日に、長篠城の落城寸前の知らせを受けた徳川家康は、織田信長とともに設楽原へ出陣し、5月18日に到着して「高松山・八剣高松山、弾正山」などと呼ばれたこの地に本陣を構えたと伝えられています。
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