CASTLE DATA FILE.127
登城日:2026年9月12日
交通手段:JR豊橋駅から車で約60分
ステータス:国指定史跡・日本100名城
ジャンル:平城
遺構:曲輪・土塁・空堀・馬出・土橋
スタンプ:長篠城史跡保存館で押印
御城印:長篠城史跡保存館で購入
撮影:Nikon D750
1万5千の武田の軍勢が完全包囲。僅か500人の兵で守備!
東海地方の遠征初日。
東京から夜行バスで豊橋駅に朝5時半に到着。
レンタカーで約1時間程で1城目に予定していた長篠城に到着です。
長篠・設楽原の戦いで有名な長篠城。1575年の戦国末期に織田・徳川連合軍と武田軍が激突しました。
歴史の転換機となった設楽原の戦いの皮切りとなったのが、長篠城での攻防戦でした。
1万5千の武田軍は、長篠城主 奥平貞昌率いる守備隊を完全包囲。守備隊は僅か500人で籠城戦を展開。
織田・徳川連合軍の援軍が来たことで武田軍は大打撃を受け、武田家は後に滅亡への道を辿ることになります。
長篠城が圧倒的な兵力差で陥落しなかったのは、天然の要害を駆使した城の立地ありました。今回はあらゆる角度から長篠城を周っていきます。

本丸跡の目の前には史跡保存館があります。
御城印や日本100名城スタンプはこちらで入手することができます。
到着が早かった為、まだ閉館中でしたので後ほど内部を観覧します。

史跡保存館の前には早速、内堀が現れます。
豪雨が続いていたので、水が溜まっていますが本来は空堀です。

帯郭と本丸を繋ぐ土橋。
本丸にはこの土橋からのみ入ることができます。

史跡保存館の前が土橋になっており、その前に配置された空間は丸馬出です。

左側が本丸に繋がる土橋。右側の広い空間が馬出で、本丸を守る最後の防衛ラインとなります。
馬出は武田氏の築城術の特徴でもあります。

帯曲輪から見た土橋。
奥の緑色の広場が本丸。土橋の両脇は空堀となり、極度に絞り込まれた土橋は、大軍で攻めることができないので、重要な防衛施設です。

土橋から見た空堀。この堀は長篠城の内堀です。
土塁が高く、本丸側が一際高いので上からの攻撃力を高めています。

長篠城本丸跡。
広めのスペースで長篠城の籠城戦では、この本丸に立て籠って武田軍に応戦しました。

朝早く誰もいない空間を眺めていると、静寂さが逆に当時の合戦を偲ばせます。

城内の看板より、長篠城の縄張りを確認。
ご覧の通り、長篠城は宇連川と豊川の合流地点に位置しているので、天然の要害によって守られています。
また、東側も碁石川が城内を流れており、城の3方向が川によって囲まれているのが分かります。
武田軍の大軍勢に対抗できたのは、この立地を活かした城造りがされていたからです。

本丸土塁。
3方向が川に囲まれた長篠城ですが、唯一囲まれていない北側の弱点を、この高い土塁と深い内堀で補っています。

土塁の上は整備されており、歩くことができます。

土塁の上から見た土橋と馬出。

土塁の先端は城薮稲荷の跡があります。
長篠城の鎮守として伝わっていましたが、指定保存に伴い近くの大通寺に移され祀られています。

土塁から見た内堀。
突き出した土塁が薮城稲荷が建っていた場所となり、見ての通り横矢になっているので、直線的な土塁よりも多方向から攻撃できる設計になっています。

本丸東側。
目の前にはJR飯田線が走っており、長篠城内を貫通して分断しています。

このように目の前を電車が通過します。
線路の反対側が野牛曲輪となります。川が合流する先端部になっており、櫓もあったようです。

本丸南側には鳥居強右衛門が磔となった場所を見ることができます。
完全包囲されながらも、持ち堪えていた長篠城でしたが、兵糧蔵の焼失によって食料を失い、追い詰められました。
そこで65km離れた岡崎城にいる徳川家康に援軍要請をするために、鳥居強右衛門を密使として送りました。
夜に寒狭川を潜って武田軍の包囲から抜け出して戦況を報告。織田信長と徳川家康の軍、3万8千の援軍が来ることを知った鳥居強右衛門は、援軍の知らせを伝えるために長篠城に戻りますが、城の目前で捕らえられました。
城に向かって援軍は来ないと叫べば、命の保証と所領の恩賞という取引を持ちかけられましたが、「援軍はくる。それまで持ち堪えよ」と叫んだことで、磔にされて槍で命を奪われました。
しかし、援軍が来ることを知った長篠城の奥平軍は士気が上がり、援軍が来るまで持ち堪えたと伝わります。

深い谷の底は豊川が流れており、今は木で生い茂っていますが、反対側に鳥居強右衛門は磔にされました。
後ほど反対側も周ります。

本丸西側からは不忍の滝を見ることができます。
落差8mの滝で、この滝の水が碁石川となり本丸西側を守っています。
城内に滝がある城は珍しく、長篠城が天然の地形を駆使している証です。

本丸内堀の脇は駐車場に専用の無料なっており、当時は帯郭でした。

帯曲輪から見た本丸土塁。
突き出した土塁の上には先ほど見た城薮稲荷があります。

本丸土塁は飯田線で分断されており、土塁脇には遮断機の無い歩行用の踏切があります。
踏切側から土塁を見てみたいと思います。

踏切から見た内堀と北側の本丸土塁。

本丸土塁と飯田線の線路。

見ての通り本丸の高い土塁を線路が貫通しています。本来は右側と左側の土塁は繋がっていました。

途切れた土塁。
長篠城の整備された範囲は意外と狭く、史跡保存館の内部を除いて周り切りました。
しかし、長篠城は周囲にも多くの歴史的なスポットがあるので、歩いてまわります。

史跡保存館の裏には堀がありました。
改変されていると思いますが、何となく雰囲気は残っています。

城跡前の257号線沿いに、大手門跡のポイントがあります。

大手門跡から見た長篠城方面。
市街地化によってその姿を見ることはできません。
当時はこの辺りは土塁と堀によって守られていました。

大手門跡付近から見た大通寺方面。
手前側のこんもりとした山には大通寺があり、長篠城の攻防戦では馬場信房、武田信豊、小山田昌行が布陣しました。
大通寺陣地は長篠城本丸の目と鼻の先に位置しており、実際に現地で見てみると城との距離感に緊張感が走ります。
落城一歩手前であることを直に感じます。

長篠城の攻防戦の布陣した地図。
武田勝頼は長篠城の東側に、城から僅か数百mの範囲に5つの砦を築き、完全包囲します。
地図の通り、大通寺山陣地は超近距離です。この包囲で城の開城を狙ったと思われますが、織田信長・徳川家康の連合軍の援軍により戦況が逆転することになります。

続いて地図を見ながら馬場信房公の墓に向かいました。
地図を見ながら行ったのですが、不安になる程の私有地である農道を歩きます。

畑の真ん中にポツンと佇むお墓。
新城市の史跡に指定されています。
馬場信房(信春)は武田氏3代に仕えた武将で、武田四天王の1人。
武田軍の騎馬隊でもあり、多くの戦場で活躍しました。築城の名人としても知られています。

長篠・設楽原の戦いで総崩れとなった武田軍でしたが、最後まで戦線を保っていた馬場隊はしんがりを務めて撤退する武田勝頼を退却させ、迫り来る連合軍と対峙して追撃を阻止。
馬場信春の最後は討ち取られたとも、首を差し出したとも伝わります。
信長公記でも「馬場美濃守手前の働き、比類なし」と評されています。

400年以上もの間、地元の方が大切に守ってきたのだと思われます。

続いて鳥居強右衛門の磔の地に向かいます。
長篠大橋から見た豊川。
この豊川が長篠城の南側を流れており、この深い谷によって守られています。

長篠遺跡に鳥居強右衛門磔の地があります。
ここまで川を渡す橋が2ヶ所しか無いので、かなり大回りをして歩きました。

鳥居強右衛門磔死之石碑。
この武士の行動が歴史を動かすことになります。

今は木が多いので見えませんが、林の下には豊川が流れており、対岸に長篠城本丸があります。

続いて牛渕橋に向かいます。
途中、飯田線の線路から撮った写真。

牛渕橋から見た豊川と高速道路。

反対側には長篠城!
左側が豊川で右側が宇連川となり、合流地点の間に長篠城があります。
ここからの写真は長篠城の定番スポットになっています。
歩くと距離はありますが、それでもここから眺める長篠城は格別なので必見です。

川が深い谷底になっているのでここから攻めるのは困難です。

続いて長篠城駅に向かいます。

長篠城駅の近くにある橋から見た宇連川。
宇連川が長篠城の東側を流れており、天然の要害となっています。

長篠城駅から長篠城へ再び向かうと、搦手門跡があります。

搦手門跡から見た長篠城。

搦手門跡の先には瓢曲輪跡があります。

瓢曲輪に隣接して巴曲輪があり、こちらには土塁らしき遺構が残っています。

巴曲輪跡の前には大通寺がありますので、大通寺山陣地を攻めます。

大通寺は1411年の創建とされており、曹洞宗のお寺です。長篠の戦いの164年前の創建となります。

本堂の脇には長篠城本丸にあった城薮稲荷が鎮座しています。
長篠の戦いの翌年、長篠城は廃城となります。
稲荷だけが残され祀る人がいなくなったことで、怒った「おとら狐」が近くの人たちに取り憑いて、長篠の戦いの話をしたり、周囲を荒らしたりしたという伝説があります。
そこから城薮稲荷は丁重にお祀りされてきました。
本堂の裏には歴史ファンなら必見のスポットがあります。

本堂の裏には水盃の井戸が現存しています。

武田軍の総大将 武田勝頼は長篠の戦いの軍議において、馬場信春ら宿老達の意に反して、設楽原に進軍することを決定しました。
決戦前夜、武田の四将となる馬場信春、山県昌景、内藤昌重、土屋昌次は清水の湧き出るこの井戸で、別れの水盃交わしたと伝わります。
結果論としてはやはり織田・徳川連合軍との正面衝突は避けるべきだったのかもしれませんが、最後は主君の決定を全うするのが武士の魂。
結末は、先ほど見た馬場信房(信春)公の墓の通りです。

水盃の井戸の脇から大通寺山陣地に向かうことができます。

陣地跡への入口を登ると一帯を眺めることができます。
長篠城と、長篠城を包囲した砦が一望できます。
大通寺山陣地は長篠城攻略における最前線の基地ということになります。この陣地に武田軍の猛者を配置したことがその表れです。

登城路は整備されていますが、雨上がりということもあり、やや滑りやすく、さらに蜘蛛の巣が行く手を阻みます。

山頂部の陣地跡。
木が多く生えていますが、山の頂部にしてはかなり広い平地となっています。
この広さであれば多くの兵を駐屯させることができます。
大通寺山陣地には2000人の兵が配置されたと伝わります。

大通寺裏の登城路から陣地跡までは、特に防衛的な遺構を見ることはできませんでしたが、大通寺と反対側の登城路には堀のような掘削された地形などが見られました。

明らかにこちら側は守りを固めているように思えます。
そこまで標高が高くないので、長篠城と併せて攻略できると思います。

最後は長篠城に戻って史跡保存館の内部を見ました。
展示室入口には亀姫屋敷の門が移築されています。
亀姫は徳川家康の長女で、長篠の戦いの翌年に奥平信昌に輿入れしました。
解体保存されていた門が史跡保存館の内部という、珍しいスタンスで移築されています。
長篠城は攻防戦の戦果によって激しく損傷した為、新たに新城(しんしろ)城を築城しました。
亀姫はそこで15年過ごしたとされています。
その他にも貴重な遺物も展示されています、
大通寺山陣地跡を含めて約2時間半ほど周回。
城としての遺構範囲は割と狭く、市街地化も含めてあまり残ってはいません。
長篠城の攻防戦で本丸と二の丸以外は陥落していたとされており、その後すぐに廃城になっているので、これも一つの歴史の爪痕といえます。
周囲には合戦にまつわるスポットも多いので、歴史を感じながら楽しむことができます。
続いて武田勝頼が本陣を置いた医王寺山城に移動します。
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