CASTLE DATA FILE.128
登城日:2026年9月12日
交通手段:長篠城から車で5分
ステータス:新城市指定史跡
ジャンル:陣城
遺構:曲輪・竪堀・土橋
御城印:長篠城史跡保存館で購入
撮影:Nikon D750
長篠城の攻防戦で武田勝頼が本陣を置いた陣所
東海遠征の2城目は愛知県新城市の医王寺山城です。
長篠城からは歩いても行ける距離にある陣城。
長篠の攻防戦で奥平氏が守備する長篠城を完全包囲する為に、武田勝頼を総大将とした武田軍は幾つもの砦を築きました。
医王寺山城は武田勝頼が築き、本陣を置きました。
その後、織田・徳川連合軍の援軍が襲来した為、武田勝頼は近くの設楽原に打って出たことで、運命の長篠・設楽原の戦いを迎えます。

山麓には医王寺があり、お寺の脇から登城口に向かうことができます。

登城口。
医王寺山城は標高120mの丘陵頂部に位置しており、比高は約30mほどです。

登城路は綺麗に整備されています。
かなり急斜に削られています。

振り返ってのショット。
陣城ですが防御力に長けた形状をしています。

医王寺山城は3つの曲輪から構成されており、本曲輪は2つの曲輪よりも高い場所にあります。
階段を登ると東曲輪に繋がります。

東曲輪。

東曲輪と本曲輪は土橋で接続されています。
形状がしっかりと残っており、医王寺山城の見どころのひとつです。

土橋の左側は竪堀のような窪みとなっており、斜面に沿って堀が掘られています。
山頂部は全体的に急な斜面になっています。

土橋の右側は斜度のある竪堀になっています。
この土橋と竪堀の遺構は、城らしさを存分に感じることができます。

振り返った土橋のショット。
土橋の先が東曲輪で、馬出のような機能をもっていると思われます。

土橋から階段を上がると、最頂部の本曲輪となります。
天正3年(1575年)4月、武田軍は大軍を率いて甲斐の国を出発。
4月20日〜5月1日の間に武田軍は4つの軍に分かれ、勝頼は4月下旬に長篠城に包囲網を敷き、この本曲輪に本陣を置きました。
5月8日:包囲を強めて長篠城へ集中攻撃を始める。
5月11日:野牛門方面で攻撃を開始。
5月18日:織田・徳川連合軍が設楽原に陣地を造築。
5月19日:武田本隊は設楽原へ進軍を開始。
5月21日:早朝に馬防柵と大量の鉄砲で待ち構える織田・徳川連合軍に決戦を挑み、戦いは1日で決着がつき武田軍は退却します。

櫓台が建てられており、総大将 武田勝頼が見たであろう景色を楽しむことができます。

櫓台から見た長篠城方面。
高速道路あたりが長篠城です。高速道路の背後に連なった山には、武田軍が5つの砦を築き15000の兵力で完全包囲しました。

長篠城や戦況を一望できる見晴らしの良さ。
右側の山には天神山陣地、左側には先ほど行った大通寺陣地があり、本陣を中心とした包囲網のネットワークが形成されています。

本曲輪から見た西曲輪を繋ぐ土橋。
急な斜面上に土橋が形成されており、両脇は竪堀となっています。

土橋から見た竪堀。
木と草で分かりにくいですが、現地で見るとハッキリと堀が斜面に沿って掘られています。

西側の登城路。
一度山麓まで下り、天神山陣地に向かいます。

医王寺山城と天神山陣地の間には展望台があり、堀切のような切り込みを確認できます。
ここから展望台に向かうことができます。

上から見てみるとかなり深く掘られているのが分かります。
遺構としての解説は特にないのですが、この一帯が陣城だったので、防衛施設のひとつのように感じました。

展望台は草木が生い茂っていますが、曲輪のような平場となっています。

展望台から見た医王寺山城。
武田勝頼本陣の展望台を見ることができます。

展望台から天神山陣地に向かうには一度山麓に下ります。

天神山陣地の登城口。
急な斜面を再び登ります。

天神山陣地の山頂。
この陣所には長篠城の攻防戦で、一条信龍・真田信綱・真田昌輝・土屋昌次ら2000人の兵がが布陣したとされています。
山頂部は大軍を駐屯するには狭いので、山頂部を含めた周囲と山麓に駐屯していたのでしょうか。

山頂部の一段下がった場所に平場があり、電波塔?が建てられています。
ここもあまり広くはないので、当時の曲輪だとすれば防衛のひとつのように感じます。

天神山城から見た医王寺山城。

山麓にある医王寺にも行ってみました。
山門から入ることができます。

医王寺は1514年に創建されました。
長篠の戦いの61年前になります。
長篠城攻略のために背後の山に本陣を置いた武田勝頼は、夢枕に葦の精が老人の姿となって現われ、勝頼を諫め戦を避けるようにと勧めましたが、勝頼はこれを無礼とし太刀にて老人の腕を切り落としました。
翌朝、境内の弥陀が池を見ると、茂っていた葦が全て片葉になっていたという伝説があります。
長篠・設楽原の戦いを避けるべきだったという逸話は多くあります。
それだけこの戦いが武田家、そして歴史を揺るがすものでした。

続いて決戦の舞台となる設楽原古戦場へと向かいます。
長篠城にあった合戦の布陣図。
長篠・設楽原の戦いは、相撲で言えば横綱VS横綱の一戦。布陣の図を見ると両軍がこの戦いで直接対決を覚悟しているのが分かります。
戦国時代の戦は睨み合いや、調略、開城で終わる戦が多い中で、名武将による激しい直接対決だったので、後世にも語り継がれるほどの世紀の一戦となりました。

決戦の地の近くには設楽原歴史資料館があります。

館内には貴重な資料や、あらゆる鉄砲などが展示されています。
織田・徳川軍の鉄砲の数は3000挺、武田軍は500〜1000挺と伝わります。
しかし、鉄砲玉が数百発しか出土していないそうです。
当時の弾薬原料となる亜鉛は日本ではなかなか手に入らず輸入していました。その為、使用された鉄砲玉は回収したと考えられています。

設楽原歴史資料館から見た、決戦の地方面。
輸入に頼っていた弾薬ですが、長篠城の近くにある睦平鉱山では鉛が採れました。
武田勝頼が長篠城を攻略したかったのは、この鉛を手に入れる為の可能性があると、NHKの歴史探偵で見ました。
武田軍は銭貨を溶かして弾薬にしていたことも判明しています。

設楽原歴史資料館の近くの決戦の地には、馬防柵が再現されています。

田んぼの真ん中に単管で組まれた簡易の展望台もあります。

展望台から見た景色。
今は田畑が広がり、静かな時が流れています。

決戦は早朝に始まり、午後2時に武田勝頼は20km離れた田峰城へ向かって退却します。
決戦よりも大将 武田勝頼を逃すための退却戦の方が被害が大きかったようです。
馬場信春をはじめとする、武田家を支えてきた武将も退却戦で命を落としました。そして、この損失はその後の武田家の命運を分けたともいえます。

連合軍は全長2kmに渡って馬防柵を築き、野戦の戦場を城塞化。
最強と云われた武田軍の騎馬隊を、この馬防柵と大量の鉄砲が阻みました。

馬防柵は三重で築かれました。
岡崎や岐阜から兵士1人1本担いできたと伝わります。
武田軍はこの三重の馬防柵をなかなか突破することができませんでした。
山県隊が銃撃に晒されながら防衛戦を突破しましたが、徳川四天王 本多忠勝が突破を阻止。
三方原の戦いで惨敗した徳川軍が、リベンジを果たしたことになります。

長篠城→大通寺陣地→医王寺山城(武田勝頼本陣)→天神山陣地→設楽原古戦を6時間程で周りました。
歴史を辿る濃密な時間でした。
この一帯には陣跡や城跡など、もっと多くの関連するスポットがあります。
続いて、続日本100名城の古宮城に向かいます。
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