岩切城跡は仙台市の北部にあり、仙台市と利府町にまたがる大規模な山城です。中心部の東西約600m、南北約650mの範囲が国史跡に指定されています。
最も高い所で標高約106mあり、七北田川下流域の平野を眺望できる。城跡の中核部分が公園として整備され、そのほかは大部分が山林となっており城跡の各所で堀切が整備されています。
昭和10年(1935)の発掘調査により柱穴が多数発見され、城に関わる建物の存在が明らかになりました。初めて文献に見えるのは、観応2年(1351)岩切城にたてこもる足利尊氏方の奥州管領畠山高国、国氏父子と留守氏を足利直義方の奥州管領吉良貞家が攻め滅ぼした戦いの記載で全国的な内乱であった観応の擾乱(じょうらん)の地として知られます。
戦国時代の留守氏当主は岩切城のある高森山に由来して高森殿とも呼ばれました。留守氏が利府城に移った永禄13年(1570)廃城になったとされています。
岩切城の見どころ

本郭

曲輪群

堀切

ニノ郭
岩切城カルテ
■攻略のレーダーチャート(ポイント)
■ポイント
- 宮城県では珍しい、土橋や堀切など戦国期のスタンダードな遺構を見ることができる
- 伊達政宗の叔父 留守政景の居城で岩切城の戦いの舞台にもなっている
- 最寄りのJR岩切駅からは離れているので、アクセスはやや困難
平均:70/100 ポイント
合計:420/600 ポイント
おススメ度:★★★★☆☆
■見どころバロメーター
■宮城県 主要城郭との比較(ポイント)
※全ての城にそれぞれの魅力があります。当サイト独自のデータになります。

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岩切城の御城印
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岩切城 周辺の天気
| 別名 | 高森城、高森館、鴻の館 |
|---|---|
| 城郭構造 | 山城 |
| 築城主 | 留守氏 |
| 廃城年 | 元亀年間 |
| 遺構 | 曲輪、空堀、堀切 |
写真で見る岩切城
マップ
アクセス
■公共交通機関
・JR東北本線「岩切駅」徒歩30分
■車・バイク
・仙台駅から利府街道経由で約25分
※無料駐車場あり
岩切城の歴史
岩切は陸奥国府・多賀城から西に約4kmに位置し、七北田川と奥大道とが交差する陸奥国の交通の要衝である。古代の岩切には多数の市場ができ、東北地方最大の商業地域となった。
南北朝時代の初期、後醍醐天皇が皇子・義良親王(後の後村上天皇)を陸奥守、北畠顕家らとともに陸奥国府・多賀城へ派遣すると、多賀城に陸奥将軍府が樹立された。
東北武士の代表者は伊達行朝と結城宗広である。奥羽軍は京都で北朝方の足利尊氏らと戦い、尊氏を九州へ敗走させた。
さらに奥羽軍は、二度目の畿内遠征を敢行した。しかし、このとき、奥州管領の岩切城主・畠山国氏、同じく奥州管領・吉良貞家は、北朝方として多賀城を攻撃し、義良親王一向を多賀城から福島県伊達郡霊山へ追いやった。
ところが、北朝では足利尊氏と弟・足利直義が仲間割れをし、観応の擾乱となった。尊氏方の畠山国氏は直義方の吉良貞家と岩切城合戦を行った。畠山国氏は吉良貞家に敗れ岩切城は落城。畠山国氏は自害して果てた。
一方、弟・足利直義を殺して観応の擾乱に勝利を収めた足利尊氏は、霊山から出撃した奥羽軍の畿内遠征を白河で食い止めると、多賀城を再び攻略した。尊氏は京都を奪回し、後醍醐天皇は吉野へ逃れた。こうして、多賀国府を舞台とした奥羽地方政権は、完全に崩壊した。
なお、後醍醐天皇は死に際し、義良親王に皇位を譲っている。
南北朝時代から室町時代を経て戦国時代にかけての岩切城は、留守氏の居城として知られ、その所領は現在の岩切、利府、多賀城の一帯である。
岩切城はその間、留守氏によって少しずつ整備が進められたものと考えられる。
元亀年間(1570年 – 73年)、留守政景(伊達政景)は居城を利府城に移し、岩切城は廃城となった。
1982年(昭和57年)8月、岩切城跡は国の史跡に指定された。
立地・構造
東西約500メートル、南北約400メートルの天険の地を城域としており、標高106メートルの高森山の尾根を3段ないし4段に削平して中心となる曲輪を設け、峰続きの台地や谷を隔てた丘陵や台地の各所にも曲輪を置いて掘割を造って防御をかためている。
大震災により一部の遺構が崩れたが、現在は復元された。

MEMO
留守政景は伊達政宗の叔父。
岩切城の次に居城とした利府城は、車で15分程度なのでセットで周れます。
岩切城 周辺スポット
東光寺
曹洞宗の東光寺は仙台市宮城野区岩切にあるお寺で、平安時代に慈覚大師円仁が開山したと伝えられ、鎌倉時代には陸奥国留守職に任じられた留守氏の菩提寺です。
境内や周囲にある横穴群・石窟仏群・板碑群・城跡で構成される東光寺遺跡があります。
菅谷横穴墓群
7世紀の初め頃に造られ始めた横穴墓群です。総数は100基とも200基とも言われていますが正確にはわかっていません。
見つかった土器の中には、関東地方や東海地方で作られた土器と同じ特徴を持つ土器も含まれており、全国に広く交流があったものと推測されます。
菅谷の穴薬師

横穴墓の中の一つに壁面を削って磨崖仏(まがいぶつ)が刻まれた箇所があります。この磨崖仏は菅谷の穴薬師と呼ばれ、9世紀頃に慈覚大師によって造立されたと伝えられています。
※近隣には駐車場がないので注意
岩切城 周辺宿泊施設

岩切城 攻城の拠点
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