臼井城

臼井城は臼井氏の居城として知られており、1479年(文明11年)には、太田道灌の率いる上杉方に攻められ、7カ月におよぶ篭城の末に落城したが、道灌の甥の太田資忠らが討ち死にし、現在も臼井城の土塁の上に資忠の墓が残されている。

その後も千葉氏の家臣、原胤貞が城主を務めていた1566年(永禄9年)には、臼井城の戦いにおいて上杉謙信(当時は輝虎)に攻められるなど、何度も合戦の舞台となっている。

1590年(天正18年)、小田原征伐により原氏が滅びたのちは豊臣側に接収され、酒井家次が封じられたが、1604年(慶長9年)、酒井家次の高崎移封に伴い廃城。現在は城址の一部が公園として整備されている。

臼井城の見どころ

■公園として整備されているが、今でも空堀や切岸が残っている。特に二郭を囲む空堀は深くダイナミック
■本郭から見る景色は美しく、印旛沼を一望できる。
■臼井城の支城や出城が近隣に残っており、街全体に遺構が残る。

御城印

※スタンプ設置場所や営業時間は最新情報をご確認ください。

■京成佐倉駅前観光案内所
営業時間:8時30分~17時

臼井城周辺の天気

写真で見る臼井城

臼井城 搦手登城口
previous arrow
next arrow
 
臼井城 搦手登城口
臼井城 土橋
臼井城 本丸空堀
臼井城 本丸切岸
臼井城 本丸からの眺望
previous arrow
next arrow

レポート

歴史・沿革

享徳の乱の折、文明10年(1478年)12月10日の境根原合戦で千葉自胤に敗北した千葉孝胤は、臼井教胤の養子となっていた一族の臼井持胤の守る臼井城に籠城した。
7ヶ月に及ぶ籠城戦の末、文明11年(1479年)7月15日に包囲を緩めた様子を見た城方が打って出て、激戦となり、そして落城したと伝えられる。
その時太田道灌の甥の太田資忠らが討ち死にし、現在も臼井城の土塁の上に太田資忠の墓が残されている。

その後、足利政氏の次男足利義明が小弓城を征圧し小弓公方を自称した際には、臼井城主の臼井景胤は小弓公方側に立ち、千葉孝胤の嫡男勝胤とは立場を異にした。だが天文7年(1538年)10月第一次国府台合戦で足利義明が討ち死にした後は千葉氏の影響下に復した。

永禄4年(1561年)臼井久胤の時、上杉謙信の小田原攻めに呼応した里見勢の上総大多喜城主正木信茂に攻められ臼井城は落城し、久胤は結城城の結城晴朝を頼って脱出、臼井氏は滅亡した。
なお一説によれば、その時城は後見していた久胤の母方の祖父に当たるとされる原胤貞に乗っ取られた状態で、まだ10代だった久胤は軟禁状態にあったともされ、正木信茂の攻撃による混乱を好機ととらえ、原胤貞の娘とされる母とともに城を脱出し結城氏に臣従したとも言われており、結局、臼井城は原氏の手中に収まったとのことである。

永禄9年(1566年)には、上杉謙信と里見義弘に攻められ原胤貞らが臼井城に立て籠り、3月20日には落城寸前となったものの、原胤貞より指揮を受け継いだ軍師・白井浄三の知謀とその指示に基づいた北条氏側の松田康郷らの戦ばたらきにより謙信を大敗させている。

天正2年(1574年)に原胤栄(胤貞の子)は里見勢に生実城を追われたため、その後原氏が臼井城を本拠とする。

戦国時代末期には原氏が城主であったが、天正18年(1590年)の小田原征伐で徳川氏に敗れ、酒井家次が3万石で入封する(臼井藩)。文禄2年(1593年)に城内より出火し灰燼に帰し、その後酒井家次は慶長9年(1604年)12月、上野国高崎藩に加増移封、臼井藩は廃藩となり、臼井城も廃城となった。

室町時代後期以降の戦乱の時代において、後期千葉氏の拠る本佐倉城と比べて歴史的により重要な役割を果たしたが、戦乱の時代が終わり、土井利勝により慶長15年(1610年)に佐倉城が完成するに至ってその役目を終えた。

現在は臼井城址公園として整備されている。

マップ

アクセス

■京成電鉄本線・京成臼井駅から徒歩約15分

■東関東自動車道・佐倉ICから20分

臼井城 周辺スポット

臼井田宿内砦

臼井城は数多くの攻防戦が展開された城であり、戦いの度に弱点が補強されて複数の砦を擁する下総屈指の大城郭へと発展を遂げた。臼井田宿内砦も臼井城の南側を守る砦として造営された。

→マップ

謙信一夜城

謙信一夜城は上杉謙信が原式部大輔胤貞が籠城する臼井城を攻略するために築いた城。現在城址は一夜城公園となっており遺構は残っていないが、公園内に巨大な城址碑が建てられています。

→マップ

臼井城 周辺宿泊施設

臼井城 周辺グルメ

関連ランキング:居酒屋 | 京成臼井駅

関連ランキング:カフェ | 京成臼井駅