大多喜城は徳川四天王の一人で猛将として有名な本多忠勝によって、天正18年(1590)に近世城郭として築城された平山城です。
大永元年(1521年)に真里谷信清が築城したと伝わり、当初は小田喜城(おだきじょう)と呼ばれており、江戸時代には大多喜藩が置かれました。
お城ニュース ※外部リンク
2026年10月2日
第52回大多喜お城まつり開催中止のお知らせ
大多喜城の見どころ

空堀

二の丸虎口

二の丸跡

城下町

二の丸御殿 薬医門

大井戸

天守

大多喜水道
大多喜城カルテ
■攻略のレーダーチャート(ポイント)
■ポイント
- 遺構は少なめですが薬医門が移築され、日本最大級の井戸が残っている。
- いすみ鉄道の大多喜駅からも近くアクセスは良いが、電車本数には限りがある
平均:62/100 ポイント
合計:375/600 ポイント
おススメ度:★★★★☆☆
■見どころバロメーター

MEMO
大井戸と薬医門は大多喜高校の敷地内にあります。自由に入ることができますが、マナー・節度をもった観覧を心がけましょう。
■千葉県 主要城郭との比較(ポイント)
※全ての城にそれぞれの魅力があります。当サイト独自のデータになります。

写真でめぐる お城ツアー
名城スタンプと御城印
※スタンプ設置場所や営業時間は最新情報をご確認ください。
続日本100名城スタンプ設置場所
■いすみ鉄道 大多喜駅前観光本陣
営業時間:9:00~17:00
■町営大多喜城下駐車場内売店(土日祝のみ)
営業時間:10:00~16:00
御城印販売
■いすみ鉄道 大多喜駅前観光本陣
営業時間:9:00~17:00


大多喜城 周辺の天気
| 別名 | 大滝城、大多喜城 |
|---|---|
| 城郭構造 | 連郭式平山城 |
| 天守構造 | なし (層塔型3重3階模擬) |
| 築城主 | 真里谷信清 |
| 築城年 | 大永2年(1521年) |
| 主な改修者 | 本多忠勝、阿部正次 |
| 主な城主 | 真里谷氏、里見氏、本多氏、 阿部正次、青山正俊、阿部正令、 阿部正春、稲垣重富、長沢松平家 |
| 廃城年 | 明治4年(1871年) |
| 遺構 | 土塁、横堀跡、堀切、郭、井戸 |
| 指定文化財 | 千葉県史跡(本丸跡) |
| 再建造物 | 再建天守 |
写真で見る大多喜城
マップ
アクセス
■公共交通機関
・いすみ鉄道「大多喜駅」下車、徒歩約15分
■車・バイク
・圏央道市原鶴舞ICから国道297号で大多喜方面へ約20分
・館山自動車道市原ICから国道297号で大多喜方面へ約50分
■駐車場
・専用無料駐車場あり(80台)
大多喜城の歴史
大永元年(1521年)に真里谷信清が「小田喜城」として築いたのがはじまりとされる。以前は小田喜城は同町内の根古谷城のことであり、今日の大多喜城は徳川家康によって大多喜の地を支配した本多忠勝が築城したものと考えられてきた。
近年の発掘によって現在の城の地下に大規模な城の遺構が遺されていることが明らかとされて、小田喜城と大多喜城とが完全に重なる訳ではない(戦国期には裏山である栗山が城の一部に使われていたが、江戸期には栗山は除かれてやや麓側に縄張りが移動されている)ものの、現在では信清の小田喜城を元にして後の大多喜城が築かれたものと考えられている。
信清の後を継いだ真里谷朝信の代の天文13年(1544年)に、里見氏の武将正木時茂によって真里谷氏は城を奪われて、以後時茂・信茂・憲時の3代にわたって正木氏が支配し、上総国東部支配の拠点とされた。だが、天正9年(1581年)に里見義頼との内紛によって憲時が殺害されると、同城には里見氏の代官が派遣されたという。
天正18年(1590年)、里見氏が惣無事令違反を理由に上総国を没収されると、同国は徳川家康に与えられ、その配下の勇将・本多忠勝が城主となり、大多喜藩10万石が成立した。忠勝は里見氏の北上を防止するために突貫工事を行い、3層4階の天守を持つ近世城郭へと大改築を行い、ふもとに城下町の建設を行った。これが今日の大多喜城である。
以後、この城は大多喜藩の拠点として幕末まで重要な役割を果たしてきたが、元和5年(1619年)9月、藩主阿部正次が拠点を移したことにより大多喜藩は一時的に廃藩となったため、城は荒廃した。寛文11年12月(1672年)、阿部正春が1万6千石で入城した際、幕府から「大多喜城は城跡になってしまっているので、追々再建するように」という命令が下ったものの、「一重の塀もないありさまで、門や櫓などもない」という当時の記録の通り、大多喜藩の規模縮小に伴い、荒廃した状態で長く支配が行われていたようである。
元禄3年(1690年)の幕府隠密の調査記録と思われる『土芥寇讎記』にも、「幕府から大多喜城の再建命令が通達されたにもかかわらず、大多喜藩では命令を履行していない。塀もない状態だ。ましてや門や櫓などあろうはずがない」と記されている。史料が少ないために江戸時代の状態は不明な点も多いが、阿部家以降の城主は多少の増築などは行ったようである。ただし山頂の天守などは荒廃していたようである。
天保13年(1842年)には天守が焼失し、天守の代わりに2層の「神殿」と称する建築が天保15年(1844年)8月に建てられていたと考えられている。
明治3年12月(1871年)に城は取り壊され、その後本丸も削平されたという。その後、昭和41年(1966年)に本丸跡は千葉県の史跡に指定された。
昭和50年(1975年)に城跡に天保6年(1835年)の図面を基にして天守が再建されて、内部には千葉県立総南博物館(現在の千葉県立中央博物館大多喜城分館)が設置された。建物は三層四階建ての天守閣造り(鉄筋コンクリート造り)である。千葉県立中央博物館大多喜城分館については、2021年12月27日から長期休館となる。千葉県と大多喜町は2021年12月9日に施設を町に移譲することで合意しており、将来的に大多喜町の町営博物館に移行する予定である。
2017年(平成29年)4月6日、「続日本100名城」(122番)に選定された。
天守
天保13年(1842年)の天守焼失後、焼失した天守に代えて「神殿」と称する建物が建てられたとされるが、大多喜藩が財政難に苦しんでいた時でもあり、粗末な建築物だったのではないかと、この城を研究した渡邉包夫は考えている。火災があったことに関しては、昭和48年(1973年)の学習院大学の発掘調査でも大量の焼土が発見されたことで裏づけられているが、改築および天守建築を否定する説もある。
小高春雄は改築そのものを否定する日本工業大学の見解を紹介し、やや否定説に傾きつつも、渡邉が発見した大多喜城天守絵図面の存在から完全に否定できないとする、玉虫色の見解を示している。
天守存在説に関しては学界でも論議があり、非実在説もある。非実在説の根拠としては、
- 寛文年間と推定される大多喜城の絵図には、天守が描かれていない。
- 前述の通り、寛文11年の記録には「一重の塀もないありさまで、門や櫓などもない」とある。櫓もないのだから天守もなかったのではないか。
- また、元禄3年の『土芥寇讎記』にも、「塀もない状態、ましてや門や櫓などあろうはずがない」と書かれているということは、この時点でも天守はないのではないか。
- サン・フアン・デ・ウルア要塞守備隊長やフィリピン総督を歴任したドン・ロドリゴが、慶長14年(1609年)にこの城を訪れているが、ドン・ロドリゴの記録『日本見聞録』に天守が登場しない。
- 発掘調査時に天守石垣の痕跡がなかった。
などが挙げられているが、2通りの天守絵図が存在することや、本丸は明治時代に削られたために石垣の痕跡はそもそも見つからないのではないかという反論もあり、現在でも結論に至っていない。このため、この城の再建天守の評価が書籍によって「復元」「復興」「模擬」と分かれている。
大多喜城 周辺スポット
房総の小江戸大多喜
大多喜は、徳川四天王の一人本多忠勝が大多喜城を築城した歴史を持つ町です。
特に城下町の面影を残す久保、桜台、新丁地区には、江戸時代から変わらぬたたずまいを残す建物が点在し、昔を偲ばせています。
粟又の滝
養老川の上流、奥養老渓谷粟又字高滝にかかる滝のことを粟又の滝といい、高滝とも言われています。
高さはおよそ30m。滝の近くには旅館や休憩所もあり、遊歩道もあって滝つぼまで行けます。滝の周辺は春は新緑、秋には紅葉が美しく、あたりの渓谷とよく調和して養老渓谷第一の景観です。
水月寺
臨済宗妙心寺派の禅寺で、至徳元年(1384)開創。享保年間(1720)ごろ、大多喜城主松平氏の要請により、松平氏の菩提寺である大多喜町田丁円照寺の隠居寺となりました。梵鐘は昭和17年太平洋戦争により供出しました。昭和54年再び鋳造したものです。
妙厳寺
永徳2年(1382)真言不動尊宗として開基、往時より郡内最大の修験道場でしたが、文明9年(1477)日朝上人の導きにより時の住僧善敬は日蓮宗に帰依し日章と改め寺号を妙厳寺と改称したと伝えられている。天正11年(1583)2月粟立山城主里見義頼が境内4ヘクタールを寄進して、祖師堂を再建したと伝えられている。慶長8年(1603)「キリシタン禁止の御札」など室町末期から江戸初期の古文書も多く残されています。
大多喜城 周辺宿泊施設

大多喜城 攻城の拠点
千葉県の城を攻める




























