城の役割と時代の変化

日本全国には25,000〜30,000もの城があったと言われています。
そもそも城とは何なのか?
城の始まりは弥生時代。耕地や作物を外敵から守るために、柵や堀で集落を囲んだことから始まります。
いわゆる、環濠集落になります。
人々の生活を守るために、城のベースは生まれたといえますね。
時代は流れて、武士の時代がやってきます。そして、戦国へと繋がります。
戦国時代の城はまさに軍事拠点。
高い山や天然の要害に城を作るようになり、戦うための城へと変わりました。
正確には攻め落とされない為の城。
その為どんどん進化して、堀・堀切・切岸などの軍事要塞としての工夫が進化していきます。

敵から守るため曲輪を分断する堀切【滝山城】

敵を攻め難くするための空堀【滝の城】
ネットや本では中世城郭や中世山城などと言いますね。
中には山全体を要塞化する城も出てきました。
一乗谷城や、七尾城あたりは山全体を城としたことで有名です。
しかし、戦国末期になると城に大革命が起きます。
レボリューションを起こしたのは織田信長。
天下統一に大手をかけた織田信長は、岐阜から滋賀に拠点を移します。
そして幻の城と言われている、安土城が誕生します。
見る者を圧倒するほど高い石垣で形成し、頂上には五重六階 地下一階の高層建築物が建てられました。

安土城 伝羽柴邸跡の石垣
それまで、城の建築物には瓦さえ使われることがなかった中で、金箔で装飾した瓦を使用し、絢爛豪華な城だったと記録が残っています。

安土城 最上部の復元【信長の館にて展示】
織田信長は安土城を、戦うための城という概念に加えて、権力の象徴という新しい役割を担いました。
以降、豊臣秀吉の時代にはこの概念は引き継がれ、総石垣の天守を持つ多くの城が生み出されました。
豊臣秀吉の死後、関ヶ原の合戦の後は、豊臣と徳川の軍事緊張が高まり、各地で築城ラッシュとなります。
城郭建築の最高到達地点は、このあたりの時代ではないかと思います。
江戸時代に入り、城の軍事施設としての役割にも、変化が訪れます。
まず、江戸幕府によって一国一城令が発布されます。
各藩でお城は一つにしましょうと決めたのです。
なぜなら、あくまで城は軍事施設だからです。江戸幕府を安泰なものにする為、城の数を意図的に減らしたのです。
ここで、幾つも城が廃城となり姿を消しました。
やがて、平和な世が訪れたことで、城は軍事的要素よりも、藩の政治の中心地としての役割を担うようになります。
さらに、庭園や御殿、月見櫓など平和の象徴となるものが整備されました。

天守右が月見をするために増築された月見櫓【松本城】

月見櫓内部 廻縁というバルコニーもあります

彦根城の庭園となる、玄宮園と国宝の天守

藩の政庁となった本丸御殿【川越城】
しかし、260年続いた江戸幕府も終わりが近づきます。
戊辰戦争、西南戦争と国内の内乱によって、会津若松城や熊本城などの名城を含めた、いくつかの天守は失われることになります。
また、明治維新によって武士の時代は終わりを告げます。
伴って廃城令によって、城は民間などに払い下げられ、日本のほとんどの城が無くなりました。
しかし、城の文化的価値が見直されいくつかの城は保存されました。
廃城令によってほとんどの城を失い、残った貴重なお城にも危機が訪れます。
陸軍の駐屯地を各地の城に置いていた日本は、空襲の対象になってしまいました。
残念ながら、和歌山城、名古屋城、福山城などは空襲によって天守を消失。
広島城は原爆の爆風で倒壊。
日本には天守を持つ数多くのお城が存在していましたが、現在は江戸時代より前に造られた天守(現存天守)は、全国で12城しかありません。
現存の天守はとても貴重なので、この先も残し続けることが我々の使命だと感じています。
簡単な城の歴史と時代よって城の役割が変わってきたということを書き綴って参りました。
それでは、今の時代の城の役割とは何なのでしょうか。
私は個人的に観光だと考えています。
様々な方が観光で城を訪れる。歴史に触れる。
観光のシンボルとしての役割を、現代の城は担っているのではないかと思います。
私はもっと多くの方に、お城に興味を持って頂きたい。
そのキッカケを提供したいと日々、考えています。