諏訪原城@静岡県

掛川城を9時30分に出て、東海道本線で掛川駅から金谷駅に移動。
二駅乗って約15分ほどで到着します。
東海道本線で巡る城、二城目は静岡県島田市の諏訪原城を目指します。
Googleマップでは金谷駅から歩いて約20分くらいで到着となっていましたが、30分以上は歩きました。
駅から諏訪原城に向かう途中は、かなり急な坂が続きます。
空き家が多い住宅の道をひたすら進みます。
山の上は諏訪原城の出丸跡。
登城ルートが分からずでしたが、下から写真を撮っておきました。
諏訪原城に向かうには、主に二つのルートがあります。
一つは旧東海道を通るルートと、県道島田岡部線を通るルート。
ワタクシはまずこの出丸を目指したので県道島田岡部線のルートで向かいました。
こちらは本丸など主郭の下をグルっと周るルート。
しかし、山道を容赦なく車が飛ばしてくる上に、歩道がないのでかなり注意が必要です。
途中には諏訪原城に向かう細い獣道のようなルートがありますが、まずはパンフレットも欲しいのでスルーして、ガイダンス施設を目指します。
ちなみに、このかなり険しいルートで入城すると本曲輪に直結します。
ガイダンス施設あたりから撮影。
諏訪原城は山々に囲まれていて、ロケーションが素晴らしい。
およそ標高220mまで歩いて登りました。

静岡県らしく、広大な茶畑が広がります。
日本列島には大寒波が到来していましたが、静岡県をチョイスして正解でした。
とても寒かったですが、天気には幸い恵まれました。
ガイダンス施設内では、続100名城スタンプや御城印もこちらで購入することができます。
模型もあるのでイメージを持つことができます。
諏訪原城は見どころが多い中世の山城ですので、ガイダンス施設でパンフレットをもらってから攻城をオススメします。
国の指定史跡で、続100名城にも選ばれています。
武田勝頼が馬場信春に命じて築城しました。
歴史の背景としては既に駿河を抑えた武田勝頼は、徳川領の遠江に進出するための足掛かりとして築城しました。
ちなみに馬場信春は武田四天王の1人で、不敗の名将と称された有力な武将。
長篠の戦いで武田勝頼を退却させるために、殿(しんがり)を務めて戦死。
武田家三代に仕えていました。

ガイダンス施設の脇から主郭を目指します。
裏手すぐには復元された大手南外堀があります。
本来は幅は5m、深さ3.3mの薬研堀で、現在よりも深い堀でした。
大半が茶畑になっている為、全容を見ることはできません。
発掘調査では土塁の形跡が発見されなかったことから、城柵で囲んでいたと考えられています。

大手南外堀の近くには、二の曲輪大手馬出があります。
まずは、この巨大な空堀に衝撃を受けます。
写真の左側が馬出。
一際高くなっており、丸型の馬出なので三日月のような湾曲した堀になっています。
死角が少なく攻撃をしやすいのが特徴。

二の曲輪大手馬出の空堀の先には、外堀と馬出しの空堀に架かる土橋があります。

土橋から見た左側の外堀。
写真の右が二の曲輪となり、土塁を形成しているので、かなりの高さのある空堀となっています。

土橋から見た右側の三日月堀と二の曲輪大手馬出。
正直、諏訪原城は掛川市と近かったので、掛川城に行った後に行きやすい城と思い、セレクトした部分もありました。
しかし、序盤から圧倒的なスケールの空堀を見せられ、二の曲輪南馬出と外堀を見ただけで既に満足度が高いです。

土橋を渡り外堀沿いを歩くと、二の曲輪に繋がる新たな土橋に接続されます。
かなり分かりやすい土橋の形状。

土橋から見た右側の外堀は、より一層深さがあり、恐怖を感じるほどの見事な空堀が永遠に続きます。

こちらは土橋から見た左側の外堀。
写真の左がワタクシが歩いてきた二の曲輪南馬出、右が二の曲輪。
渡って振り返っての土橋を撮影。
傑作といえる程、美しく整った土橋。

二の曲輪南馬出と外堀に架けられた土橋。
城の南西端に位置する小規模な馬出。
南馬出の右側は巨大な空堀。
最初に周った二の曲輪大手馬出と横並びになっているので、かなり防御力が高い造りになっています。

左側の空堀。
小さな曲輪でありますが、曲輪内部の貼り床面直上で27点の鉄砲玉が集中して出土したことを考えると、小さな曲輪ながら幾度も戦をした諏訪原城において重要な曲輪だった可能性があります。

こちらは先ほどよりも、大きめの二の曲輪東内馬出。
城の南東側は三つの小規模な馬出が連なって配置されています。
東海道に沿うように馬出を連続させているのがポイント。
また興味深いのは、二の曲輪との境となる堀は、武田氏時代にはV字の薬研堀でしたが、後の徳川時代に箱堀に改修されたことが発掘調査で明らかになっています。
二の曲輪南馬出と横に並んで、二の曲輪東馬出があります。
密集した全ての馬出が、非常に深い堀で分断されつつ土橋で繋がれているので、巧妙で複雑な配置となっています。

曲輪入口には門と思われる礎石が発見されており、やはり武田氏時代の鉄砲玉も出土しています。
調査で空堀の幅9.3m、深さ6.7mと判明し、最南端を防備するには十分な軍事拠点といえます。
来た道を戻り、城の中央〜北側を目指します。

大手北外堀。
諏訪原城大地側全面に突き出していて、先ほどの空堀に比べると、やや迫力に欠けますが、発掘調査で大手北外堀は幅5m、深さ6mの立派な空堀であったことが判明しています。
諏訪原城といえば、二の曲輪中馬出が代名詞です。
日本に幾つもある丸馬出の中で、最大級となるのがこの諏訪原城の二の曲輪中馬出になります。
本当に見事な三日月堀!
二の曲輪中馬出は本曲輪へ向かう二の曲輪の虎口前に配置。
この先には絶対に進ませないと意気込みを感じる強力な造り。
生と死をかけた当時の防御システムは、現在はアートとして人々を魅了し続けます。

三日月堀は二の曲輪北馬出に繋がります。
素晴らしい遺構の保存状態。
諏訪原城全体が、木を綺麗に伐採して整備されているので、より本来の姿に近い形で見ることができます。
中馬出から北馬出に繋がりますが、北側の空堀はV字の薬研堀。
発掘調査で礎石が確認されたことで、二の曲輪北馬出には薬医門が復元されています。

二の曲輪の土橋。
その先には発掘調査で虎口跡が発見されています。

土橋から見た左側、北の外堀。
草が生えていてハッキリとは見えませんが、規模が大きい空堀です。
右側が二の曲輪で、土塁で囲んでいるため、かなり高さのある空堀となっています。
この外堀と二の曲輪中馬出は、完全に二の曲輪を防備しており、この城が軍事施設であることを最も感じるポイント。
二の曲輪には広大な敷地が広がります。
二の曲輪の次はいよいよ本曲輪なので、外側は土塁で防備し中央部には曲輪を仕切る土塁があります。

二の曲輪と本曲輪も土橋で繋がっており、本曲輪は内堀と土塁で囲まれています。
土橋から見た左側の内堀。
二の曲輪と本曲輪を分断する空堀。
どこを見てもスケールの大きい空堀を見ることができます。
土橋から見た右側、二の曲輪との本曲輪の空堀。左側が本曲輪となり、二の曲輪よりも高低差が大きいのが分かります。
二の曲輪を突破されたされた場合、最後は本曲輪のこの空堀から迎撃するので、攻撃しやすいように本曲輪だけ土塁で二の曲輪よりも高くしています。

土橋を渡り切ると本曲輪虎口跡があります。
中世のお墓の一部を門の礎石の根固めに使用されているのが発見されました。

逆光で見えにくいですが、本曲輪の石積みの通路跡。
丸型の石材が積まれていて区画されています。

本曲輪は断崖絶壁。
下に少しだけ見えている道路は、最初に歩いて登ってきた県道島田岡部線。
ここから攻めるのは不可能。
木は死角になるので当時は生えていなかったことを考えると、「攻めるに難く守るに容易い」という戦国中世城郭のセオリーそのままを感じます。
本曲輪からは手に取るように敵の動きが丸見えです。

本曲輪 東側からの絶景。
左側には富士山が綺麗に見えます。
奥には大井川、街を一望できる素晴らしい景色に、興奮していた気持ちが一度落ち着き、しばらく静かに眺めていました。

しかし、絶景のロケーションを眺めた下は、写真のように切岸となっていて、急斜面に切り落とされています。
落ち着いた気持ちも再び沸騰!

本曲輪から内堀の底に降りることができます。
内堀にはカンカン井戸があり、石積みの井戸跡が残ります。
今は埋まって浅くなっていますが、以前はかなり深い井戸だったらしく、石を投げたらカンカンと音が鳴ることから、この名称になったとも言われていますし、武田軍の軍師山本勘助が由来とも言われています。
カンカン井戸から順路に進むと、水の手曲輪に向かうことができます。
割と足が疲れてきていましたが、坂を下ってみます。
疲れが一瞬で吹き飛ぶほどの切岸。
元々このあたりの山は河原が隆起した土地の為、岩盤のように強固なためこれだけの遺構が状態よく残っています。
右側が本曲輪。左側は二の曲輪。
空堀なのか、堀切なのか、切岸なのかもはや分かりません。
ただ、物凄い高さで曲輪が分断してあるのは確か。
どこまでが自然地形で、どこまでが人工的に山を削ったのかとても気になります。

本曲輪は全面的にこのような急斜面の絶壁で囲まれているので、かなり防御力が高いと感じます。
数々の馬出も圧巻でしたが、個人的には水の手曲輪の登城ルートあたりが、壮大で臨場感があり感動しました。
小田原北条氏の築城術は角馬出、武田氏の築城術は丸馬出という通説の中で、諏訪原城は、武田氏の築城術によって築かれたとされていました。
しかし、近年の調査では武田氏が造った諏訪原城をベースに徳川家康が大改修したことが判明しました。
特に巨大な中馬出や大手馬出は完全に徳川家康が築いたとされています。
遠江は徳川と武田が奪い合った場所で、高天神城奪還の為に徳川家康が改修したというのが、発掘調査による現在の考察のようです。
この考察が正しいのであれば、徳川家康は武田氏の築城術を、より大規模にして取り入れたことになります。
そして、最終的には徳川家康は1591年に高天神城を攻略。翌年、武田氏は滅亡。
諏訪原城はその後、徳川家康が江戸へ転封したことを機に廃城になりました。
まだ諏訪原城の全容は未知数ではあるが、これだけの巨大な堀を巡らせているので大土木事業だったのは間違いありません。
それを重機もない当時の人力で造り上げたことに凄さを感じます。

帰りは旧東海道を通って金谷駅に向かいます。
旧東海道の石畳。
現在、街道の石畳で当時の面影を残すのは箱根峠と中山道十曲峠、そして東海道の金谷坂のみ。
30m程しか現存していませんでしたが、町民600名の平成道普請によって430mが復元された素晴らしい道です。
諏訪原城が予想を超えて魅力的な城だったの為、予定より大幅に時間を押してしまいました。
再び金谷駅から東海道本線に乗って次の城へと向かいます!