CASTLE DATA FILE.131
登城日:2026年9月13日
交通手段:掛川駅よりバスで25分+徒歩20分
ステータス:国指定史跡・続日本100名城
ジャンル:連郭式 山城
遺構:空堀・土塁・竪堀・堀切・井戸
スタンプ:掛川観光協会ビジターセンターで押印
御城印:掛川観光協会ビジターセンターで購入
撮影:Nikon D750
「高天神城を制する者は遠江を制す」武田VS徳川の激戦の城
東海遠征の5城目は、静岡県掛川市にある高天神城です。
この遠征のメインと位置付けており、1日たっぷり時間を確保しました。
今回の遠征は武田氏と徳川氏の戦国期における戦いの足跡を追うことが目的でした。
「高天神城を制する者は遠江を制する」と称されるほど、遠江を抑える上でのファクターとなる城でした。
故に武田氏と徳川氏が争奪を繰り返し、その度に城も強力に変化していきました。
歴史も踏まえながら城を周っていきたいと思います。
朝、掛川市のホテルを出て、掛川駅構内にあるビジターセンターで続日本100名城スタンプを押印して、御城印を購入。
ここで縄張り図を頂き、バスで高天神城を目指します。

約25分ほどで土方バス停に到着。
停留所の近くには追手門入口の看板があり、奥に見える小高い山の高天神城に歩いて向かいます。

朝は雨が降っていましたがバス停に到着した頃には雨も止み、長閑な道を気持ちよく進んでいきます。
前の見える山が高天神城です。
高天神城は標高132mの鶴翁山を中心に造られた城で、東海道と遠州灘と呼ばれる海を抑えることができる立地にありました。
室町時代に今川氏が築城したと伝わり、今川氏が滅亡すると徳川家康の城となりました。

徒歩20分ほどで追手門入口の看板があり、坂道を上ります。

登城路入口に到着です。
看板の下にはルート図が置いてあり、トイレも完備。
ビジターセンターで、近くにはお店などが無いから飲み物と食べ物を買って行くことを勧められ、事前に購入していました。
バス停から登城口まで自販機も全く見当たりませんでしたので、余分に飲み物を買っておいて正解でした。

自分で描いた簡単なスケッチ。
山の尾根に沿って幾つもの曲輪が展開されており、西峰と東峰に造られた2つの城から構成されています。1城別郭と呼ばれる城の形式です。

登城路は整備されていますが、急な階段もあり雨上がりは滑りやすいので注意です。

振り返ってのショット。
道の片側は急な崖になっています。

登城路を登ってすぐに追手門跡があります。
この場所に門が設けられており、周囲は見上げるほど高く切り立った崖に囲まれているので、想像するだけで怖さを感じます。
アプリをダウンロードすれば、スマホでバーチャルの空間を楽しむことができます。

追手門跡を抜けて、ぐるりと90度曲がり込みます。
正面を見ても周囲全体から狙われているようで、絶対死守の威圧感や重苦しさを感じる登城路です。

振り返ってのショット。
攻めてくる敵が手に取るように見えます。
急な斜面と曲がりくねった道により、様々な角度から攻撃できるように造られています。

上から見た追手門跡。

追手門の階段を登ると着到櫓跡があります。
追手門から攻めてくる敵を迎撃する役割と、物見的な周囲を監視する役割があったように思えます。

着到櫓跡の周囲は土塁で囲まれており、草と木が生い茂っていますが、当時は城郭南東側を眺めることができる位置に築かれた、コンパクトな曲輪です。

続いて登城路を進んで三の丸を目指します。
正面の高くなった曲輪が三の丸。

右側が三の丸。
三の丸の曲輪に沿って登城路が造られており、三の丸全体から登城路を攻撃できるように設計されています。

三の丸は細長く、城郭東側に突き出しています。

三の丸の縁にも土塁が確認できます。
三の丸先端部の下には堀切があり、直接三の丸を襲撃されないように防御されています。

三の丸から見た登城路。
登城路に対して、曲輪の長手全体で攻撃できます。

1571年〜1574年の武田軍の従来で、徳川軍は小笠原与左衛門清有が三の丸の大将として、250騎で守備したと伝わります。

続いて、三の丸から本丸方面へと向かいます。

さらに山を登ります。

本丸と隣立した御前曲輪をなぞるような道を、上から狙われながら進みます。
左側は絶壁の細い道なので、大軍で攻めたとしても、一列で進むしかありません。

本丸付近で道が分岐します。
右側の道は御前曲輪に繋がります。

左側の道は本丸に直接繋がっています。

御前曲輪には元天神社があります。
天神社は江戸時代に西の丸へと移動しています。まずはお祈りをしてから本丸周辺を散策。

右側には御前曲輪があります。
御前曲輪は本丸と一体化した曲輪です。

御前曲輪に残る模擬天守の天守台。
高天神城には昭和9年に二層の模擬天守が建てられていました。
1945年に落雷により焼失したそうです。

御前曲輪から見た海方面。

バーチャル高天神城で見ると、当時の緊迫した姿を見ることができます。

高天神城から7〜8kmの位置に海も見えます。
この辺りは江戸時代に、地震によって大きな地殻変動がありました。
地盤が大きく隆起したので、当時はもっと海が近かったと思われます。

一帯を見渡すことのできる最高のロケーション。
第二次 高天神城の戦いでは、目の前の山々に徳川家康が新たに砦を築き、19もの砦で籠城した武田軍を完全包囲しました。

高天神城における合戦の歴史を簡単に紹介。
1571年に武田信玄は2万5000の兵で高天神城を包囲。
徳川家康に仕えていた当時の城主 小笠原氏は僅か2000の兵で籠城し、城を守りました。
1574年に武田信玄の後を継いだ武田勝頼が、高天神城を攻略。この戦いを第一次 高天神城の戦いとされています。
高天神城は武田軍の遠江・三河侵攻の拠点となりました。
しかし、長篠の戦いで大敗した武田軍は、遠江の拠点を次々と落とされます。
1580年、徳川家康は高天神城の近くの横須賀城を拠点として、高天神城を完全包囲。
補給路と街道のルートを絶ったことで高天神城は孤立します。
これが第二次 高天神城の戦いです。

完全包囲されたことで援軍も送ることができなかった武田軍は1年以上籠城し、1581年に城外に出て最後の戦いを挑みます。
しかし、叶うことなく高天神城は落城し、その後廃城となりました。

本丸から見た御前曲輪。
御前曲輪と本丸は繋がっており、やや本丸の方が低い位置にあります。

本丸跡。
本丸には屋敷があったとされ、バーチャル高天神城でも館の姿を見ることができます。

本丸及び御前曲輪の断崖。
ほぼ垂直な崖の上に曲輪があります。
難攻不落と評された高天神城は、天然の要害を駆使した城でした。

本丸の土塁。

西側から見た本丸。

本丸から一段下がると的場曲輪があり、本丸西側を防備しています。

的場曲輪から見た本丸。
さらに180度回り込むと、大河内政局石牢へと繋がります。

石牢の道。
本丸は高く急斜面で、反対側は崖です。

本丸の直下にあたる石牢。
天正2年に武田勝頼が高天神城を完全包囲して激戦となり、攻め落としました。
徳川方の当時の高天神城の城主 小笠原氏は退却。
しかし、大河内氏は武田勝頼の命に服さず降伏しなかったことで、この石牢に幽閉されました。

第二次 高天神城の戦いで、高天神城は徳川家康の手に渡り、家康が検視の際に大河内氏は救出されたそうです。
約8年の幽閉期間でした。
再び、本丸下の的場曲輪に戻ります。

的場曲輪から見た本丸。

角度を変えて的場曲輪から見た本丸。

的場曲輪は弓矢などの練習をしていた場所だと考えられており、発掘の際にかつては砂利が敷き詰められていたことが確認されています。
現地の解説板では発掘調査に基づいた憶測が書いてありましたが、本丸直下の脆弱な西側に展開された曲輪だと考えると、防衛的な意味合いも強いのではないかと思います。
東側は大手門から三の丸、そして本丸までが防御力が高いのに対して、西側は搦手から本丸までが、あまりにも近すぎる気がしました。
搦手から攻めてくる敵を直接攻撃できる曲輪として機能するために設けられたのではないかと思います。

的場曲輪の入口から見た本丸。
本丸の曲輪はほぼ垂直で、本丸からも敵を狙えるように巧みに設計されています。

本丸のある東峰から西峰に向かうと、階段があります。
下がって上がるこのアップダウンは堀切でしょうか。

底の部分には搦手口の虎口跡があります。
搦手は最後に周ります。

アップダウンの階段を登ると井戸曲輪があります。
ここからが西峰となり、1城別郭のもう一つのエリアとなります。

井戸曲輪。
ここは山の尾根上にあり、細長い井戸曲輪は西峰と東峰の中間にあります。

井戸曲輪の両側も崖になっています。

井戸曲輪に残る かな井戸。
籠城戦を想定した高天神城では、水は生命線となります。

井戸曲輪から階段を登ると西の丸があり、現在は天神社が鎮座。
西峰エリアの中で一番高い場所に位置しています。

バーチャル高天神城で見ると、西の丸の周囲は急な絶壁で守られています。

西の丸の高天神社。
周囲は高い土塁で囲まれています。
城を守護するために造られた高天神社は、元は本丸にありました。

西の丸跡の裏から馬場平に向かいます。
高い土塁が切り落とされて、虎口のようになっています。

西の丸と馬場平の堀切。

サイドからのショット!
見事に曲輪を分断。

馬場平側から見た堀切。
堀底の両側は、竪堀などが複雑に配置されています。

馬場平。
城の南側に位置しており、見張りの番所が置かれていたと考えられています。

馬場平から見た景色。
この場所からは御前崎方面を眺めることができます。

馬場平から尾根沿いに進むと甚五郎の抜け道があります。
天正9年に高天神城が落城した際に、武田勝頼に落城の模様を報告するために脱出したルートと伝わります。
しかし、今は立入禁止になっています。

西の丸を後にして、高天神城の見どころ満載な堂の尾曲輪方面に移動します。

バーチャル高天神城で見ると、その凄さを感じることができます。
高天神城の弱点だった緩やかな西側を武田勝頼が改修して、最強の防衛ラインを築きました。

堂の尾曲輪の手前には二の丸があります。

二の丸跡。

二の丸から見た西の丸。
曲輪のスペースから推測すると、主郭部に向かうルートの前に置かれているので、兵を駐屯できる馬出のような役割もあったのではないかと思います。

二の丸西側には土橋も確認できます。

土橋の脇は竪堀になっています。
西の丸は西峰の主郭部になるので、周囲には竪堀など幾つもの防御を敷いています。

二の丸から堂の尾曲輪を目指すと袖曲輪があります。

袖曲輪を進もうとしても、堀切によって完全に遮断されています。

素晴らしい堀切です。
天然の要害を駆使した東峰エリアに比べて、西峰エリアは人口的に防御力を高めているので、同じ高天神城でもテイストが全く異なります。

角度を変えてのショット。
これぞ戦国の城です。遺構の全てに戦国期らしい緊張感があります。

袖曲輪から一段下の尾根下を歩いてみます。

振り返ってのショット。
袖曲輪、堂の尾曲輪の下を歩くことができます。

先ほど見た袖曲輪と堂の尾曲輪を分断する堀切。

やはり堀切は下から見ると迫力あります!
幅約9m、高さ約6mの堀切です。

堀底からは橋脚跡と思われる穴が調査で発見されていることから、木の橋が架けられていたと考えられています。
戦闘時は橋を落として敵の侵攻を防ぎます。

堀切の下には空堀が残ります。

土橋と両側には空堀、奥には堀切。
遺構のオンパレードです。

堂の尾曲輪の下には約100mに及ぶ、大規模な空堀が設けられています。
当時はもっと深さがあったと思われます。

空堀から見た土橋。

さらに空堀を進みます。
この大規模な空堀は最大5m程の高さがあります。

空堀の先端は土橋になっており、井楼曲輪へと繋がります。

土橋から見た右側は歩いてきた空堀。

左側はなんと連続した竪堀になっています。
絶対死守の城だからこそ無駄がなく、理論的に防衛ラインが配置。
合戦を繰り返した城は、その度により堅固に改変するので、最大限の魅力を発揮してくれます。

土橋から井楼曲輪に移動。

尾根の北側先端に位置するのが井楼曲輪です。
井楼曲輪には柱穴の跡が発掘調査で発見されているので、見張りのための櫓があったと考えられています。
井楼曲輪では鉄砲玉も出土しています。

井楼曲輪から尾根上を二の丸方面に戻るように進みます。

井楼曲輪と堂の尾曲輪を分断する堀切が出現!

袖曲輪と堂の尾曲輪を分断する堀切と同クラスの見事な堀切。

堂の尾曲輪。
西峰の尾根には二重で堀切が設けられており、しかも良好に残っています。

堂の尾曲輪から見た、袖曲輪を分断する堀切。

最後に搦手口を周ります。
西峰と東峰の中間に搦手口は合流しており、虎口になっています。

搦手は完全なる断崖です。

ほぼ垂直な岩の壁です。
元亀2年の武田信玄による高天神城攻めの際には、250人の兵がこの搦手を守備しました。

搦手には竪堀のような斜面に沿った堀も確認できます。

下から見ると自然地形のようにもみえるし、人口的に掘削したようにも感じるので、ハッキリと遺構かは謎ですが、守りが固くなったいるのは間違いありません。

下から見た搦手。
搦手はすごく神秘的かつ、芸術的です。

搦手道。
周囲全体から狙われている感があり、追手門側とは少し違った圧迫感があります。

搦手門跡。
主郭部に行くには追手門よりも搦手からの方が近いです。
個人的には追手門から高天神城を堪能して、最後に搦手門から退城する方が楽しめるように思えます。

麓から見た高天神城。
最後の最後で少し晴れてきました。朝は雨が降っていましたが、天気に恵まれました。

高天神城の全景。
左側が本丸のある東峰。右側が西峰。
この時期は蚊が多いのは承知してますが、蜂が多かったことから、見張台に行くことは断念しました。
見張台には堂の尾曲輪よりも大きな堀切があるようなので、またいつか攻城したいです。

1つの城で2つの異なる要素を見ることができるので、意識しながら周ると一層楽しむことができます。
難攻不落の城と呼ばれた所以を、大いに楽しむことができました。
2日間の東海遠征は徳川氏と武田氏が争った、長篠城、医王寺山城、古宮城、亀山城、高天神城の5城を攻略。
遠江、三河における壮絶な歴史の足跡を巡りました。

