CASTLE DATA FILE.133
登城日:2026年10月10日
交通手段:JR・京王線橋本駅からバスで30分
ステータス:ー
ジャンル:山城・居館
遺構:土塁・竪堀・堀切・土橋
スタンプ:ー
御城印:津久井湖観光センターで購入
撮影:Nikon D750
北条氏の本拠 小田原城の絶対的国防圏となった城
三連休の初日、本日は神奈川県相模原市にある津久井城を訪城。
津久井城は東海道に至る八王子道と、江戸方面から多摩丘陵を通り、津久井を東西に横断して甲州街道に達する津久井往還、相模川が流れていることなどから、陸路と水運の要衝でした。
鎌倉時代後期には北条得宗家の直接支配下に置かれ、南北朝期以降は足利将軍家代々の直轄領でした。
戦国時代には後北条氏の支城となり、豊臣秀吉による小田原征伐で落城し廃城。江戸時代は幕府直轄領となり、陣屋が置かれました。
どの時代においても重要視されたエリアといえます。
都内から中央線で八王子駅で横浜線で乗り換え。津久井城の最寄りである神奈川県相模原市の橋本駅に到着。
橋本駅は京王線も走っており、帰りは京王線で帰りました。
新宿駅をベースで考えると京王線の方が快速もあり、圧倒的に早かったです。

橋本駅から橋01系統のバスに乗車して約30分ほどで、北根古屋停留所に到着です。
時間によって異なりますが、バスの運行本数は割と多いので、公共交通機関でも安心して攻城できます。

停留所付近から見た城山。
標高は375mで、山頂部に津久井城の主郭部があります。

北根古屋の停留所から5分ほどで城山公園の入口があります。
津久井城は城山公園として整備されており、山頂の城跡までは幾つもの登山ルートがあります。
まずはパンフレットや情報を収集する為に、山麓にあるパークセンターを目指しました。

入口には諏訪神社があります。
社殿には見事な龍の彫刻が施されています。神社に関する情報がないので、創建などの詳細は不明。
攻城前にお参りをしてから入城です。

諏訪神社から湖畔展望園路という整備された公園の道を通って、パークセンターのに向かいます。

途中にある平場。
伝 耕雲庵跡地という小さな改札板があります。
耕雲庵とは現在の功雲寺で、徒歩で30分ほどのお寺です。
元はこの地にありましたが、津久井城主の内藤景定が移転して改名。内藤氏が開基となりました。
功雲寺には内藤景定のお墓があり、刀などの遺物も残されています。

湖畔展望園路から見た津久井城。
右側の斜面の上には展望デッキがあります。

公園として綺麗に整備されているので、ウォーキングや犬の散歩をしている人も多くいます。
この展望デッキの道をそのまま坂を上がると、パークセンターへの近道となります。
ワタクシはパークセンターの前に根古屋諏訪神社に寄りたかったので、一度公園外に出ました。

展望デッキから見た相模湖。
天気も良く、長閑で美しい景色を見ることができます。
相模湖は近代に造られた人工湖で、当時は相模川が流れていました。

展望所から歩いて5分ほどで根古屋諏訪神社に到着。

根古屋諏訪神社には大木の杉が多くあり、境内の御神木は樹齢400年で神奈川県名木100選に選出されています。

根古屋諏訪神社は建久3年(1192)、津久井領主津久井太郎次郎義胤が、宝ヶ峰在城の時勧請したと伝わります。
戦国期に後北条氏の旗下、内藤景定が城主の時に、50間四面の地が与えられ、本殿を造営したとの記録が残っています。
津久井城主 内藤氏とも関わりがある神社なので、攻城前に訪れて参拝するのがオススメです。

根古屋諏訪神社の近くに城山公園パークセンターの入口があります。

パンフレットをパークセンターで入手。
土砂崩れで通行不可の道もあるので、スタッフさんに登城ルートを確認。

公園内には津久井城の縄張図が多く設置されています。

赤色立体図で簡単に解説。
津久井城は山麓に居館エリアの根古屋と、山頂部には軍事施設となる山城が一つになった根古屋式山城です。
テイスト的には、同じく後北条氏の支城だった八王子城のような形式が取られています。
現在の津久井城に残る遺構は、後北条氏の時代に改修された際の遺構です。

パークセンターの近くにある城坂橋。
下は沢になっており、牢屋の沢と呼ばれています。
江戸時代に陣屋が置かれていた際、この沢の上流に罪人を牢獄する牢屋がありました。
牢屋は水牢だったそうです。

急斜面な沢になっており、戦国時代は沢の自然地形を改良して、堀の一部として機能していたと考えられています。

橋の先は少し開けた平地となっており、発掘調査では戦国期の土塁や虎口の遺構が発見されました。
また、柱穴の跡も発見されており、戦国時代もこの場所に橋が架かっていたと考えられています。

橋の脇には御屋敷跡に向かうための山道があります。
発掘調査で発見された虎口は、御屋敷への入口を守るための門だったと思われます。

御屋敷跡。
かなり広めの平地で、周囲は牢屋の沢によって切り立った崖になっています。

御屋敷跡には戦国時代の津久井城主、内藤氏が館を置いた場所。
発掘調査で堀や半地下式の蔵、中国製磁器や茶碗などの遺物が発見されていることから、生活空間だったことが判明しています。

御屋敷跡の西側。
左側が御屋敷跡で、人工的に斜面を削り落とした切岸で急斜面です。
さらに斜面の脇には竪堀も確認できます。

この竪堀は牢屋の沢へと向かって伸びています。

整備されて牢屋の沢には橋が架けられています。
まだ時期的に草木が生い茂っており、あまり良い写真を撮れませんでしたが、この辺りは深い谷状になっているので、城の防御力を感じることができます。

御屋敷跡の上は整備されて展望エリアになっています。

階段をあがると、御屋敷跡の直上に馬場跡があります。馬によるドラッグレースができるくらい広くて長い馬場跡。

展望エリアから見た景色。目の前には雄大に広がる山々。

左側には三増峠があり、永禄12年(1569)に武田信玄は2万の軍勢で相模国に侵攻を開始します。
武田軍は東京の滝山城など、北条氏の城を攻撃しながら本城となる小田原城を包囲。
しかし、難攻不落の小田原城を攻略できず、武田信玄は軍を引き上げました。
北条氏は後詰めであった甲州街道守備軍の北条氏照、秩父方面守備軍の北条氏邦の軍勢2万が要所である三増峠に着陣し、甲斐に帰国しようとする武田軍を迎え撃ちました。
さらに北条氏政が2万余りを率いて氏照・氏邦の部隊と武田軍を挟撃、撃滅する作戦でした。
そして武田軍と北条軍が激突します。
北条軍有利で進んだ戦いでしたが、武田軍の別働隊の奇襲によって形成逆転。
戦地の背後に位置する津久井城守備隊の内藤隊は、武田軍別働隊に抑えられて救援に出られず、北条軍は大きな被害を受け、最終的には武田軍の勝利となりました。

白い建物付近には武田信玄が必勝を祈願したと伝わる富士塚があります。

展望エリアから見た馬場跡と下段の御屋敷跡。

御屋敷跡の展望エリアからいよいよ山城ゾーンへと入ります。
メインディッシュとなる山城エリアに辿り着く前に、山麓で既に見どころが溢れていましたが、ここからが本番です。

山城の主郭となる本城曲輪までは幾つかのルートがあります。
ワタクシは御屋敷の展望台を起点として、城坂→車坂(男坂)のルートで登り、帰りは車坂(男坂)→根本登山道で降りました。
主郭部には男坂と女坂があり、女坂は緩斜ですが大周りで細い道。男坂は急勾配ですが近道です。

山の斜面をトラバースするように道が造られており、根本登山道と城坂の合流地点付近には竪堀があります。

登城路から見た右側。
この竪堀は山麓まで伸びています。

登城路から見た左側。
この竪堀は山頂部から伸びている非常に長い竪堀となっています。

赤色立体図で見ると、津久井城は本城曲輪を中心として放射状に竪堀が幾つも確認できます。
自然地形を活かしている箇所もありそうですが、いずれにしても山全体が軍事要塞化されているのが分かります。

車坂(男坂)の登城路。
斜面はやや急ではありますが、綺麗に整備されているので登りやすいです。

トラバースする場所は登城路が削り落とされ、道が狭くなり脇は崖です。
これは津久井城の全体で同じような造りをしています。

剥き出しの岩盤。
山頂部付近は岩盤が多いのが特徴。
岩盤の上は主郭に向かう尾根になっており、上から見下ろされる位置にあります。
この道を登ってくる敵を上から攻撃できる設計がされています。

岩盤の壁に沿って回り込むと、頂部の尾根に出ます。

頂部は虎口のような切通になっており、右は飯縄曲輪方面。左は本城曲輪方面へと進む、中間地点になります。
この合流地点は東西を分断する堀切になっています。
車坂は堀切の堀底に合流するように造られているのです。

横から見た堀切。
V字の堀底の脇に切り込まれた竪堀のような斜面が車坂の登城路。

上から見た堀切。
堀切の堀底が車坂の登城路になります。

まずは右の飯縄曲輪方面に進みます。

飯縄曲輪には飯縄神社が鎮座しています。

城郭東側の最頂部が飯縄神社のある平場となります。
飯縄神社の歴史が実は凄いのです。
鎌倉時代の1197年に津久井氏が津久井城を築いた際に、城の守護神として建立したのが始まりと伝わります。
戦国時代には津久井城主 内藤氏によって社殿が改築され、引き続き城の守護神として祀られました。

飯縄神社の一段下には、戦国時代に狼煙台と鐘撞堂があったと伝わります。城内マップでは「みはらし」と記載されています。
さらに津久井城の周囲には多くの狼煙台や砦が築かれました。

狼煙台から見た飯縄曲輪。
当時は先ほど登った飯縄神社の階段ではなく、こちらが飯縄曲輪への正規の入口だったのではないかと思われます。

狼煙台があったとされる場所は、ベンチが置かれた展望台のようになっており、城郭南側を見渡すことができます。

みはらしからは関東平野と目の前の山を一望することができます。

みはらしの前の山は、造成の工事で山を切り崩しています。
多くの重機を使って写真のように山を改造していますが、戦国期にはこの津久井城も含めて人力で土木工事を行なっていたことを考えると、改めて凄みを感じます。
津久井城のある城山も、戦国期はこのように見えていたのではないかと妄想するだけで、割と楽しめるスポット。

続いて飯縄曲輪の周囲を見ていきます。
右側の斜面の上が飯縄曲輪で、周りを帯郭が囲んでいます。

帯曲輪の更に下には階段状に曲輪が展開されています。

下段から見た帯曲輪。
このように階段状に小さめな曲輪が斜面に沿って造られています。

飯縄曲輪の大杉。
樹齢900年と伝わる大杉は2013年に落雷焼失しました。しかし、下部の太い枝木はまだ生命を維持しているようです。

津久井城が機能していた戦国時代よりずっと前からこの地を守ってきた貴重な大木。
山城は木が生えていると敵が身を隠してしまうので、基本的には伐採して見晴らしを良くします。
しかし、大きな木は井戸の水を枯らす原因になるので伐採せずに残すケースがあるようです。
よく山城などにある大木は、精神的な意味合いで残していると思っていたのですが、残すための理論的な事由があったのですね。

飯縄曲輪のさらに一段下がった東側には宝ヶ池があります。

籠城戦で必須なのが食糧と水。この宝ヶ池は日照りや雨が降り続いた年でも、安定して水が溜まっていたようです。
水が白く濁っていたことから、城兵が刀を磨いたという伝説もあります。

宝ヶ池から見た飯縄曲輪の堀切。
深さは浅いものの尾根を分断しています。

当時はもっと深く鋭い堀切だったのかなと思われます。

驚くのが堀切の下にはさらなる堀切があり、連続堀切になっています。

この堀切は鷹射場に向かう尾根を分断しています。

堀底からのショット。
岩盤を削り落とした堀切で、滑落防止の為の鎖場となっています。

堀底はかなりスリムに絞り込まれた土橋状で、両側は竪堀となっています。
竪堀は恐怖を感じるほどの急斜面。
現在は堀底と同じラインに、尾根の脇を通る道ができていますが、本来はしっかり堀切の形状だったと想像できます。

堀底左側の竪堀。
かなりの急斜面で、この竪堀は山麓まで伸びています。

堀底右側の竪堀は岩盤が剥き出しで迫力があります。
城郭東側からの侵入を絶対に阻止する気迫を感じることができます。

対面からのショット。
こちらから見ると美しい堀切形状です。
深さはありませんが、個人的には魅力的な堀切だと感じました。

鷹射場までは細い尾根を進みます。

鷹射場は山の東側先端部に位置しており、見張台のような平場となっています。

目の前には関東平野と相模原市内を一望!
美しいロケーションを独り占めできます。空気が澄んでいる時はスカイツリーも見えるようです。

鷹射場から小倉登山道に行くと、東側の麓に行くことができるので、少しだけ歩いてみました。
小倉登山道はかなり急斜面かつ、細い尾根になっており、重いリュックと一眼レフをぶら下げて歩くには、ややキツめ。
両側が滑落防止のネットとロープが張られており、今までのルートより危険エリアであることが伺えます。

下から見ると急斜面ぶりがよく分かります。
途中で引き返して、城郭西側の本城曲輪方面に向かいます。

車坂の合流地点である堀切を西側に進むと、まずは太鼓曲輪があります。
正面の高くなった山の上が太鼓曲輪になります。
攻めてくる敵を正面から攻撃できる曲輪で、主郭となる本城曲輪を防御する重要な曲輪です。

太鼓曲輪の下を回り込むように道が造られており、終始上から狙われています。

振り返っての登城路。
右側が太鼓曲輪のある斜面。
上から狙われつつ、この削り落とされた細い道を通過しないと主郭に向かうことができません。

太鼓曲輪の入口。
三方向を見渡すことのできる、突き出した形状をしています。個人的には津久井城の中でも防衛機能を最も意識した曲輪だと思います。

太鼓曲輪には土塁も確認できます。
やはり上から攻撃することを想定した設計がされています。

太鼓曲輪から本城曲輪は向かうと、次なる防衛ラインとして堀切が出現!
絵図に橋が描かれていたことから、この場所には引橋が架けられていたと考えられています。
敵がここまで侵入してきたら、橋を落とすことで道を分断して攻め難くする。山城の定番でありながら鉄壁の防御システム。

鷹射場と同じように、堀底は削り取られた土橋状になっており、両側が竪堀です。

堀底から見た左側の竪堀。

右側の竪堀は岩盤を削り落としたことで、岩が剥き出しの圧巻な竪堀です。
この竪堀は山麓まで伸びています。

竪堀を下から撮影!
戦の時は生死を分ける命綱となる遺構なのですが、今ではアートの領域です。
竪堀の両脇が石なのが更に素晴らしい。
津久井城は、もっと注目されるべき城だと思います。

対面から見た堀切。
橋が架かっていたことが何となく想像できます。

堀切を通過して本城曲輪を目指すと土蔵という曲輪の前に短い階段があります。
堀切から数mの距離にあるこの階段の前は、土橋になっています。
両側が竪堀になっていて、道が絞り込まれているのが確認できます。

階段から見た土橋。
手前が土橋で奥には堀切と引橋跡。この距離で堀切と土橋が連続しています。
主郭が近いので防御力の高さが際立ちます。

階段を登ると土蔵と呼ばれる少し開けた曲輪にでます。
石列などが発掘調査で発見されており、物資の保管をする蔵だったそうですが、
防衛能力の高い太鼓曲輪→堀切→土橋と続いて土蔵が尾根上に並んでいますが、急に蔵となると何となく緊張感がないような気も・・
主郭手前の重要な通路上に蔵は必要なのだろうか?とやや違和感を感じます。
個人的には攻めてきた敵を迎え打つための、馬出の方がイメージとしてはしっくりきます。
細く絞り込まれた土橋の先に、兵が待ち構えていたら脅威です。
そのような妄想も山城の魅力の一つ。正解が分からないからイマジンを楽しめます。
山城は多く攻めれば攻めた分だけ、イマジン値が上がり、どんどん楽しくなります。

土蔵から見た主郭部方面。
土蔵の一段上に米曲輪、さらに一段上に本城曲輪があり、階段状に曲輪を展開しています。
この土蔵の位置が、いかに防衛上 重要であるかお分かりいただけると思います。

米曲輪から見た本城曲輪。

本城曲輪の入口。
発掘調査で門跡や石積みの階段などが発見されています。

本城曲輪の土塁。
津久井城の中では最も高く、良好な状態で残る土塁です。

赤色立体図で見てもクッキリと本城曲輪のL字形の土塁が確認できます。

本城曲輪の土塁の上には築井古城記碑が建てられています。
城址跡にはよく石碑が建てられていますが、築井古城記碑に関しては江戸時代後期に建てられた石碑です。
碑文には津久井城の沿革や地形、城主だった内藤氏の系譜の一説が記されています。
内藤氏の家臣、島崎氏の末裔の方によって1816年頃に建立されました。
記碑は相模原市の有形文化財に指定されています。

本城曲輪の土塁上から見た米曲輪。
米曲輪から本城曲輪に入る通路で、発掘調査で石積み階段や門跡が検出された場所はこの辺りでしょうか。

本城曲輪から米蔵方面へ移動。
米蔵の入口は草が生い茂って、あまり人が立ち入らない場所のようです。

米蔵。
草が多くてこの先は断念しました。この先は未整備エリアの上、赤色立体図で見ても切岸になっているようなので、危険エリアです。
米蔵の入口には、米蔵から先は危険な為 立入禁止の注意書きもあります。

赤色立体図では米曲輪には横堀のような窪みを見てとれるのですが、草が多すぎて確認できず。

米蔵から引き返して城郭西側から最高のロケーションを楽しみます。
津久井湖が美しい!
ダムが建設されるまでは、城山に沿って蛇行するように相模川が流れていました。
相模湖対岸の山の尾根沿いには高尾山があり、北条氏の重要拠点となる八王子城があります。

津久井城は天正18年 豊臣秀吉による小田原征伐で、徳川家康の軍となる本多忠勝や鳥居元忠らの軍勢に攻め落とされて、そのまま廃城になりました。
徳川軍12000の兵力に対して、津久井城は城主の内藤氏も含めて主力は小田原におり、一説には150人の軍勢で守備したとも伝わります。
そんな深い歴史を感じながら、美しい山々と相模湖の景色をテイスティング。

米曲輪から見た西側の本城曲輪。
主郭部を楽しんだ後は、最後に太鼓曲輪下にある家老屋敷跡に向かいます。

太鼓曲輪下に家老屋敷跡への入口があります。
右側が太鼓曲輪の切岸。所々に岩盤が剥き出しになっています。

家老屋敷跡。
実際に屋敷が建てれるほど大きな曲輪だとは感じませんでした。
しかし、太鼓曲輪の直下に城郭南側へ突き出した曲輪なので、太鼓曲輪と同様に守りの要と考えれば、家老などの重要な人物がこの場所を守る役割があったようにも考えられます。

家老屋敷跡から見た太鼓曲輪。
正面の切岸の上部が太鼓曲輪です。
気になったのは家老屋敷跡の切岸の下には多くの石材が散乱していました。石積みが崩落したような散乱の仕方だったので、この辺りには石が積まれていたのではないかと推測します。
山の至る所に岩盤があるので、石はこの山から採集することは可能だったはずです。

帰りは車坂(男坂)から根本登山道を選択。
根本登山道には津久井城址碑が建てられています。
この城址碑のあたりにも山頂から伸びた竪堀があります。
根本登山道→車坂が当時の正規ルートだったのでしょうか。

根本登山道の入口付近。
登城時に選択した城坂ルートよりも、こちらの方が城らしい登城路のように感じました。
入口付近となる左側には平場があります。

この平場からは登城路を含めた三方向を見渡すことができるので、何となく当時はこの平場の脇を通過して、城内に入っていたのではないかと考えられます。

根本登山道の入口。

根本登山道付近から見た城山。
この辺りから見る城山の山頂部は、津久井城の本城曲輪あたり。
城山自体が急な斜面の形状をしています。
見た目はどこにでもあるような普通の山ですが、山全体が軍事要塞化された恐るべき山。

帰りにダムの近くにある津久井湖観光センターにて御城印を買いに行きました。
津久井城も素晴らしいのですが、様々な角度から美しいロケーションを楽しむことができるのもポイント。

津久井湖観光センター側は相模原市登録天然記念物でもある、城山の御林「江川ヒノキ」を見ることができます。
この山林は江戸時代末期に、江戸幕府が直轄して財源化を図り植林されました。山林は現在に至るまで大切に守られてきました。

江川ヒノキの山林のあたりには橋があり、橋の下には「とばぼり」と呼ばれる巨大な竪堀が出現します。
あまりの大規模で美しい堀の形状に、最初は目を疑いました。
この竪堀を掘るとしたら、かなりの土木工事量です。自然地形も活かして掘られたのでしょうか。

竪堀は山頂の本城曲輪あたりから、この山麓部まで伸びています。
つくづく、津久井城はもっとメジャーになるべき城跡だと感じます。綺麗に整備されているし、想像していたよりも遥かに多くの遺構が残っています。

写真のように竪堀には橋が架けられています。
先ほどの写真はこの橋から撮影しました。
とばぼり周辺は木が生えていないので、綺麗な堀の形状が確認できますが、生い茂った森の中にはこのような竪堀が山全体に造られています。

総括としては、
尾根の直線上に曲輪を配しており、構造的にはシンプルで東と西の直線距離も短く、コンパクトな城域。
しかし、豊臣軍が攻めてくることを想定して城の改修をしたのであれば、このコンパクトさは納得です。
実際に主力部隊は小田原に行ったことで、少数で守備したという歴史を考えても、その事態は想定して改修されたのではないかと思います。
幾つも曲輪を造成して、城を巨大化すればするほど、守りの兵力が必要になります。
少数で守るために、竪堀や堀切で攻めてくる方向を限定し、コンパクトにすることで少数での守り易さを考慮したのではないかと考えられます。
良い意味で山城の基本を押さえた、周っていて理解のしやすい城でした。
山麓の居館エリアも考慮すると城郭範囲は広めです。
最後に津久井湖観光センターで御城印を購入し、目の前のバス停から橋本駅まで移動して帰路につきました。
帰ってから改めて津久井城について調べると、今回は回避した女坂ルートには畝状竪堀群、小倉登山道には良好に残る竪堀が見れるようです。
まだ草が多い時期だったので、次は冬に合わせて再登城したいと思います。

