CASTLE DATA FILE.134
登城日:2026年10月18日
交通手段:京王片倉駅から徒歩で10分
ステータス:東京都指定史跡
ジャンル:丘城
遺構:土塁・竪堀・土橋・空堀・馬出
スタンプ:ー
御城印:ー
撮影:Nikon D750
馬出と土橋と深い空堀、戦闘向けの技巧的な横矢設計が魅力!
本日は東京都八王子市にある片倉城に初訪城です。
八王子界隈には幾つもの城跡が残りますが、有名なのは八王子城と滝山城。
片倉城はマイナーな城の部類ですが、東京都の中でも遺構が残る貴重な城ということで、訪城しました。
片倉城の築城年や築城者などは明らかになっていませんが、1394年〜1427年に長井氏によって築城されたと伝わります。
長井氏といえば、今年の初めに訪城した初沢城も長井氏に所縁のある城でした。
戦国初期の扇谷上杉氏と山内上杉氏による争乱の中で機能した城という話もあります。
築城年や廃城年なども不明な為、謎多き城でもあります。

新宿から京王電鉄の京王片倉駅に到着。
片倉城は京王片倉駅とJR片倉駅が最寄りとなります。
JR線だと徒歩5分、京王線だと徒歩10分で到着できるのでアクセスは抜群です。

片倉城の前を流れる湯殿川。左側に見える森が片倉城となります。
片倉城は湯殿川と兵衛川の合流地点となる、標高143m・比高30mの丘のような山上に築かれました。

片倉城の山麓にある、いこいの広場。
現在の片倉城は片倉城跡公園として整備されており、ファミリーや犬を連れた地元の方が多く集まる、ほのぼのとした公園になっています。

現地にある公園のマップです。
ちなみに、片倉城跡には解説板などがありません。
この看板は帰りに公園の入口付近で見つけたもので、ワタクシは赤色立体図を元に周りました。

幾つか登城ルートはありますが、水車小屋のある城の北側より入城します。

水車小屋。
当時はこの一帯は湿地帯になっており、川も含めて天然の要害となっていました。

奥の沢と呼ばれる沢の脇を通って山上に向かいます。

赤色立体図で連続した竪堀状の窪みを確認したので来てみましたが、草が腰くらいの高さまで生い茂っており、全く確認することができませんでした。

竪堀のような窪みの脇は整備された道になっており、登ると広場に出ます。
この場所は曲輪跡ではないようですが、曲輪のような広さを誇る平場です。
もし、赤色立体図の窪みが竪堀であれば、城の一部だった可能性もあります。

平場から「奥の沢」沿いを歩いて二の丸に向かいます。
二の丸と曲輪のような平場は、天然の要害となる奥の沢によって分断されています。
右側が奥の沢。
急斜の崖になっており、片倉城の北側は深い沢によって完全に守られています。

二の丸と休憩広場の分岐点。
この辺りは人工的に土を盛った土塁も確認できます。

二の丸側から撮影した休憩広場。目の前には浅めの空堀があり、奥には休憩広場があります。

堀底から見た空堀。
右側が休憩広場、左側が二の丸。
空堀の形状がはっきり残っていますが、堀底はだいぶ埋まっているように感じます。

休憩広場から見た空堀と二の丸。
右側には先ほど通過した登城路の分岐点があります。

休憩広場。
奥の沢と空堀によって分断されたこの平場は、馬出だったようです。
この平場が馬出だとすれば、この辺りが二の丸北側の虎口だったと思われます。

赤色立体図で見ると二の丸側が土塁によって人工的に成形しているので、虎口だったのではないかと考えられます。
※片倉城は遺構の解説が現地でもネットでも明確な情報が少ない為、完全に個人の妄想で記述します。

二の丸跡は、かなり広い空間です。
綺麗に整備されており、散歩している人やファミリーが集う憩いの場となっています。

二の丸と本丸を繋ぐ本橋。

橋を渡ると本丸跡になります。
本丸は二の丸よりも狭い曲輪ですが、それでも50m四方の大きさがあります。
居住空間としても十分な広さですが、二の丸は本丸の2倍ほどの広さがあります。

本丸に残る土塁。
おそらく当時はもっと高い土塁だったと思われます。

本丸東側の下には空堀が巡っており、草が茂っていても分かるほど深い空堀です。

同じく東側の空堀。対面は高い土塁なので、下部の堀が深く迫力を感じることができます。
本丸東側はこの空堀で守られています。

本丸から見た景色。
木の合間から微かに見える程度ですが、比高30mの丘でありながら、一帯を見渡すことができます。
この方角に川の合流地点があるので、本丸と二の丸は天然の要害で守られた、城に適した立地でした。

本丸と二の丸を仕切る空堀。
本丸から撮影しており対面が二の丸になります。
堀はだいぶ埋まっていますね。
堀幅が広いことを考えると、堀底もそれなりに深かったのではないかと考えられます。

堀底から見た本橋。
草が茂っているので空堀の形状が分かり難いですが、橋があることで何となく掘形状を理解することができます。

対面の二の丸側から見た空堀。
本丸の右側の高くなった場所に櫓があったと考えられています。
扇谷上杉氏と山内上杉氏による争乱時代の城とネットで知識を入れていたので、同じ東京都にある深大寺城くらいの遺構を想像していました。
ここまではおおよそ想定通りの城跡です。
しかし、ここからが想像を遥かに超えてきます!

本丸櫓跡付近から見た竪堀。
先ほど見た本丸と二の丸を仕切る空堀は、竪堀となって下部まで伸びています。
急斜で見事な竪堀です!今までとは完全にテイストが変わりました。

現在は公園の通路になっていますが、これは間違いなく竪堀です!
左側が本丸、右側が二の丸。

下から見た竪堀。
本丸南側を中心に赤色立体図で見て行きましょう。

竪堀①が本丸と二の丸を分断した竪堀。
この竪堀が本橋のある空堀①に接続。
主郭部には横矢の屏風折れの空堀がありますが、草が多くてあまりよく確認できませんでした。
空堀②が本丸から見た空堀です。

赤色立体図でもはっきりと確認できる、折れの空堀を歩いてみます。
左側が本丸。正面には曲輪が突き出ています。
進路を折ることで、横矢と呼ばれる多方向からの攻撃が可能となります。

折れた箇所からのショット。
正面が本丸。
右側が突き出した曲輪で、進路がクランクしているのが分かります。
左側も土塁になっているので、進路が狭く一列でしか進むことしかできません。

先ほど撮影したポイントを撮影。右側が突き出した曲輪。
正面が土塁で進路を塞がれているので、強制的に右に曲がることしかできません。
もし攻め手であれば先頭の人はご愁傷様です。
後ろからは味方が追随しており、道が狭いので後には引けず、先にはどんなトラップが仕掛けられているのか分からない中で、前に進むことしか許されない状況。

北側は奥の沢によって天然の要害によって守られていましたが、南側は人工的に防御設計と大工事が行われています。

赤色立体図の虎口?と記載した場所。
この撮影ポイントをAとします。
右側が屏風折れの空堀方面。正面の下った坂に虎口があったのではないかと勝手に想定しています。
右側には土塁、左側は平場となっており、上から敵を見下ろす設計になっています。

虎口と想定する場所から見たポイントA。
道の分岐点になっていますが、右側は先ほど本丸から見た空堀②が竪堀となって堀を形成しています。
左側に進むと屏風折れの空堀へと繋っており、竪堀と横堀がこの場所で合流しています。
かなり戦闘を想定した設計で驚きました。

上から見た虎口のような場所。
実際に虎口であったかは謎ですが、右側は斜面に沿った土塁で、左側の平場は迎撃するための場所であるのは間違いないように思えます。

脇から見た虎口のような場所。
本丸に近い場所でもあるので、この周辺には何かしらの虎口はあったと感じます。

さらに先に進み、振り返ってのショット。
こちらの空堀も折れ曲がっており、左側の土塁沿いに進むと、先ほどのAポイントとなる堀の合流地点に繋がります。

一度、屏風折れの空堀を戻ります。

二の丸に戻り、赤色立体図を見ながら西側に残る空堀を見に行きます。

二の丸南側と西側の赤色立体図。
本丸南側も素晴らしい遺構でしたが、二の丸南側と西側は土橋や馬出を設けて、さらに戦闘向けの設計になっています。
本丸も含めて横矢の設計が多いのが片倉城の特徴。
そして、立体図の二の丸西側空堀の規模が大きそうだったので目指します。

二の丸西側は躑躅が植えられ、公園としての整備がされています。

堀の対面側は畑になっていることを考えると、この辺りは後世に改変がされた可能性があります。

堀対面の畑。

堀底を歩いて立体図の深い空堀に向かいます。
この先が馬出方面の空堀なのですが、途中で草が多くて先に進めなくなりました。

二の丸から見た西側の土塁。
立体図ではこの土塁の裏側に大きな堀があるはずなのですが、柵があって入ることができません。
諦めかけたその時、柵の端っこに小さな入口がありました!

二の丸西側の土塁!
この箇所だけかなり高い土塁になっています。

ついに見つけました!
二の丸西側の空堀!やはり想定通り、かなり深い空堀です。
おそらくこの深さの空堀が、先ほど躑躅が植樹された空堀まで続いていたと考えられます。

この大規模な土木工事力を見ると、後北条氏の手によって造られたのではないかと感じます。
片倉城は発掘調査があまり行われていないので、詳しいことは謎に包まれています。

土塁の上から見るとダイナミックな深さに衝撃を受けます。
堀の対面が馬出です。
深大寺城と同じくらいの城と思って訪城しましたが、この土木工事力は比較にならないほど大規模です。

同じく土塁の上から見た二の丸南側の空堀。
左側の土塁の上が当時の通路で、通路を遮る形で奥の馬出が設けられています。

二の丸から本丸竪堀を再び降りて、土橋①を通って二の丸南側と西側の空堀を見に行きます。
写真は土橋①で、右側には竪堀①があります。

土橋①。
上り坂の土橋になっており、この道を進むと二の丸に接続されています。

竪堀①
竪堀の上は二の丸で、かなり幅の広い竪堀で、下から見るとスタジアムのように囲まれています。

土橋②
草が茂って分かり難いのですが、右側が竪堀①で左側は二の丸南側の空堀となっており、赤色立体図でも明瞭に土橋形状が残っています。
正面が二の丸虎口です。

二の丸側から見た土橋②

土橋から見た竪堀①。
ご覧の通り、土橋を通過する敵を横から攻撃できるように曲輪が張り出しています。

空堀側から見た土橋。

いよいよ、二の丸西側の空堀です。右側の二の丸がかなり高く、上から狙われています。

細い通路になっていますが、途中に不自然な窪みがあります。

窪みの脇を見ると竪堀②があります。

ついに二の丸西側空堀に到着です。
右側の二の丸土塁が高いこともあり、圧巻のスケールを誇る空堀になっています。

角度を変えての二の丸西側空堀。
左側が馬出です。

同じポイントから見た二の丸南側空堀。
この一帯は同じ八王子市の滝山城を彷彿とさせる規模です。

馬出を囲む空堀。
草が多い!それでも堀は確認できました。
馬出は私有地と隣接しているので、あまり深くは入り込むことができません。
馬出の空堀沿いを迂回して先ほどの細い通路を通り、土橋②から二の丸に入るのが当時の通路だったと思われます。
二の丸に辿り着くまで幾つもの横矢掛りで多方向から迎撃できるように考えられており、戦いを想定しているのが分かるので、想像しながら歩くと面白い城です。

馬出付近から見た景色。

二の丸南側空堀の堀底から見た馬出。
右側の斜面が二の丸、正面が馬出。

二の丸南側から西側の隅部。

振り返っての二の丸南側の空堀。

北方面を見た二の丸西側の堀底。
竪堀のように斜面になっているのは、堀底が少し埋まったからでしょうか。それとも意図的か。
この堀が躑躅の幅広い空堀へと繋がります。

同じく北方面を見た二の丸西側の堀底。

堀底から見た馬出。

南方面を見た二の丸西側の堀底。
左側が二の丸で、右には馬出。

角度を変えてのショット。
二の丸が凄い高くなっているのが分かると思います。

馬出から見た堀底。

二の丸空堀南西の隅部。土塁の上が二の丸に繋がる通路です。

再び二の丸南側の空堀を通って、城内にある住吉神社に向かいます。
二の丸南側と西側を存分に楽しむことができました。

東側、本丸の下に鎮座する住吉神社。

住吉神社の由緒は片倉城主だった長井氏が応安5年(1372年)に城の鎮守の神として、大阪の住吉大社を勧請したことが始まりとされています。

左側が本丸東側。

神社の鬼瓦や手水舎など至る所に確認できるのが、長井氏の家紋となる一文字に三つ星紋。
一文字に三つ星紋は、戦国時代に中国地方で大大名となった毛利氏の家紋と同じです。
長くなるので詳しいことは割愛しますが、長井氏の始祖は鎌倉幕府の御家人だった大江氏。
同じく大江氏を始祖に持ち、現在の神奈川県厚木市を与えられ毛利と名乗ったのが、後の大大名となる毛利氏です。
一文字に三つ星紋は大江氏の家紋だった為、大江氏の流れをくむ長井氏と毛利氏は同じ家紋です。

住吉神社の裏側から本丸東側の空堀を見に行きます。

本丸から見た空堀はこの場所です。
この空堀が竪堀となって南側の空堀と合流します。
しかし、草が多く蜘蛛の巣が多かった為に先に進むことは断念。

引き返して、神社の参道から本丸東側空堀を見てみます。
高く盛り上がった箇所が土塁です。

サイドから見ると草は多いですが空堀状になっています。
当時はこの空堀が本丸北側まで繋がって、本丸全体を囲んでいたようです。
つまり住吉神社は当時の堀底に鎮座していることになります。

住吉神社から細路地に入ると、本丸南側の空堀に抜けることができます。

再び本丸南側の折れの空堀を進みます。
何度見ても魅力的な遺構。

本丸竪堀から再度、二の丸に戻ります。
変質者の如く何度もぐるぐるこの辺りを徘徊しました。

天然の要害の奥の沢も整備されて下に降りることができます。
沢の麓には水が流れており橋が架けられています。

橋から見た片倉城。
奥の沢が片倉城北側の守る天然の堀になっています。

奥の沢の山麓部。
見た感じは完全に竪堀のようになっています。自然地形の沢に人工的に手を加えたような形状です。

片倉城の山麓に残る沼。
この沼は当時、蛇行して流れていた湯殿川の一部です。

現在の湯殿川と片倉城。
素晴らしい遺構を見た後は、いつも清々しい気分になります。天気も良くて最高の1日となりました。
片倉城はマイナーな感じではありますが、この投稿を見て、行ってみたいと思ってもらえる方が、1人でもいれば嬉しいですね。アクセスも良く、良好な遺構が残っているので行く価値のある城です。
総括
城郭北側は奥の沢が天然の要害となり、強い防御力となっています。
逆に南側は人工的な土木工事によって防御力を高めており遺構も良好。
曲輪を張り出すことで横矢を造り出し、土橋や馬出で計算された防衛設計は、コンパクトな城でありながらもかなり技巧的です。
確証はないものの、遺構の規模からすると後北条氏の時代に改修されたのではないかと想定できます。
北条氏の本拠地に繋がる鎌倉街道を抑えているあたりもポイント。
同じく北条氏の支城の八王子城も近いことから、八王子城の支城だったのでしょうか。
最後に
時期的に草が生い茂って、蜘蛛の巣があまりにも多すぎた為、断念した道もありました。
時期をずらして改めて訪城したいと思います。

