【茨城県】水戸城

日本100名城土塁,堀切,復元城門,復元櫓,日本100名城,現存城門,空堀

CASTLE DATA FILE.125

登城日:2026年8月9日
交通手段:JR常磐線「水戸駅」徒歩5分
ステータス:日本100名城・県指定史跡
ジャンル:連郭式 平山城
遺構:薬医門1棟・藩校・土塁・空堀
復元建築:大手門・二の丸角櫓・土塀・練塀
スタンプ:弘道館 受付脇で押印
御城印:弘道館敷地内 売店で購入
撮影:Nikon D750

徳川御三家 水戸徳川家の居城。土造りの巨大城郭を徹底解説

8月に入って最初の登城は水戸城からです。

個人的には水戸市に来るのは約16年ぶりとなります。
城めぐりを始める前、水戸市には以前の仕事で何度も来たことがありましたが、水戸城には一度も行ったことがありませんでした。

水戸城は日本100名城に選定され、徳川御三家の水戸徳川家の居城として有名です。

都内から朝5時半の電車に乗り、旅のスタートです。常磐線の普通列車に乗り、8時に水戸駅に到着しました。

懐かしいJR水戸駅。
天気は曇り時々雨の予報でしたが、所々に晴れ間も見えています。

水戸駅前の水戸黄門像。
黄門様は水戸藩2代藩主 徳川光圀がモデルになっています。

父の初代藩主 徳川頼房は徳川家康の11男。つまり、黄門様の徳川光圀は徳川家康の孫にあたります。

像の裏手に見える森が水戸城の二の丸。
水戸駅北口の目の前に城があるので、アクセスの良さもポイントのひとつです。

まずは大手門を目指します。

駅前から見た二の丸角櫓。
水戸駅北口はペデストリアンデッキになっており、縦横無尽に歩道橋を巡らせています。

デッキの上から二の丸南西に、二重の櫓が見えるので注目です。

見上げるようにそびえ立つ二の丸角櫓。
二重櫓の両側に続櫓が接続されてL字型になっています。
後ほど内部にも行きますが、二の丸角櫓は2021年に復元されました。

完全に街と一体化しています。
それよりも驚くのは、地上面と二の丸の高低差と切り落としたような急な斜面。

下から見上げた二の丸角櫓と土塁。
20mくらいはありそうです。

二の丸土塁の下は、市毛水戸線という一般道になっています。
右側が二の丸、左側が三の丸。曲輪を分断する堀切になっており、堀底に道路を開通しています。

上り坂になっており、奥に見えるトンネルが大手橋です。

堀底から見た本丸土塁。
こんなに迫力ある堀切は初めて見ました。

水戸城は土の城として有名ですが、その所以たる遺構の痕跡を、茨城県の中枢 水戸駅の目の前で見ることができます。

同じく二の丸の土塁。張り出した箇所には大手門があります。
直線ではなくクランクさせることで、死角を減らして横からも攻撃できる設計になっています。

土塁の上には土塀が復元されており、二の丸角櫓と大手門までを囲んでいます。今の時期は草が多くて見えません。

大手橋の脇にある階段を登ると、三の丸となり大手門広場があります。
左側が水戸藩校の弘道館、右側に進むと二の丸になります。

三の丸から二の丸に架かる橋が大手橋。
二の丸の入口に巨大な楼門となる大手門が出現!

水戸城で最も格式の高い門であり正門でした。

水戸城は三の丸、二の丸、本丸、下の丸の曲輪が直線的に連なった連郭式の平山城です。

水戸城は幕末まで存続した近世城郭ですが、1591年に入城した佐竹義宣が大改修をしたものが基本ベースとなり、水戸徳川家時代に改修が繰り返されました。

骨格は完全に戦国期の城です。

大手橋から見た堀切。
左側が二の丸、左側は三の丸ですが木で見えません。しかし、堀底となる道路からの高低差は伝わります。

大手橋から反対側も見てみます。
右側が二の丸で左側が三の丸。

現在の大手橋は昭和10年に鉄筋コンクリートで架け替えられました。
古写真が残っており、見比べると擬宝珠を含めたフォルムは当時と同じです。

大手門は高さ13m、間口17mで圧倒的な存在感!
明治時代に解体されましたが、発掘調査と古写真を元に2020年に復元されました。

鏡柱の太さを見ても、大手門の規模の大きさが伝わります。

水戸城の特色として、大手門の脇に練塀が設けられており、大手門と併せて復元されました。

粘土の間に軒平瓦が重ねられており、瓦で模様を創り出しています。美的センスが光る仕様です。
大手門復元の機運が高まり、発掘調査が開始された際に練塀が発見されました。

現在の練塀は外観を復元したもので、内部には発掘調査で発見された練塀が保存されています。
見落としてしまいそうですが、下部がスケルトンになっているので、当時の練塀を見ることができます。

周囲の土塁が崩れて土の中に眠っていたものが、大手門の復元に伴う発掘調査で発見された時は、驚いたことでしょう。

内側から見た練塀。
この練塀の凄さは装飾だけでなく、この2.7mにも及ぶ壁の厚みです。

弾丸も通さぬ強度を誇ります。このような袖塀を据え付けた城門は全国で水戸城だけです。

大手門の扉は1枚で900kgという規格外の重さがあるそうです。

当然、これだけ扉が重くて大きければ、取り付けられる金具も大きい!
扉側に付いた横長の八双、柱側に付いた肘金、肘金の上に付いた壺金。全ての部材が大きい!

梁には松の木が使われています。
柱には欅が使用されており、伝統的な工法で復元されています。

大手門は佐竹氏が城主だった1601年頃に建てられ、時代と共に何度か建て替えられました。

大手門には番所が設けられ、内部には二階に上がる階段もあります。内部は非公開です。

大手門の枡形。
かなり広めの枡形空間で、土造りの枡形に新鮮さを感じます。

6月に訪城した秋田県の久保田城で土造りの枡形に感動しましたが、再びハイクラスな枡形に出会いました。
久保田城は水戸城を大改修した佐竹義宣が移封となり、築城した城です。

枡形と大手門。
真壁造りという縦の柱と横の長押の間に、漆喰の壁を形成しているので、外部に木材が見えるのが特徴です。

ちなみに最初に見た二の丸角櫓は、木材が完全に外壁の漆喰に埋め込まれた大壁造り。
それぞれの味があるので、他の城でも注目して見ると面白いと思います。

さらに注目すべきは大手門屋根の最長部にあたる大棟の白い箇所。

棟飾瓦には、練塀と同じく模様が施されており、白く塗られています。
細かなところにセンスを感じ、他の城との違いを見ることができます。

鬼瓦と軒丸瓦には水戸徳川家の家紋「水戸六つ葉葵」を見ることができます。
発掘調査では当時の瓦も多く出土しています。

大手門枡形と土塁。
土塁の高さは5mくらいでしょうか。

水戸市立第二中学校の敷地内なので立ち入りはできませんが、土塁は二の丸を囲むように続いています。

振り返っての大手門枡形。

大手門付近にある大日本史編纂地之地碑。
大日本史は水戸光圀によって開始され、240年に渡って水戸藩の事業だった日本における歴史書。

明治時代に完成し、江戸時代には教科書としても使われました。
全国から資料を集めたことから、有名な水戸黄門へと繋がります。

水戸彰考館では大日本史編纂に関わる業務が行われていました。同場所には二の丸展示館があります。
展示館の前は水戸学問の道と呼ばれており、保育園、小学校、中学校、高校など二の丸全体が教育エリアになっています。

二の丸展示館内には発掘調査で出土した遺物や、日本遺産「近世日本の教育遺産群」の弘道館や、偕楽園などの教育遺産に関する情報や資料が展示されています。

感動したのは中学生が授業の一環で作った案内新聞。
水戸城の攻略の仕方、歴史、人物など学生さんが調べた内容がひとつひとつ手作りで新聞化されています。

ワタクシでは思いもつかない学生さんらしい発想や観点で書かれており、とても感動しました。

水戸に脈々と流れる教育というDNAの一部を見たような気がしました。

水戸学問の両脇に並ぶ学校の塀には、鉄砲狭間風の穴が施されており、この一帯に城郭雰囲気を感じることができます。

この道は普通に自動車も走る一般道です。

水戸第三高校と茨城大学附属小学校の間には、二の丸門櫓に向かう特別通路がありますが、9時30分に開門のため先に本丸に向かいます。

さらに少し進むと水戸城跡の大シイがあります。
佐竹氏時代から自生していると伝わり、樹齢推定400年。

水戸城の様々な長い歴史を見てきた木です。

水戸城跡の大シイの先には杉山門があります。

杉山門の前には杉山坂があります。
1625年に初代藩主 徳川頼房が行った大改修の際に整備された坂です。

藩主の御殿があった二の丸に直接通じる重要な門でした。

写真を撮影しているあたりは、現在 一般道になっていますが、当時は土塁で枡形を形成していました。
現地の解説板には絵図が掲載されているので、絵図と照らし合わせて見ると分かりやすいと思います。

杉山門の先には本城橋があり、橋を渡ると本丸です。
二の丸と本丸を繋ぐ唯一の門で、この辺りも戦国期らしさが残ります。

本丸と二の丸を仕切る大堀切!

個人的には水戸城における一番の見どころスポット。規格外の堀切は見る者を圧倒します。

本丸側の角には、本丸隅櫓が建っていました。
形は二の丸角櫓と同じで、二重の櫓にL型に続櫓が接続していました。

堀底には現在 水郡線が通っています。
堀底までの深さはなんと22m!

間違いなく土造りの城としては、全国で一番スケールの大きな、最強の堀切です。

本城橋を渡ると本丸で、橋詰門跡があります。
右側には本丸の高い土塁。

橋詰門も大手門と同様に佐竹義宣が造りました。
現在、本丸跡は水戸第一高校・中学校となっており、敷地内の決められた場所のみ見学することができます。

学校敷地内には現存の薬医門が残っています。
1600年頃に佐竹義宣によって造られた門で、当初は先ほど通過した橋詰門に建っていました。

大手門とはテイストが全く異なり、重厚感と風格があります。当時の屋根は茅葺で、そこから瓦葺となり、近代に銅板に葺き替えられました。

佐竹氏は源氏の血筋の名家で、豊臣政権の時代には54万5千石をも治める大大名でした。
関ヶ原の戦いで西軍とも東軍とも立場をハッキリしなかったことから、徳川家康によって秋田県の出羽国に移封されます。

出羽国で壮大な土造りの久保田城を完成させており、幕末まで出羽国を治めました。
明治の廃城令で多くの城が破却されて取り壊された中で、久保田城は残城処分で取り壊しを免れました。
しかし、明治13年の久保田城下大火によって大半を焼失してしまい、番所のみが現存しています。

その観点から見ても、佐竹氏時代の薬医門はとても貴重です。260年以上治めた久保田城には建築物は残っていませんが、12年間治めたこの地に佐竹氏の遺構が残っているわけですから。

間口は6.5m、高さ7.5m。
水戸城は1945年の空襲によって、建築物は焼失しました。

薬医門は転々と移築されており、焼失を免れました。1981年に元あった本丸に戻ってきました。

鏡柱と控柱。
部材が太くかなり立派です。戦災を免れて今でもこの姿を見れること自体、奇跡的なことです。

切妻部と懸魚。
貴重な建築物ですから、細かなところまで見てみます。

寺院建築のような古風で趣がある感じが、味があって美しさを感じます。

再び本城橋を渡り、通称ロマンス坂を下って本丸周辺を歩きます。

横から見た本城橋。
江戸時代は土橋でしたが、明治になって水郡線を通すために、土塁にトンネルが掘られました。

その後、土橋ごと破壊して橋が架けられました。

本丸は江戸時代には倉庫として利用されており、城の実質的な機能は二の丸に集約されていました。

ロマンス坂の中間には柵町坂下門があります。

解説板にはかつての姿が撮られた古写真が掲載されています。
脇には番所のような建物が付随しています。
しかし、二の丸南側を守る門としては、やや質素にも感じます。

柵町坂下門は高麗門形式で、鏡柱と控柱に切妻屋根が乗っているのが特徴です。

門の前には徳川頼房公像があります。
冒頭で説明した通り徳川頼房は水戸初代藩主ですが、3代将軍 徳川家光と一つしか歳が変わりませんでした。

家康にとって頼房は息子、家光は孫にあたります。つまり、家光にとって頼房は一つ歳が違う叔父になります。
徳川家光は兄弟事情もあり、頼房をかなり信頼していたようです。

ロマンス坂を下りると国道51号線に繋がります。
交差点から見た二の丸。

続いて、51号線から見た本丸大堀切と本城橋。
様々な角度から堀切を見ましたが、この場所から見た堀切が一番美しかったです。

同じく51号線から見た大堀切。
この角度から見える本丸南西の角に、本丸隅櫓が建てられていました。

明治5年まで現存していましたが、放火により焼失。

規格外の高さを誇る土塁に、二重櫓が上がっていたことを想像するだけでも痺れます。
本丸隅櫓は古写真も残っています。

本丸沿いの51号線を進み、JR常磐線の陸橋辺りからのショット。

右側手前が下の丸、正面の白い建物あたりの森が本丸、奥の高層建物辺りが二の丸。水戸城の巨大さが伝わります。

現在はビルやマンションが建ち並びますが、当時は千波湖が南側全体を囲んであり、水戸城の堀の役割をしていました。

陸橋から見た下の丸。
本丸から一段下がった曲輪であり、本丸東側を防衛する曲輪だったと思われます。

奥の方が急激に土塁が高くなっているのが本丸。

下の丸の東側。
陸橋の階段を降りれば、下の丸や本丸北側まで周囲を歩くことができます。

陸橋を降りて下の丸南東側を下から見てみます。
水戸城には4基の隅櫓と、天守代用の三重櫓が1基建造られました。4基の櫓の一つ、下の丸隅櫓は南東隅のこのあたりに建っていました。

下の丸東側。
基本的に水戸城は質素な造りだったようです。

水戸藩は定府大名でしたので、参勤交代がなく藩主が江戸に常駐していました。それ故に近世城郭としては、水戸城はかなり質素であったと伝わります。

下の丸北東隅。
城の骨格が綺麗な状態で残っています。

北側から見た、本丸と二の丸の大堀切と堀底を通過する水郡線の線路。
素晴らしい遺構は様々な角度から見てみたくなる性格です。

反対側からのショット。
線路の奥が本丸北西側で、当時は月見櫓が建っていました。

月見櫓もL字型の二重櫓でした。

北側二の丸の土塁。
この上に見晴台があるので行ってみます。

最初に見た杉山坂をのぼって、二の丸北側から再び入城します。
左側のグラウンドには高い土塁も確認できます。

杉山坂の頂部は先ほど歩いた水戸学問の道となり、左側が本丸、右側は大手門、正面には藩の中心となる御殿が建ち並んでたいた水戸第三高校。

杉山坂から見た杉山門。

杉山門付近にある見晴台の入口。
学校のグラウンドの一部が観光用の通路として整備されています。

木が多くて良い景色とは言えませんが、目の前に那珂川が流れています。

水戸城の北側はこの那珂川が天然の堀として機能しており、強力な防衛機能が備わっています。
天然の要害を巧みに活かした城造りが、まさに戦国期らしさです。

9時30分が過ぎたので、二の丸角櫓への道が開門しました。
見晴台と同様に、学校の敷地内を観光用で整備したような道。

このあたりの二の丸南側には、御三階と呼ばれる三層五階の天守代用の櫓が建てられました。
昭和まで現存していましたが、残念ながら大空襲によって焼失しました。

破風がないシンプルな造りで、一層目には瓦が埋め込まれた海鼠壁なのが特徴的。
規模は12m×12mの正方形で、高さは明らかになっていませんが、5階建てなので16m以上はあったと考えられます。

復元された土塀と二の丸角櫓が見えてきました。
辿り着くまで迷路のようでワクワク感を掻き立てられました。

二の丸角櫓。
中央に二重の櫓とL型に続櫓が接続。

二の丸角櫓は古写真などが無かった為、本丸隅櫓の古写真をモデルに復元されました。

大手門同様に、大棟部には棟飾瓦が使われています。棟鬼瓦には水戸徳川家の家紋が輝きます。

出土した礎石は地中に保存されていますが、現物が展示されています。

職人の技は細部に宿ります。
凹凸のある石の上に乗せられた横架材。ミリ単位で木を削り、隙間なくピッタリに石と同じ形に加工します。

光付けと呼ばれる伝統的な大工技術。

櫓入口。
白漆喰と黒の下見板貼りが美しい。コンパクトな櫓ですが、細かなところまで再現されています。

続櫓内部。
伝統的な工法によって木造復元されており、内部は展示品や復元に関する映像、資料などを見ることができます。

やはり木造復元は素晴らしい。
城のような伝統的な建築物があってこそ、日本の技術継承が可能となります。
城の復元とは様々な観点から見ても必要です。

館内に展示されている水戸城の門扉。
この門扉は茨城県坂東市の万蔵院で発見され、2009年に水戸市に寄与されました。

この門扉の発見によって、水戸城跡が大きく動き出します!

万蔵院では水戸城大手門と伝えられていました。
門の寄与をきっかけに大手門復元の会が結成され、一気に復元の機運が高まりました。

発掘調査が行われ、大手門と二の丸角櫓が見事に復元されました。

大手門の門扉としては小さいことから、結果的には城内のいずれかの門扉であったようですが、この門の発見は水戸城にとって大きなターニングポイントになりました。

続いて三の丸にある弘道館に潜入です。
弘道館は水戸藩の藩校で、水戸城内の三の丸に1857年に本開館しました。

弘道館は水戸藩9代藩主の徳川斉昭が推進した、藩政改革の重要施策の一つとして開設されました。
弘道館の正門は国の重要文化財に指定されています。

弘道館は藩校としては全国一の規模を誇り、学問として儒学、礼儀、歴史、礼儀、天文、数学、地図、和歌、音楽。
武芸では剣術、槍、柔術、兵学、鉄砲、馬術、水泳など多様な科目が教えられており、総合大学のような施設でした。

正門の柱には銃痕が残っています。
水戸藩では徳川斉昭の藩主相続で門閥派の諸生党と改革派の天狗党の藩内抗争が続きました。

斉昭が世を去ると抑えが効かなくなり、諸生党が権力を握り天狗党を弾圧します。

明治維新で形勢は逆転して諸生党は会津戦線で戦いますが、会津若松城の落城により水戸城を奪取しようと水戸に戻り、三の丸にある藩校弘道館を占拠します。

城を守る天狗党側と「弘道館戦争」が勃発し、激戦が続きますが諸生党は次第に劣勢となり、千葉方面へと退却。八日市場で水戸藩追討軍に敗れ壊滅しました。

弘道館の番所。
通用門を通る人を監視する施設となります。

内部は畳敷きで小さいながらも快適な空間となっています。

正庁は弘道館の中心的な建物で、御殿建築の様式を持つ立派な書院造り。国の重要文化財に指定されています。

鬼瓦ひとつを見ても、城の御殿並みの格式ある装飾。

内部に入ってすぐ、諸役会所という部屋があり、そこに掛けられた尊攘の掛軸。
かなりインパクトがあり身体が震えました。

徳川斉昭の命によって書かれたこの2文字は、明治維新のスローガンとなる尊皇攘夷へと繋がります。

正庁側から見た諸役会所。
長押に掛けられた扁額は、徳川斉昭の書で弘道館と書かれています。

三の間から見た尊攘。
諸役会所は来客や諸客の控室でした。

縁側と長押に掲げられた扁額

この扁額には徳川斉昭直筆の「游於藝」が掲げられています。
論語の一説で、六芸とは礼儀作法、音楽、弓術、馬術、習字、算術を指しており、
文武に凝り固まらず、悠々と芸の道を極めるという意味があります。

徳川斉昭は学びの場として弘道館を開設し、同じくして「衆とともに楽しむ場」として偕楽園を開園させました。
偕楽園は現在、金沢の兼六園、岡山の後楽園と共に日本三名園の一つとなっています。

正席の間。
正席の間と隣の二の間、三の間は儀礼・公的な部屋で、この正席の間は藩主が隣席して文武の試験が行われた重要な場所でした。

正席の間の脇には、畳廊下と奥に10間畳廊下があります。

畳廊下の脇にある湯殿。
各地で藩校を幾つか見てきましたが、湯殿は初めて見ました。

湯殿の隣にはトイレも併設。
しかも畳敷き。大小2つのトイレが設置されており、手を洗う洗面所もあります。

建物の一番奥にある至善堂。
藩主の休息の場として使われていました。

この御座の間では、最後の将軍 徳川慶喜が明治維新で将軍職を辞してから、恭順の意を表して静かに朝廷の命を待った場所でもあります。
徳川慶喜は斉昭の7男。

徳川慶喜はこの場所で何を思いながら時を過ごしていたのでしょうか。
落ち着いた小さな空間は、なんとなく徳川慶喜の想いが染みているように感じました。

展示されている長持。
将軍職を辞した徳川慶喜が、謹慎していた上野の寛永寺から水戸に移動する際に使用された当時の長持と伝わります。

さすが将軍らしい豪華なフォルム。何よりもこれほど重要で価値の高いものが残っており、展示されていることに驚きます。

撮影禁止エリアには、当時の教科書や資料などが展示されています。
弘道館はとても見応えがあり素晴らしかったです。

弘道館の裏手には孔子廟があります。
門しか見れなかったのですが、孔子廟は神儒一致、文武一致の建学精神に基づいて、徳川斉昭が儒学の祖となる孔子を祀る為に建設されました。

下り棟の下部あたりには架空の動物 鬼犾頭・鬼龍子を設置した珍しい門です。

孔子廟の奥には鹿島神社があります。
鹿島神社は徳川斉昭が弘道館を開設するにあたって、仁孝天皇から勅許を得て成立したとされています。

1945年8月の空襲で焼失しましたが、昭和49年に伊勢神宮の別宮となる風日祈宮の旧殿一式が譲渡されて、建築様式や資材をそのまま用いて移築されました。

孔子廟の前には弘道館の学生や教職が歩行した通路が復元されています。

通路に接続した土塁。
徳川斉昭は弘道館の建設の際に、三の丸を改修して堀と土塁を造成しました。

この土塁と堀は弘道館の絵図に合わせて復元されました。

枡形土塁や堀と併せて、北柵御門も復元されました。
当時は番所も置かれており、教職や役人のみが通行を許されていました。学生は正門脇の通用門から出入りしていました。

北柵御門の脇にある三の丸北側の土塁と堀。
こちらは当時の土塁で、復元された土塁はこの北側土塁の高さに合わせて復元されました。

三の丸西側にも土塁と空堀が残っています。
こちらは大規模で深い堀と高い土塁で形成されています。

右側が三の丸土塁で、かなりの高さがあります。

左側の平地に比べて、城内となる右側の三の丸土塁は高くなっており、上から攻撃できるように設計されています。

道の反対側はもっと長い空堀が残っています。
城内と町屋地区を区画する需要な堀でした。

堀幅は約30m、堀の深さは約14m。

水戸城は石垣は一切使わない土造りの城ですが、徳川家康の時代と、三代将軍 徳川家光の時代に、石垣造りの城にするための命が出されています。

一部、石垣の準備もされていたようです。

以前テレビで見た時は、川を使って石垣を運ぶのが困難で頓挫したと言っていたような気がします。

徳川御三家の尾張徳川家は名古屋城、紀州徳川家は和歌山城と、いずれも御三家に相応しい石垣の立派な城です。
水戸城だけが土造りの城なので違和感がありましたが、実際に見てみると戦国っぽさがあって魅力的な城だなと感じます。

土橋も残っています。
江戸時代の絵図でも、この土橋は描かれています。

反対側にも空堀が残っているので土橋を撮影。
絵図でこの空堀は水戸駅の方まで続いており、千波湖に接続されていました。

現在は市街地化によって、この先の空堀は埋められ、千波湖も埋められて規模が小さくなっていますが、外堀として強固な防御が敷かれていました。

土橋もの先は三の丸跡で現在は県立図書館が建てられています。

土橋から見た三の丸土塁。

同じく三の丸跡から見た土塁。
高さ5m近くありそうです。

三の丸の広場。
茶色の建物は三の丸庁舎。目の前の広大な敷地には馬場と調練場がありました。

水戸城は串団子のような連郭式のシンプルな縄張りですが、一つ一つの曲輪がとにかく広い!
全体的な城のテイストが、6月に訪城した佐竹氏の居城 久保田城に何となく似ているように感じました。

佐竹氏時代の骨格を活かして改修されたというのは信憑性が高いように思えます。

水戸城の遺構巡りはほぼコンプリートしましたが、まだ終わりません。

水戸駅の近くには水戸東照宮があるので、最後に寄りました。
見たことのないような、金と黒の派手な鳥居。徳川家の家紋も描かれています。

鳥居を抜けて下から見上げると、黄金に輝く常葉山時鐘門が見えてきます。

通行する人を睨むように見つめるのは、中国で善悪を見抜く力を持つと伝わる神獣 カイチ。

常葉山時鐘は2代藩主 徳川光圀が水戸城の時報として鋳造しました。
時鐘は1704年に東照宮に納められ、その後色々ありつつも、今でも東照宮に納められています。

時鐘を吊るしていた鐘楼が、東日本大震災によって損傷したことで、2026年に4月に新たな鐘楼と併せた門が新設されました。

水戸東照宮社殿。
1621年に徳川家康を祀る神社として創建されました。社殿は国宝に指定されていましたが、空襲で焼失しました。

水戸東照宮は高い場所にあり、絵図では先ほど見た三の丸西側の空堀と土塁が東照宮あたりまで伸びており、この付近は千波湖でした。

水戸東照宮の下には宮下銀座という飲食街になっています。
16年以上前に水戸に来ていた時は、この宮下銀座でよく飲んでいたので懐かしい。

偕楽園も行きたかったのですが、4時間半休憩なしで歩き続けたので、次回の宿題です。

水戸市全体で盛り上げており、雰囲気も良くて素晴らしい街でした。


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