水戸城【日本100名城】

水戸城は12世紀末~13世紀初頭に馬場氏が城館を備えたのが始まりです。以降 江戸氏、佐竹氏と城主が変わり、江戸時代は徳川御三家の水戸徳川氏が治めて幕末を迎えました。
陸路・水運の要衝に立地し、天然の要害であったことから重要視された城でした。石垣を持たない土造りの平山城としては、国内最大級の規模を有します。
お城ニュース ※外部リンク
2025年7月11日
水戸城御城印3種発売 徳川家ゆかりの御紋や和紙
水戸城の見どころ

薬医門

大堀切

二の丸角櫓

練塀

杉山門

空堀

柵町坂下門

弘道館

橋詰門

土塁

水戸城は本丸から三の丸まで連なった曲輪が展開されており、広範囲に渡って見どころが分散されています。また、水戸東照宮や偕楽園など、近距離に観光スポットもあるのがポイント!
水戸城カルテ
■攻略のレーダーチャート(ポイント)
■ポイント
- JR「水戸駅」の目の前に位置しているのでアクセスは抜群
- 城跡のほとんどは市街地や学校などになっているので遺構は少ないものの、城郭形状はほぼ残っている。元は巨大な城郭だったので遺構は広い範囲に点在している
- 大手門や二の丸角櫓が復元され、街と城跡を一体化して整備している
平均:77/100 ポイント
合計:460/600 ポイント
おススメ度:★★★★☆☆
■見どころバロメーター
■茨城県 主要城郭との比較(ポイント)
※全ての城にそれぞれの魅力があります。当サイト独自のデータになります。

写真でめぐる お城ツアー
名城スタンプと御城印
※スタンプ設置場所や営業時間は最新情報をご確認ください。
■日本100名城スタンプ設置場所
・弘道館 受付脇
【営業時間】10:00~16:00
【休業日】不定休
■御城印販売
・徳川ミュージアム ※徳川ミュージアムでは、水戸徳川家公認御城印のみ取り扱っています。
水戸市見川1-1215-1
【開館時間】10:00~17:00(最終入館 16:00)
【休館日】なし ※年末年始・臨時休館あり。
・水戸観光コンベンション協会
茨城県水戸市三の丸1-5-38 茨城県三の丸庁舎1階
【営業時間】8:30~17:15
【休業日】土日祝日、12月29日~1月3日
・水戸観光案内所
茨城県水戸市宮町1-1-1 JR水戸駅改札口脇
【営業時間】9:00~18:00
【休業日】12月29日~1月3日
・北澤売店(要弘道館入館料)
茨城県水戸市三の丸1-6-29 弘道館内
【営業時間】10:00~16:00
【休業日】不定休




水戸城 周辺天気
| 別名 | 馬場城、水府城 |
|---|---|
| 城郭構造 | 連郭式平山城 |
| 天守構造 | なし 御三階櫓・独立式層塔型3重5階(1766年再建、非現存) |
| 築城主 | 馬場資幹 |
| 築城年 | 建久年間(1190年 – 1198年) |
| 主な改修者 | 佐竹義宣、徳川頼房 |
| 主な城主 | 大掾氏(馬場氏)、江戸氏、佐竹氏 徳川氏 |
| 廃城年 | 1871年(明治4年) |
| 遺構 | 薬医門1棟・藩校、土塁、空堀 |
| 指定文化財 | 茨城県史跡、国の特別史跡(藩校) |
写真で見る水戸城
マップ
アクセス
■公共交通機関
・JR常磐線「水戸駅」から徒歩約8分
■車・バイク
・北関東自動車道「水戸南IC」から20分
・東水戸道路「水戸大洗IC」から20分
・常磐自動車道「那珂IC」から20分
・常磐自動車道「水戸IC」から25分
■駐車場
・弘道館 無料駐車場、近隣に有料駐車場あり
水戸城について
水戸市の中心部、水戸駅の北側に隣接する丘陵に築城された連郭式平山城である。北部を流れる那珂川と南部に広がっていた千波湖を天然の堀としていた。台地東端の下の丸(東二の丸)、から西に向かって本丸、二の丸、三の丸が配され、それぞれが空堀で仕切られていた。城郭は主に土塁と空堀で構成された戦国期東国の典型的な城である。
城の歴史は平安時代まで遡り、当初は馬場氏の居館が現在の本丸付近にあったと考えられている。その後、馬場氏を追いやった江戸氏が水戸城を居城とした。江戸氏の時代には二の丸が築かれ、現在の本丸が内城、二の丸が重臣の屋敷地などになったとされている。
1590年、小田原参陣の功により所領安堵を得た佐竹氏は水戸城を強襲し、江戸氏は滅亡した。佐竹氏は本拠を太田城から水戸城に移し、水戸城は常陸国主佐竹氏の居城となる。佐竹氏時代に、三の丸、二の丸、本丸、下の丸が連なる、現在の縄張りの基礎ができたと考えられている。
佐竹氏は関ヶ原の戦いで中立を守ったことで秋田に転封となり、徳川家の城として水戸城には武田信吉が封じらた。しかし信吉は翌年嗣子なく急死したことから、徳川頼宣が封じられ、以後御三家(水戸徳川家)の居城として明治を迎える。同じ御三家の尾張藩の名古屋城、紀州藩の和歌山城と違って戦国遺風が濃い連郭式の城である。水戸徳川家は参勤交代を行わない江戸定府大名であったため、水戸城が藩主の居城として使われることは少なく、城内の建築物は質素であった。
江戸時代の御殿は、二の丸に現在の茨城県立水戸第三高等学校と茨城大学教育学部附属小学校・附属幼稚園にまたがる形で存在した。三の丸には藩校などがあり、本丸は主に倉庫として使用されていたとされる。本丸を中心として使用していたのは江戸氏の頃とされる。江戸近隣の城は江戸幕府に憚り天守建造はしないが、それは御三家の水戸も例外ではなかった。しかし、外見は三層、中は五階建ての御三階櫓と称す大型の櫓があり天守閣の代用とされた。御三階櫓は明治の解体を免れたが、太平洋戦争時の水戸空襲で焼失し、以後再建されていない。
三の丸付近が城址として整備されており、土塁・空堀が現存している。三の丸には水戸藩藩校であった弘道館(国の重要文化財、特別史跡)が現存しており、弘道館の西側には旧茨城県庁舎が建っている。また、薬医門(茨城県指定有形文化財)は銅板葺に変更されたものの現存しており、現在は旧本丸にある茨城県立水戸第一高等学校・附属中学校に移築されている。この門は佐竹氏時代の建物と言われており現存する水戸城の建物で最古のものである。
現在の城跡は文教地区となっており、立ち入り禁止のエリアが多い。水戸一高の他、水戸三高、水戸市立水戸第二中学校、水戸市立三の丸小学校、茨城大附属小・幼稚園が建っている。三の丸小学校は校門や塀、校舎の多くを和風にしている。
明治期に二の丸と三の丸の間の堀は道路用地(県道232号市毛水戸線)、本丸と二の丸の間の堀は鉄道用地(JR水郡線)になった。
天守代用 御三階櫓
水戸城の御三階櫓の初代は「三階物見」と呼ばれる三重櫓であり、1764年(明和元年)に焼失した当時は銅板葺であったが、以前は茅葺であり極めて簡素であったという。焼失後、1766年(明和3年)に再建され三階櫓という実質上の天守となった。2代目の御三階櫓は、外観3重内部5階の最上重の入母屋以外の破風のない層塔型で、櫓台はなく、地面に敷かれた礎石の上に建っているものであった。
下の部分、一階二階部分は海鼠壁であり、三階四階五階部分が白壁で、外見は三層、中身は五階であった。昭和戦前期までは残っていたが、1945年(昭和20年)8月2日の水戸空襲により焼失した。なお、空襲等太平洋戦争の戦災で焼失した天守相当の建築のうち復元されていないのは現在は水戸城だけである。
水戸城の歴史
馬場氏・佐竹時代
築城は古く平安時代末期まで遡る。常陸国の大掾であった平国香の子孫である馬場資幹により建久年間(1190年 – 1198年)に築かれたとされる。以後、大掾氏(馬場氏)の居城となった。このため、佐竹氏が入城するまで「馬場城」と呼ばれていた。
1416年(応永23年) 室町時代に入り、上杉禅秀の乱で、当主の大掾満幹は上杉禅秀側に加担したが、足利幕府側についた江戸通房に敗れた。これにより、代わって江戸氏が新城主となり、その支配は以後7代(約170年間)続いた。以後、江戸氏は度々主家である佐竹氏と対立する。
- 1427年(応永34年)大掾満幹が鹿島社の青屋祭に奉仕するために常陸府中(石岡)に向かった隙を突いて、江戸通房が水戸城を占拠する。
- 1510年(永正7年) 通雅・通泰の父子は主家と同格の地位を得た。
- 1590年(天正18年) 豊臣秀吉の小田原征伐の際に江戸重通は北条氏側に加担し、逆に佐竹義重・義宣父子は秀吉軍に参陣した。これにより佐竹氏は秀吉より常陸一国54万石を与えられた。義重・義宣は江戸氏の籠城する馬場城を攻め、1594年(文禄3年)に重通を敗走させた。
義宣はそれまでの居城であった太田城から、水戸城を重要な拠点と定めここに本拠を移した。義宣は入城するとすぐに城を大改修し、城名もそれまでの馬場城から水戸城に改めた。ところが、佐竹義宣は1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いでは曖昧な態度で終始したため、1602年(慶長7年)には徳川家康によって水戸から追放され、出羽国秋田に転封させられた(久保田藩)。
同年に家康は、奥州を睨む好地として五男の武田信吉を15万石で水戸に入城させたが、翌1603年(慶長8年)に嗣子無く没したので、十男の徳川頼宣を20万石で入城させた。
徳川時代
1609年(慶長14年) 頼宣には駿府藩50万石を与え、末子で十一男の徳川頼房が下妻城より25万石で入城して以降、廃城まで水戸徳川家の居城となった。頼房は城と城下町を拡充して二の丸に居館を構えた。天守と称するものは幕府に憚って構えず、破風などのない、巨大な三階櫓(内部は5階建て)を二の丸に建造した。また、櫓・多聞(長屋)も極端に少なく塀を多用したが、この質朴さは水戸徳川家の家風をよく表している。藩校の弘道館は1841年(天保12年)に9代藩主の斉昭によって開かれた(斉昭は翌年の1842年(天保13年)に日本三名園の一つである偕楽園を城の西部に開いている)。
幕末には水戸藩の藩論が分かれ、改革派の天狗党と保守派の諸生党の対立が起きた。1864年(元治元年)、遂に天狗党が筑波山で挙兵して天狗党の乱が起こった。この対立は明治維新まで続き、1868年(明治元年)には水戸城下で戦闘が行われ、弘道館に立て籠もる諸生党を天狗党が攻撃した。この際に城内の多くの建物が焼失した。
近現代
水戸城は1871年(明治4年) の廃藩置県により廃城となった。翌1872年(明治5年)7月19日に東京鎮台の歩兵2個小隊が駐屯し、東京鎮台の第4分営となった。同年に放火事件が起こり本丸隅櫓を焼失。他藩出身者の入城に反発した犯行とみられ(容疑者として江橋厚が挙げられたが釈放された)、犯人も捕まえられていない。
- 1945年(昭和20年)8月2日 水戸空襲により三階櫓を焼失。
- 1952年(昭和27年) 弘道館が国の特別史跡に指定される。
- 1964年(昭和39年) 弘道館正庁、至善堂、正門および塀が国の重要文化財に指定される(塀は附(つけたり)指定)。
- 1967年(昭和42年) 土塁と空堀が茨城県の史跡に指定される。
- 1983年(昭和58年) 薬医門が茨城県の指定建造物となる。
- 2006年(平成18年)4月6日 日本100名城(14番)に選定された。
水戸城 周辺スポット
水戸東照宮

水戸藩初代藩主徳川頼房公により、元和7(1621)年に徳川家康公を祀る神社として創建されました。
戦前、社殿は旧国宝に指定されていましたが、昭和20年の戦災で焼失し、昭和37年に現在の社殿が造営されました。現在は徳川頼房公も祀られています。
境内には頼房公が奉納した銅灯籠、徳川光圀公が造らせた常葉山時鐘、徳川斉昭公の考案による安神車(戦車)などが現存しています。
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弘道館

水戸藩の藩校として、水戸藩第9代藩主徳川斉昭公により天保12(1841)年8月に創設されたもので、当時の藩校としては日本最大規模を誇りました。
藩士に文武両道の修練を積ませようと、儒学・国学や武術をはじめ、医学・天文学・蘭学など幅広い学問を採り入れた、いわば総合大学というべきものでした。
慶応3(1867)年の大政奉還の後、慶喜公が謹慎した至善堂が今も残っています。
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鹿島神社

鹿島神社は、水戸藩第9代藩主徳川斉昭が創設した藩校弘道館の主要施設として、敷地中央部に建てられました。旧水戸城三の丸の区域に当たります。安政4(1857)年に弘道館が本開館した際、常陸国一宮である鹿島神宮を分祀して成立しました。
昭和20年8月2日の空襲で本殿一式が焼失しましたが、昭和49年、第60回伊勢神宮式年遷宮の後に、伊勢神宮内宮の境内別宮である風日祈宮の旧殿一式(本殿、拝殿、中門及び瑞垣)が特別譲渡・移築されて、現在に至っています。
偕楽園
偕楽園は、弘道館の対の施設として、弘道館創設翌年の天保13(1842)年、徳川斉昭自らの設計で千波湖岸の景勝地に約18haという広大な敷地を有する施設として造成・開園しました。
名称は「衆(領民)と偕(とも)に楽しむ」を由来とし、日を決めて領民にも開放した。
現在も、園内の配置は良好な形で残り、兼六園(金沢市)、岡山後楽園(岡山市)とともに、「三名園」の一つに数えられている。
千波湖
千波湖は偕楽園の一つである偕楽園の下に広がる淡水湖です。約2万年前の氷河期や、6000年前頃まで続いた海面上昇の影響で元となる浅い沼が出来ました。江戸時代初期には水戸城の堀として位置づけられ、人の力で整備され、千波湖が形成されました。その時の総面積は約119万平方メートルにも及び、今の千波湖から水戸駅の方角へ3倍ほどの大きさがありました。
大正時代の初めから荒廃などが目立つようになり、昭和にかけて干拓・開田が進められた際に大部分が埋め立てられ、現在の千波湖の形になりました。
水戸城 周辺宿泊施設

水戸城 周辺グルメ

水戸市の名物は「納豆」・「あんこう鍋」・「うなぎ」などグルメの街です。
日本で初めてラーメンを食べたとも伝わる水戸光圀公にちなんで「水戸藩ラーメン」も人気です!
































